第十一話 「還る場所」
第十一話 「還る場所」
金色に輝く槍が、宙を舞う。
芽衣の身体を通して、天鈿女命が軽やかに踊っていた。
『さあ、こちらを向いて。』
荒魂の視線が、揺らめく炎とともに芽衣へ向けられる。
『……何のつもりだ。』
『あなたの目には、これがただの遊びに見える?』
天鈿女命は楽しげに笑い、槍を大きく振るった。
金色の穂先から光の粒が舞い散り、荒魂の意識を完全に引きつけていた。
◇
その隙に、旭は瑞稀のもとへ駆け寄った。
「立てるか。」
「……はい。」
瑞稀は旭の手を借り、ゆっくりと立ち上がる。
荒魂は、まだ芽衣の舞に気を取られていた。
「時間は、あまりない。」
旭は荒魂を見据えた。
その身体を覆う炎は、今も絶え間なく燃え続けている。
「……存在そのものが災害、か。」
旭は、自らの刀へ目を落とした。
刃の上を、青白い雷が走っている。
その時、不意に幼い頃の記憶が脳裏をよぎった。
父が、何気なく語っていた神話。
『建御雷神は、火之迦具土の血から生まれた神だ。』
当時は、その意味を深く考えたことなどなかった。
けれど、今なら分かる。
「……そうか。」
その瞬間、旭の頭の奥で朗らかな声が弾けた。
『……ようやく気づいたか!』
「誰だ。」
『ははっ、そう警戒するな。』
聞いたことのない、どこか間の抜けた声だった。
けれど、その響きには確かな温かさがあった。
『すまんすまん。我はどうにも間が悪くてな。荒魂とのつながりが強すぎて、声を届けるのが遅くなった。』
『情けない話だが……まあ、それも我らしいわ。』
旭は思わず眉を寄せる。
「……何だ、それは。」
『詫びは、後でゆっくりしよう。』
声は、笑いを含んだまま続けた。
『それより――眷属よ、行け。』
『我が血は、お前の中にも確かに在る。』
一瞬だけ響いた声は、それきり静かに遠ざかっていった。
旭は僅かに目を細め、刀を握り直す。
「俺の力は、お前がいたから生まれたものだ。」
「お前の死から、俺の神は生まれた。」
荒魂が、初めて旭へ顔を向けた。
『……何を。』
「感謝はしない。」
旭は刀を構え直す。
「だが、無関係でもない。」
刃を覆う雷光が、これまでとは異なる輝きを帯びた。
◇
旭が踏み込み、刀を振り抜いた。
青白い雷光が、荒魂の炎を一閃する。
今度は、斬り裂かれた炎が元へ戻らなかった。
『……馬鹿な。』
荒魂の身体に、初めて亀裂が走る。
「今だ、瑞稀!」
瑞稀は、強く頷いた。
天鈿女命の舞が荒魂の意識をつなぎ止め、旭の一撃が、その炎へ確かな隙を作っている。
あとは、自分の役目だった。
芽衣の身体を通して、天鈿女命が槍の穂先をひらりと返す。
『ちゃんとつないだからね。』
槍は金色の光を引きながら宙を舞い、瑞稀の手へ吸い込まれるように戻った。
瑞稀は槍を構え、静かに目を閉じる。
父から聞いた神話が、脳裏をよぎった。
母を死なせて生まれ、父の手によって討たれた神。
誰にも望まれず、ただ燃え続けることしかできなかった、その始まり。
瑞稀は、静かに口を開いた。
◇
「あなたは、誰かを傷つけるために生まれたのではありません。」
荒魂の動きが止まる。
けれど、それはほんの一瞬だった。
『黙れ。』
炎が激しく噴き上がり、瑞稀の頬を熱風が掠める。
『我が生まれたことで、母は死んだ。』
『我が炎が、すべてを奪った。』
赤黒い瞳が、瑞稀を睨みつける。
『それでも、罪がないと言うのか。』
瑞稀は槍を握り締めたまま、目を逸らさなかった。
「はい。」
『何も知らぬくせに!』
荒魂が拳を振り上げる。
周囲の炎が巨大な渦となり、瑞稀へ襲いかかった。
けれど、瑞稀は退かなかった。
「あなたは、ただ生まれただけです。」
槍の穂先から金色の光が広がり、押し寄せる炎を静かに受け止める。
「生まれることを、ご自身で選んだわけではありません。」
荒魂の拳が、空中で止まった。
燃え盛る炎の向こうで、赤黒い瞳が激しく揺れる。
「その炎に、罪はありません。」
『……ならば。』
荒魂の声が、低く掠れた。
『この炎に焼かれた者たちは、どうなる。』
『我が触れたものは、すべて灰になる。』
炎を纏った両手が、強く握り締められる。
『止めようとしても、止まらぬ。』
『守ろうとしても、焼いてしまう。』
瑞稀は、荒魂をまっすぐに見つめた。
「それでも、あなたは独りではありません。」
『独りだ。』
間を置くことなく、荒魂が吐き捨てる。
『母もいない。父には討たれた。』
『我が還ることを望む者など、どこにもおらぬ。』
「少なくとも、今ここには、あなたの炎を拒まない方がいます。」
荒魂は、自らの燃え盛る両手を見つめた。
『……我は。』
その声が、初めて震える。
『母を、殺したくはなかった。』
炎が激しく揺らめく。
『ただ、生まれただけなのに。』
『目を開いた時には、母はもういなかった。』
赤黒い瞳から、火の粉のような雫が零れた。
『止めたかった。』
『けれど、止まれなかった。』
『気づけば、すべてが灰になっていた。』
