第十五話 「近づく距離」
第十五話 「近づく距離」
朝五時。
目覚ましが鳴る一分前に、瑞稀は今日も静かに目を開けた。
布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通す。
いつも通りの朝。
けれど瑞稀は、鏡に映る自分の顔を、いつもより少しだけ長く見つめていた。
「……。」
昨夜、何か大切なことを思った気がする。
思い出そうとしても、その記憶は指の隙間から零れる水のように、するりと逃げていく。
理由は分からない。
ただ胸の奥に、小さな隙間ができたような感覚だけが残っていた。
◇
拝殿で祝詞を終えると、父はいつものように背後に立っていた。
「……変わったな。」
不意に、そう告げられる。
瑞稀は、父へ振り返った。
「何がでしょうか。」
「顔だ。」
父は、瑞稀の表情を確かめるように見つめる。
「少し前までのお前は、人を見ようとしなかった。」
「……それに最近は、自分から話すことも増えた。」
瑞稀は少し考えた。
自分では、変わったという実感はない。
「……そうでしょうか。」
父はそれ以上何も言わず、拝殿の奥へ戻っていった。
けれど、その背中はどこか穏やかに見えた。
◇
石段の下では、旭が待っていた。
「おはようございます。」
「はよ。」
瑞稀は旭の隣へ並び、二人で歩き始める。
数日前までと、何かが違う。
交わす言葉の数は、さほど変わっていない。
けれど、二人の間に流れる沈黙の質が変わったように感じられた。
気まずさのない、穏やかな沈黙。
「……旭。」
「何だ。」
「あの日は、ありがとうございました。」
唐突な礼に、旭は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……何のことだ。」
「木花咲耶姫様をお還しした時です。」
瑞稀は、旭をまっすぐに見つめる。
「あなたが道を切り開いてくださらなければ、私の言葉は届きませんでした。」
旭は小さく息を吐き、瑞稀から視線を逸らした。
「当然のことをしただけだ。」
「それでも。」
瑞稀は、静かに続ける。
「ありがとうございます。」
旭は何も答えなかった。
並んで歩く二人の歩幅が重なる。
その時、肩が僅かに触れた。
瑞稀は離れることなく、そのまま歩き続ける。
旭も、何も言わなかった。
それでも、不思議と居心地は悪くない。
ただ、旭の耳だけが僅かに赤くなっていた。
◇
昼休み。
「瑞稀ー!」
芽衣が、いつものように声を弾ませながら駆けてくる。
「今日も一緒にご飯食べるよ!」
「……ええ。」
短い返事にも、芽衣は慣れた様子で笑った。
けれど、弁当を広げると、ふと真剣な表情を浮かべる。
「ねえ、瑞稀。」
「私、まだちょっと実感がないんだよね。」
芽衣は、自分の手を見つめた。
「自分にも、神様とつながる血が流れてるってこと。」
瑞稀は、静かに芽衣を見つめる。
「実感がなくても、よいのだと思います。」
「でもね。」
芽衣は箸を止め、少しだけ俯いた。
「今度は、ちゃんと二人の役に立ちたいの。」
その言葉に、旭がすぐ答える。
「もう十分、役に立った。」
瑞稀も静かに頷いた。
「芽衣が笑っていてくださると、私は安心します。」
芽衣は少し驚いた顔をして、それから、くしゃりと笑った。
「……瑞稀まで。」
「二人とも、ずるいなぁ。」
その笑顔を見つめていると、瑞稀の胸の内にも、柔らかな温もりが広がっていった。
◇
放課後、三人はいつもの道を並んで歩いていた。
夕日に照らされた稲穂が、一面を黄金色に染めている。
「……綺麗ですね。」
瑞稀が呟くと、芽衣も笑って頷いた。
「夏の夕方って、何だか綺麗だよね。」
旭は何も言わず、ただ黄金色の田園を見つめていた。
「……旭?」
瑞稀が尋ねると、旭は小さく首を横へ振る。
「いや……。」
それから、瑞稀へ視線を向けた。
「前は、景色なんて見ていなかっただろ。」
旭の言葉に、瑞稀はもう一度、田園へ目を向けた。
夕日に照らされた、黄金色の風景。
同じ道を何度も歩いてきたはずなのに、今日は不思議と目を離すことができなかった。
これまで、自分は何を見ながら歩いていたのだろう。
そう思った時、旭の足が不意に止まった。
「旭……?」
「……気のせいならいいが。」
旭の視線を追い、瑞稀も稲穂の中へ目を凝らす。
風は緩やかに吹いている。
けれど、その流れとは逆らうように、稲穂の一角だけが大きく波打っていた。
まるで、何かが稲の下を這っているように。
一瞬、金色の稲穂の間を、赤黒い光が横切った。
胸の奥が、僅かに冷えた。
これまでにも感じた、あの感覚だった。
「……瑞稀?」
芽衣が異変に気づき、振り返る。
瑞稀は稲穂の波を見つめたまま、静かに答えた。
「……嫌な気配がします。」
「え?」
芽衣も辺りを見回した。
けれど、その目には何も映っていないようだった。
三人は、その場に立ち止まったまま、黄金色の田園を見つめる。
先ほどまで異様に波打っていた稲穂は、一度、何事もなかったかのように静まった。
夏の夕暮れを渡る風が、三人の間を吹き抜ける。
けれど次の瞬間、その風が不意に止んだ。
周囲の稲穂は動きを止めたにもかかわらず、田んぼの奥だけが、再び大きく波打ち始める。
先ほどよりも、はっきりと。
黄金色の波は、夕暮れの奥へ向かって、少しずつ激しさを増していった。
第十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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