第十四話 「証」
第十四話 「証」
蔦の壁が、二人を取り囲むように迫ってくる。
旭は刀を振るい、次々と蔦を斬り払った。
けれど、斬っても、斬っても途切れない。
地面へ落ちた切れ端から新たな根が伸び、先ほどよりも太い蔦となって立ち上がる。
「……くそ。」
旭は刀へ雷を纏わせた。
青白い光が刃を伝い、その奥へ、もう一つの色が滲んでいく。
――赤。
『これからは、我が炎にも届くようになる。』
火之迦具土の言葉が、脳裏をよぎった。
旭が刀を振り抜く。
青白い雷と赤い炎が一筋の光となり、絡み合う蔦を焼き払った。
一瞬、閉ざされていた視界が開ける。
けれど次の瞬間、地面そのものが脈打つように大きく揺れた。
焼け焦げた土を突き破り、新たな蔦が何十本も噴き出す。
「……またか。」
旭が奥歯を噛み締めた。
炎で焼き払っても、増える速さに追いつかない。
蔦は二人を追い詰めながら、祠の奥を守るように、幾重にも絡み合っていた。
「瑞稀、下がれ!」
「――いいえ。」
瑞稀は、槍を握り直した。
蔦の先端が頬のすぐ横を掠める。
それでも、足を退くことはなかった。
「この方は、私たちを殺そうとしているのではありません。」
「何を――」
旭が迫る蔦を受け流しながら、瑞稀へ振り返る。
「先ほどからの攻撃は私たちを祠から遠ざけようとしています。」
蔦は、確かに容赦なく襲いかかってくる。
けれど、体勢を崩した二人へ、とどめを刺そうとはしなかった。
まるで祠の奥にある何かを、決して見られまいとしているようだった。
瑞稀は、蔦の隙間から荒魂を見つめる。
「聞いてください。」
赤黒く濁った瞳が、瑞稀へ向いた。
「私は、あなたを止めるためだけに来たのではありません。」
『……何。』
「あなたの言葉を、聞きに来ました。」
荒魂の周囲で、蔦が大きく波打った。
『……今更。』
「ええ。」
瑞稀は、まっすぐにその瞳を見つめる。
「今更でも、遅すぎる言葉などありません。」
『黙れ。』
蔦が、激しく地面を叩いた。
土と腐った花びらが舞い上がり、二人の視界を覆う。
『何も知らないくせに。』
「知りません。」
瑞稀は、迷うことなく答えた。
「だから、教えていただきたいのです。」
荒魂の唇が、僅かに開く。
けれど、言葉は出なかった。
代わりに、足元で咲いていた花が一輪、音もなく崩れ落ちる。
その僅かな揺らぎを、旭は見逃さなかった。
雷と炎を纏った刀を横薙ぎに振るい、蔦の壁へ一筋の道を開く。
「……行け!」
瑞稀は迷わず、その道を駆け抜けた。
◇
祠の奥。
朽ちた花々の中心に、荒魂は立っていた。
近づくほど強く感じていた腐臭が、不思議と薄れていく。
代わりに残ったのは、春の終わりを思わせる、微かな甘い香りだった。
瑞稀は、荒魂から数歩離れた場所で足を止める。
「……お名前を、教えてください。」
荒魂は答えなかった。
崩れかけた長い髪が、風もないのに静かに揺れている。
「私は、あなたをお名前でお呼びしたいのです。」
長い沈黙の後、荒魂は俯いたまま、僅かに唇を動かした。
『……木花咲耶姫。』
掠れた声だった。
『昔は、そう呼ばれていた。』
「木花咲耶姫様。」
瑞稀がその名を呼ぶと、木花咲耶姫の身体が微かに強張った。
『呼ばないで。』
足元から、新たな蔦が伸びる。
けれど、それは瑞稀を襲うことなく、自らの身体を覆い隠すように絡みついた。
『その名も、もう。』
『信じてもらえなかった名だから。』
その時、瑞稀の胸の奥で、別の神気が揺れた。
近い。
木花咲耶姫とは異なる気配が、すぐ傍にある。
瑞稀は祠の奥へ目を凝らした。
朽ちた花と絡み合う根の陰に、一人の男が座り込んでいる。
幾重もの蔦が、その両腕と身体を地面へ縫い留めていた。
蔦は衣の内側にまで食い込み、男の神気を少しずつ吸い上げている。
それでも男は抵抗せず、ただ木花咲耶姫を見つめ続けていた。
「……あなたは。」
男は、力なく笑った。
『情けない姿を見せてしまったな。』
『私は、瓊瓊杵尊。』
「瓊瓊杵様。」
瑞稀が息を呑むと、木花咲耶姫が弾かれたように振り返った。
『……なぜ。』
彼を縛る蔦が、軋む。
『なぜ、ここまで来たの。』
木花咲耶姫は、自らの崩れた髪と黒く朽ちた衣を、両腕で覆い隠した。
『見ないで。』
『こんな私を、見ないで。』
けれど瓊瓊杵尊は、目を逸らさなかった。
『ずっと、探していた。』
『お前が、どこにいるのか。』
『僅かに残った気配を辿り、ここまで来た。』
蔦が、彼の腕へ深く食い込んでいく。
『だが、拒まれた。』
瓊瓊杵尊は、自嘲するように息を吐いた。
『当然だ。』
木花咲耶姫の瞳が、激しく揺れる。