荒魂は、瑞稀の向こうへ目を向けた。
旭の刀には、今も青白い雷と赤い炎が宿っている。
自らの炎を拒むことなく、受け止めている光だった。
『……そうか。』
炎に覆われていた表情が、僅かに緩む。
『あったのか。』
『我にも、還れる場所が。』
瑞稀は、静かに槍を掲げた。
その言葉を、確かに受け取るように。
槍の穂先へ、金色の光が集まっていく。
「――御霊よ。」
荒魂の炎が、大きく揺らいだ。
けれど、もう抵抗するような激しさはなかった。
「畏み、畏み申し上げる。」
「御神の御許へ還り給え。」
金色の光が、荒魂の身体を柔らかく包み込んだ。
黒く爛れていた肌が、炎とともに剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、穏やかな顔をした一人の青年だった。
◇
空間そのものが、静かに裂けた。
裂け目から黄金の光が溢れ、澄み切った神楽鈴の音が響き渡る。
その向こうには緑豊かな社が建ち、実りに満ちた田畑がどこまでも広がっていた。
「……火之迦具土様。」
瑞稀が名を呼ぶと、青年は静かに頷いた。
『その名で呼ばれたのは……久しいな。』
青年は、自らの両手へ目を落とす。
先ほどまで燃え盛っていた炎は、今では穏やかな赤い光となって、指先の周囲を揺れていた。
『随分と、迷惑をかけた。』
「いいえ。」
『いや、かけたものはかけた。そこは誤魔化せぬ。』
青年は困ったように眉を下げた。
けれど次の瞬間、その表情を崩し、朗らかに笑う。
『ははっ。どうにも我は、昔から加減というものが苦手でな。』
瑞稀は、僅かに目を瞬かせた。
先ほどまで荒魂として燃え盛っていた神と、旭の内側へ届いた快活な声が、ようやく一つにつながった気がした。
青年は改めて瑞稀へ向き直る。
『それでも、お前は我を見捨てなかった。』
その眼差しが、柔らかく細められる。
『ありがとう、瑞稀。』
やがて青年は、瑞稀へ手を差し出した。
『礼代わりと言っては何だが、我が力を預けよう。』
掌の上に、小さな赤い炎が灯る。
『お前が望むなら、いつでも応えよう。』
『少々燃えすぎることもあるかもしれぬが、その時は遠慮なく止めてくれ。』
瑞稀は、僅かに迷ってから静かに頷き、槍を胸元へ抱いた。
「承知いたしました。」
『うむ。良い返事だ。』
青年は満足そうに笑い、続いて旭へ目を向ける。
『それから、お前。』
「何だ。」
『お前の刀、なかなか悪くなかったぞ。』
旭が、僅かに眉を上げる。
『雷は、我が血より生まれた神の力だ。』
その視線が、旭の刀へ向けられる。
『これからは、我が炎にも届くようになる。存分に使え。』
「……そうか。」
『何だ、礼くらい言ってもよいのだぞ。』
「礼はいいと言ったのは、お前だろ。」
青年は一瞬きょとんとしたあと、大きく笑った。
『はははっ!そうであったな!』
その笑い声に、先ほどまで戦場を覆っていた重苦しさが、僅かに薄れていく。
やがて青年は、旭の向こうにいる瑞稀へ目を向けた。
『まあ、それはともかく。』
その声が少しだけ穏やかになる。
『……あの子を、頼んだぞ。』
旭は一度だけ瑞稀を見てから、短く答えた。
「ああ。」
青年は満足そうに頷き、黄金の光へ向かって歩き出した。
『では、またな!』
振り返り、大きく手を振る。
『次に呼ぶ時は、もう少し穏やかな場で頼むぞ!』
青年が黄金の光へ足を踏み入れた瞬間、周囲を覆っていた炎が、一つ、また一つと、篝火が消えるように鎮まっていった。
やがて裂け目も静かに閉じ、炎に呑まれていた景色が、少しずつ本来の色を取り戻していく。
焼け焦げていた木々にも、元の緑が戻っていた。
◇
気づけば、瑞稀の手から槍は消えていた。
純白の巫女装束が制服へ戻り、白銀の髪は黒へ、琥珀色の瞳も元の色へと変わっていく。
「……終わったのですね。」
「ああ。」
旭が刀を鞘へ納めると、少し離れた場所で芽衣がふらりと膝をついた。
「芽衣!」
瑞稀が慌てて駆け寄る。
「……あれ、私、何して……。」
芽衣の髪は、いつもの茶色へ戻っていた。
どこか呆けたような表情で、辺りを見回している。
「大丈夫か。」
旭が身体を支えると、芽衣はへにゃりと笑った。
「なんか……すごく楽しい夢を見てた気がする。」
「……ありがとうございます、芽衣。」
瑞稀が告げると、芽衣は首を傾げながらも、嬉しそうに笑った。
「……役に立てたなら、よかった。」
◇
辺りは、いつの間にか元の鄙びた神社へ戻っていた。
夕暮れの柔らかな光が、静かな境内を照らしている。
三人はしばらく言葉を発することなく、その景色を見つめていた。
その日、三人の間に結ばれた縁は、やがて多くの神々を救う道へと、静かにつながっていく。
第十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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