第十三話 「花冷え」
第十三話 「花冷え」
「……瑞稀。」
旭の低い声に、瑞稀は静かに頷いた。
「はい。」
旭は、周囲の人混みを素早く見渡す。
「芽衣、悪いが――」
「分かってる。」
芽衣が、その言葉を先に引き取った。
「具合の悪い人たちは、私が見てる。」
芽衣は、瑞稀と旭をまっすぐに見つめる。
「二人は、行って。」
いつもの明るさは、そこにはなかった。
代わりに宿っていたのは、迷いのない静かな決意だった。
「……ありがとうございます、芽衣。」
瑞稀が告げると、芽衣は小さく笑う。
「いいから、早く!」
その言葉に背を押されるように、瑞稀と旭は人混みを抜けていった。
◇
二人は、漂う香りを辿った。
甘く、けれど、どこかよそよそしい匂い。
祭りの喧騒は、進むほどに遠ざかっていく。
土手を離れ、細い路地を抜けた先で、二人は古びた社へ行き着いた。
普段は誰も訪れないような、小さな祠。
けれど、その周囲だけが異様な空気に包まれていた。
「……これは。」
瑞稀は、思わず息を呑む。
社を取り囲むように、無数の花が咲いていた。
けれど、そのどれもが萎れ、腐りかけている。
先ほどから漂っていた甘い香りは、そこから発せられていた。
腐臭にも似ている。
それでも、確かに花の匂いだった。
美しさと腐敗が、同じ場所に重なり合っている。
「……こんなことをして、何になる。」
旭が低く呟いた、その瞬間。
冷たいものが、二人の背筋を走った。
瑞稀も同じ気配を感じ、息を詰める。
『……また、来たのですね。』
女の声だった。
冷たく、それでいて、どこか涙を堪えているような響き。
「誰だ。」
旭が刀の柄へ手をかける。
「……瑞稀、下がっていろ。」
風もないのに、花びらが舞い上がった。
けれど、それらは地面へ落ちる前に黒く変色し、灰のように崩れていく。
次の瞬間、二人は闇へ呑み込まれた。
深い闇の中から、ゆっくりと人影が現れる。
長い黒髪。
その毛先は、花びらのように一枚ずつ崩れ、地面へ落ちていた。
纏う衣には、美しい花模様が残っている。
けれど、あちこちが黒く煤け、朽ち果てていた。
赤黒く濁った瞳だけが、二人をまっすぐに見据えている。
『祝う声も。』
『祭りの囃子も。』
『――すべて、嘘くさい。』
彼女が一歩踏み出すたび、足元の土から生えていた草花が、瞬く間に枯れていく。
「……あなたは。」
瑞稀が問いかけると、荒魂は静かに嗤った。
『名乗るまでもない。』
『どうせ、すぐに忘れられる。』
『いつも、そうだったから。』
旭が瑞稀の前へ出る。
「問答はいい。」
「祭りに来ていた人たちが倒れている。」
刀を抜き、荒魂へ向けた。
「これ以上は、させない。」
荒魂の瞳が、鋭く光る。
『邪魔をするな。』
『私はただ――』
その声が、僅かに震えた。
『信じてもらえなかった証を、見せているだけ。』
言葉と同時に、荒魂の周囲から無数の蔦が這い出した。
黒く濁った蔦が鞭のようにしなり、旭へ襲いかかる。
「――ッ!」
旭は刀を振るい、迫る蔦を薙ぎ払う。
けれど、斬り落とした端から、また新たな蔦が伸びてきた。
「……きりがない。」
瑞稀も槍を構える。
けれど、猿田毘古の時とも、火之迦具土の時とも違う気配を感じていた。
これは、怒りだけではない。
もっと深く、静かに沈んだ――哀しみ。
蔦の隙間から、荒魂が瑞稀を見つめる。
『あなたも、私を止めに来たの。』
『それとも、確かめに来たの。』
赤黒い瞳が、僅かに細められた。
『私が、本当に穢れているのかどうかを。』
瑞稀の胸が、鈍く痛んだ。
その言葉の意味は、まだ分からない。
それでも、荒魂の内にある悲しみだけは、静かに胸の奥へ染み込んできた。
「あなたは――」
瑞稀は、荒魂から目を逸らさずに問いかける。
「誰に、信じてもらいたいのですか。」
荒魂の動きが、一瞬止まった。
『そのようなこと……知らなくてよい!』
鋭い声とともに、無数の蔦が再び二人へ殺到する。
旭は瑞稀の前へ立ち、刀を構え直した。
「瑞稀、槍を。」
「……はい。」
瑞稀は槍を握る両手へ、強く力を込める。
けれど、猿田毘古の穏やかな声も、火之迦具土の温かな声も、今は聞こえない。
まだ、この神の心へ触れることができていない。
蔦の壁が、二人を包囲するように迫ってくる。
その向こうで、荒魂の赤黒い瞳から、涙にも似た雫が一筋零れ落ちた。
『――誰も、私の言葉など、聞きたくないのでしょう。』
その声は、夜の底へ沈むように、静かに溶けていった。
第十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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