『……嘘。』
『あなたは、私を疑った。』
蔦が地面を這い、瓊瓊杵尊の喉元へ迫っていく。
『あの日。』
『私は、あなたに信じてもらいたくて。』
黒く濁った花びらが、木花咲耶姫の周囲へ舞い上がった。
『身籠った子が、あなたの子であると証すために。』
『戸を閉ざし。』
『火を放ち。』
『命を懸けて、子を産んだ。』
瓊瓊杵尊の手が、強く握られる。
『それでも、あなたは何も言わなかった。』
木花咲耶姫の頬を、黒い雫が伝った。
『信じていた、とも。』
『疑って、すまなかった、とも。』
『一言も。』
蔦の先端が、瓊瓊杵尊の頬を裂く。
それでも彼は、身動き一つしなかった。
『私は、炎へ入ったことを悔いているのではない。』
木花咲耶姫の声が、震えている。
『子を守ったことを、悔いているのでもない。』
『ただ――』
その唇が、声にならない言葉を形作った。
『私はただ、あなたの言葉が欲しかった。』
静寂が落ちる。
瓊瓊杵尊は、長く目を閉じる。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
『……お前の言う通りだ。』
木花咲耶姫は、何も答えない。
『私は、臆病だった。』
『詫びれば、自らの過ちを認めることになる。』
『天孫として人々の上に立つ者が、自らの誤りを認めてはならない。』
『そう思い込んでいた。』
木花咲耶姫を覆う蔦が、僅かに動きを止める。
『だから、逃げた。』
『本当に向き合うべきだった、お前から。』
瓊瓊杵尊は、蔦に囚われたまま頭を下げた。
『信じたかった。』
『だが、あの時の私は、疑いを捨てることができなかった。』
『お前が火へ入らなければならなかったのは、お前の罪ではない。』
『私の弱さだ。』
握り締めていた手を開くと、掌には蔦の棘が深く食い込み、血が滲んでいた。
『――すまなかった。』
木花咲耶姫の指先が、微かに震える。
黒い雫が一滴、地面へ落ちた。
その雫が触れた場所から、小さな桜の芽が顔を出す。
けれど、木花咲耶姫は瓊瓊杵尊へ近づかなかった。
『……今更。』
その声は、まだ冷たい。
『その言葉を、何年待ったと思っているの。』
瓊瓊杵尊は、黙って聞いていた。
『……そうだな。』
瓊瓊杵尊は、顔を上げなかった。
『私には、分かっているなどと言う資格もない。』
木花咲耶姫は、じっと彼を見つめていた。
やがて、自らの胸元へ手を当てる。
黒く朽ちた衣の下にある思いを、確かめるように。
『許したわけではありません。』
『ああ。』
『あの日が、無かったことになるわけでもない。』
『ああ。』
木花咲耶姫の指先から、黒い花びらが一枚剥がれ落ちた。
『けれど――』
彼女は、長く息を吐く。
『あなたの言葉は、聞きました。』
瓊瓊杵尊は何も答えず、もう一度長く目を閉じた。
瑞稀は二柱の間へ割り込むことなく、その姿を静かに見つめていた。
謝罪を受け取ることと、許すことは同じではない。
長い年月をかけて刻まれた傷が、たった一言で消えることもない。
それでも、木花咲耶姫はもう、届かなかった言葉を待ち続けるためだけに、この場所へ留まる必要はない。
瑞稀は、静かに一歩前へ出た。
「木花咲耶姫様。」
木花咲耶姫が振り返る。
「あなたが火の中で証したものは、御子の血筋だけではありません。」
赤黒く濁った瞳が、瑞稀を見つめた。
「疑われても、傷つけられても、御子を守り、自らの言葉を貫いた。」
「あなたご自身の強さです。」
木花咲耶姫の瞳が、大きく揺れる。
「その強さまで、あなたを疑った方の言葉へ預けなくてもよいのだと思います。」
瑞稀は、槍を握り直した。
「あなたの怒りも、悲しみも、無かったことにはできません。」
「許せないままでもよいのです。」
「それでも、もう――」
瑞稀は、まっすぐに彼女を見つめる。
「届かない言葉を待ちながら、独りでここへ留まらなくてもよいのです。」
夜風が吹いた。
木花咲耶姫の長い髪を覆っていた黒い花びらが、一枚ずつ舞い上がる。
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
唇が、僅かに震える。
やがて、固く握り締めていた指が、一本ずつほどけていった。
足元を覆っていた蔦も、静かに地面へ伏していく。
瑞稀は、それを見届けてから槍を掲げた。
「――御霊よ。」
「畏み、畏み申し上げる。」
「御神の御許へ還り給え。」
槍の穂先が、淡い金色の光を帯びる。
木花咲耶姫を覆っていた黒い靄が、光の粒となって剥がれていく。
朽ちていた衣は、本来の白さを取り戻した。
