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第十五話 「近づく距離」

第十五話 「近づく距離」


朝五時。


目覚ましが鳴る一分前に、瑞稀は今日も静かに目を開けた。


布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通す。


いつも通りの朝。


けれど瑞稀は、鏡に映る自分の顔を、いつもより少しだけ長く見つめていた。


「……。」


昨夜、何か大切なことを思った気がする。


思い出そうとしても、その記憶は指の隙間から零れる水のように、するりと逃げていく。


理由は分からない。


ただ胸の奥に、小さな隙間ができたような感覚だけが残っていた。



拝殿で祝詞を終えると、父はいつものように背後に立っていた。


「……変わったな。」


不意に、そう告げられる。


瑞稀は、父へ振り返った。


「何がでしょうか。」


「顔だ。」


父は、瑞稀の表情を確かめるように見つめる。


「少し前までのお前は、人を見ようとしなかった。」


「……それに最近は、自分から話すことも増えた。」


瑞稀は少し考えた。


自分では、変わったという実感はない。


「……そうでしょうか。」


父はそれ以上何も言わず、拝殿の奥へ戻っていった。


けれど、その背中はどこか穏やかに見えた。



石段の下では、旭が待っていた。


「おはようございます。」


「はよ。」


瑞稀は旭の隣へ並び、二人で歩き始める。


数日前までと、何かが違う。


交わす言葉の数は、さほど変わっていない。


けれど、二人の間に流れる沈黙の質が変わったように感じられた。


気まずさのない、穏やかな沈黙。


「……旭。」


「何だ。」


「あの日は、ありがとうございました。」


唐突な礼に、旭は一瞬だけ目を瞬かせた。


「……何のことだ。」


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様をお還しした時です。」


瑞稀は、旭をまっすぐに見つめる。


「あなたが道を切り開いてくださらなければ、私の言葉は届きませんでした。」


旭は小さく息を吐き、瑞稀から視線を逸らした。


「当然のことをしただけだ。」


「それでも。」


瑞稀は、静かに続ける。


「ありがとうございます。」


旭は何も答えなかった。


並んで歩く二人の歩幅が重なる。


その時、肩が僅かに触れた。


瑞稀は離れることなく、そのまま歩き続ける。


旭も、何も言わなかった。


それでも、不思議と居心地は悪くない。


ただ、旭の耳だけが僅かに赤くなっていた。



昼休み。


「瑞稀ー!」


芽衣が、いつものように声を弾ませながら駆けてくる。


「今日も一緒にご飯食べるよ!」


「……ええ。」


短い返事にも、芽衣は慣れた様子で笑った。


けれど、弁当を広げると、ふと真剣な表情を浮かべる。


「ねえ、瑞稀。」


「私、まだちょっと実感がないんだよね。」


芽衣は、自分の手を見つめた。


「自分にも、神様とつながる血が流れてるってこと。」


瑞稀は、静かに芽衣を見つめる。


「実感がなくても、よいのだと思います。」


「でもね。」


芽衣は箸を止め、少しだけ俯いた。


「今度は、ちゃんと二人の役に立ちたいの。」


その言葉に、旭がすぐ答える。


「もう十分、役に立った。」


瑞稀も静かに頷いた。


「芽衣が笑っていてくださると、私は安心します。」


芽衣は少し驚いた顔をして、それから、くしゃりと笑った。


「……瑞稀まで。」


「二人とも、ずるいなぁ。」


その笑顔を見つめていると、瑞稀の胸の内にも、柔らかな温もりが広がっていった。



放課後、三人はいつもの道を並んで歩いていた。


夕日に照らされた稲穂が、一面を黄金色に染めている。


「……綺麗ですね。」


瑞稀が呟くと、芽衣も笑って頷いた。


「夏の夕方って、何だか綺麗だよね。」


旭は何も言わず、ただ黄金色の田園を見つめていた。


「……旭?」


瑞稀が尋ねると、旭は小さく首を横へ振る。


「いや……。」


それから、瑞稀へ視線を向けた。


「前は、景色なんて見ていなかっただろ。」


旭の言葉に、瑞稀はもう一度、田園へ目を向けた。


夕日に照らされた、黄金色の風景。


同じ道を何度も歩いてきたはずなのに、今日は不思議と目を離すことができなかった。


これまで、自分は何を見ながら歩いていたのだろう。


そう思った時、旭の足が不意に止まった。


「旭……?」


「……気のせいならいいが。」


旭の視線を追い、瑞稀も稲穂の中へ目を凝らす。


風は緩やかに吹いている。


けれど、その流れとは逆らうように、稲穂の一角だけが大きく波打っていた。


まるで、何かが稲の下を這っているように。


一瞬、金色の稲穂の間を、赤黒い光が横切った。


胸の奥が、僅かに冷えた。


これまでにも感じた、あの感覚だった。


「……瑞稀?」


芽衣が異変に気づき、振り返る。


瑞稀は稲穂の波を見つめたまま、静かに答えた。


「……嫌な気配がします。」


「え?」


芽衣も辺りを見回した。


けれど、その目には何も映っていないようだった。


三人は、その場に立ち止まったまま、黄金色の田園を見つめる。


先ほどまで異様に波打っていた稲穂は、一度、何事もなかったかのように静まった。


夏の夕暮れを渡る風が、三人の間を吹き抜ける。


けれど次の瞬間、その風が不意に止んだ。


周囲の稲穂は動きを止めたにもかかわらず、田んぼの奥だけが、再び大きく波打ち始める。


先ほどよりも、はっきりと。


黄金色の波は、夕暮れの奥へ向かって、少しずつ激しさを増していった。

第十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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