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第十三話 「花冷え」

第十三話 「花冷え」


「……瑞稀。」


旭の低い声に、瑞稀は静かに頷いた。


「はい。」


旭は、周囲の人混みを素早く見渡す。


「芽衣、悪いが――」


「分かってる。」


芽衣が、その言葉を先に引き取った。


「具合の悪い人たちは、私が見てる。」


芽衣は、瑞稀と旭をまっすぐに見つめる。


「二人は、行って。」


いつもの明るさは、そこにはなかった。


代わりに宿っていたのは、迷いのない静かな決意だった。


「……ありがとうございます、芽衣。」


瑞稀が告げると、芽衣は小さく笑う。


「いいから、早く!」


その言葉に背を押されるように、瑞稀と旭は人混みを抜けていった。



二人は、漂う香りを辿った。


甘く、けれど、どこかよそよそしい匂い。


祭りの喧騒は、進むほどに遠ざかっていく。


土手を離れ、細い路地を抜けた先で、二人は古びた社へ行き着いた。


普段は誰も訪れないような、小さな祠。


けれど、その周囲だけが異様な空気に包まれていた。


「……これは。」


瑞稀は、思わず息を呑む。


社を取り囲むように、無数の花が咲いていた。


けれど、そのどれもが萎れ、腐りかけている。


先ほどから漂っていた甘い香りは、そこから発せられていた。


腐臭にも似ている。


それでも、確かに花の匂いだった。


美しさと腐敗が、同じ場所に重なり合っている。


「……こんなことをして、何になる。」


旭が低く呟いた、その瞬間。


冷たいものが、二人の背筋を走った。


瑞稀も同じ気配を感じ、息を詰める。


『……また、来たのですね。』


女の声だった。


冷たく、それでいて、どこか涙を堪えているような響き。


「誰だ。」


旭が刀の柄へ手をかける。


「……瑞稀、下がっていろ。」


風もないのに、花びらが舞い上がった。


けれど、それらは地面へ落ちる前に黒く変色し、灰のように崩れていく。


次の瞬間、二人は闇へ呑み込まれた。


深い闇の中から、ゆっくりと人影が現れる。


長い黒髪。


その毛先は、花びらのように一枚ずつ崩れ、地面へ落ちていた。


纏う衣には、美しい花模様が残っている。


けれど、あちこちが黒く煤け、朽ち果てていた。


赤黒く濁った瞳だけが、二人をまっすぐに見据えている。


『祝う声も。』


『祭りの囃子も。』


『――すべて、嘘くさい。』


彼女が一歩踏み出すたび、足元の土から生えていた草花が、瞬く間に枯れていく。


「……あなたは。」


瑞稀が問いかけると、荒魂は静かに嗤った。


『名乗るまでもない。』


『どうせ、すぐに忘れられる。』


『いつも、そうだったから。』


旭が瑞稀の前へ出る。


「問答はいい。」


「祭りに来ていた人たちが倒れている。」


刀を抜き、荒魂へ向けた。


「これ以上は、させない。」


荒魂の瞳が、鋭く光る。


『邪魔をするな。』


『私はただ――』


その声が、僅かに震えた。


『信じてもらえなかった証を、見せているだけ。』


言葉と同時に、荒魂の周囲から無数の蔦が這い出した。


黒く濁った蔦が鞭のようにしなり、旭へ襲いかかる。


「――ッ!」


旭は刀を振るい、迫る蔦を薙ぎ払う。


けれど、斬り落とした端から、また新たな蔦が伸びてきた。


「……きりがない。」


瑞稀も槍を構える。


けれど、猿田毘古(さるたひこ)の時とも、火之迦具土(ひのかぐつち)の時とも違う気配を感じていた。


これは、怒りだけではない。


もっと深く、静かに沈んだ――哀しみ。


蔦の隙間から、荒魂が瑞稀を見つめる。


『あなたも、私を止めに来たの。』


『それとも、確かめに来たの。』


赤黒い瞳が、僅かに細められた。


『私が、本当に穢れているのかどうかを。』


瑞稀の胸が、鈍く痛んだ。


その言葉の意味は、まだ分からない。


それでも、荒魂の内にある悲しみだけは、静かに胸の奥へ染み込んできた。


「あなたは――」


瑞稀は、荒魂から目を逸らさずに問いかける。


「誰に、信じてもらいたいのですか。」


荒魂の動きが、一瞬止まった。


『そのようなこと……知らなくてよい!』


鋭い声とともに、無数の蔦が再び二人へ殺到する。


旭は瑞稀の前へ立ち、刀を構え直した。


「瑞稀、槍を。」


「……はい。」


瑞稀は槍を握る両手へ、強く力を込める。


けれど、猿田毘古の穏やかな声も、火之迦具土の温かな声も、今は聞こえない。


まだ、この神の心へ触れることができていない。


蔦の壁が、二人を包囲するように迫ってくる。


その向こうで、荒魂の赤黒い瞳から、涙にも似た雫が一筋零れ落ちた。


『――誰も、私の言葉など、聞きたくないのでしょう。』


その声は、夜の底へ沈むように、静かに溶けていった。

第十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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