崩れていた長い黒髪には、淡い桜の花が一輪、また一輪と咲いていく。
黒く濁っていた瞳にも、澄んだ光が戻った。
最後の靄が消えた瞬間、周囲を埋め尽くしていた蔦が、音もなく土へ還っていく。
瓊瓊杵尊の身体を縛っていた蔦も、静かにほどけた。
瓊瓊杵尊は、ゆっくりと立ち上がる。
木花咲耶姫との間には、数歩の距離が残っていた。
彼はその距離を詰めることなく、ただ彼女へ向けて手を差し出す。
木花咲耶姫は、その手を見つめた。
長い沈黙。
やがて彼女は、差し出された手を取らず、瓊瓊杵尊の隣へ歩み出た。
『手を取るのは、まだ先です。』
瓊瓊杵尊は一瞬目を見開き、やがて静かに頷いた。
『ああ。』
『待とう。』
『お前を待たせた年月より、長くなったとしても。』
木花咲耶姫は答えなかった。
けれど、彼の隣から離れることもしなかった。
空間が、静かに裂ける。
裂け目の向こうから、黄金の道が遠く高天原へ伸びていく。
瓊瓊杵尊が、瑞稀へ振り返った。
『恩に着る、巫女よ。』
『私一人では、言葉を届けることすらできなかった。』
瑞稀は、静かに首を横へ振る。
「私は、お話を聞いただけです。」
「言葉を届けたのは、瓊瓊杵様ご自身です。」
瓊瓊杵尊は、僅かに目を伏せた。
木花咲耶姫も、瑞稀を見つめる。
その表情には、まだ消えない寂しさが残っていた。
それでも、荒魂であった時とは違う。
彼女は今、自らの足で立っていた。
『あなたが――』
木花咲耶姫は、静かに微笑む。
『独りで抱えなくて済む日が来ますように。』
瑞稀の胸が、僅かに揺れた。
木花咲耶姫が指先を伸ばすと、淡い桜の花びらが一枚、瑞稀の胸元へ溶けていく。
『あなたが誰かへ手を伸ばす時、この縁が道を違えぬように。』
瑞稀は何と答えればよいのか分からないまま、深く頭を下げた。
二柱は並んで、黄金の道へ足を踏み入れる。
手はつながれていない。
それでも、同じ方向へ歩いていた。
二柱の姿は、少しずつ光の向こうへ遠ざかっていく。
やがて裂け目が閉じると、二人を包んでいた闇も、薄い霧のようにほどけ始めた。
朽ちた花々の向こうへ、古びた祠の輪郭が浮かび上がる。
足元には、二人が辿ってきた細い路地へ続く石畳が戻っていた。
遠くから、祭囃子と人々の声が聞こえ始める。
領域へ呑み込まれる前と変わらない、祭りの夜の音だった。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出す。
祭りの会場では、人々が何事もなかったかのように行き交っているのだろう。
荒魂に呑まれていた間の記憶だけが、夢から覚めるように薄れていく。
朽ちていた花々が、すべて元へ戻ったわけではない。
祠の周囲には、黒く崩れた花びらも残っている。
けれど、その傍らでは、小さな蕾が月明かりを受けて膨らんでいた。
瑞稀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……終わったのでしょうか。」
いつの間にか隣へ来ていた旭が、小さく頷く。
「ああ。」
瑞稀は、手の中の槍を見つめた。
掌には、微かな温もりが残っている。
「独りで抱えなくて済む日が来ますように――ですか。」
その言葉を、静かに繰り返した。
「……瑞稀。」
旭が、低く名前を呼ぶ。
瑞稀が振り返ろうとした、その時だった。
「瑞稀!」
細い路地の向こうから、芽衣が駆けてくる。
「芽衣。」
「もう、心配したんだからね……。」
芽衣は息を切らしながら、瑞稀の前で足を止めた。
その目には、涙が浮かんでいる。
けれど、零れ落ちる前に何度も瞬きをし、必死に堪えていた。
「申し訳ありません。」
「悪かった。」
旭も、短く謝る。
芽衣は二人を交互に見つめた。
「もう……二人とも。」
泣きそうな顔のまま笑い、それを見られまいとするように背を向ける。
「ほら、帰ろ!」
先に歩き出した芽衣の後を、旭が追う。
瑞稀も、小さく頷いて歩き始めた。
帰り道、少し前を歩く旭の横顔へ、何度も視線が向きかけた。
けれど、目が合いそうになるたび、瑞稀は俯く。
――差し出された手を取らず、それでも隣へ立った木花咲耶姫の姿が、胸の奥に残っている。
なぜ、その姿がこれほど気になるのか。
今の瑞稀には、まだ分からなかった。
ただ、旭との間にあるほんの僅かな距離だけが、いつもよりはっきりと感じられた。
いつもより長い話でしたが、第十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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