15.彼女にまつわる不可思議
「認識できて、いない……?」
アロイスの言葉は、ウィリアムの心に大きく波紋を作った。
ウィリアムは必死に記憶を辿る。
言われてみれば、『アニエス』という名前は何度もシャロから聞いたような気がする。
それに『ダニエ』という家名。国内でも有数の、有力な辺境伯家の名だ。
(確かに、私は知っていなければならないはずだ――しかし)
知っている実感が、ない。
思い出そうとしても、脳にもやがかかるようだ。
「まあ、気にするな。……またいずれ忘れる」
アロイスは少しも表情を変えず、そう言い放つ。
「あっ、アロイス先輩!?」
静まり返った場の空気が一変する。
2階から戻ってきたシャロが、アロイスを見つけて驚きの声をあげた。
「シャロが参加すると聞いたからな。俺も来た」
「なるほど……」
先ほどまでとは打って変わって、アロイスは目を細めてシャロを見つめる。
シャロはその視線に押されながらも、笑顔を返した。
その和やかな空間で一人、ウィリアムだけが晴れない表情をしていた。
ウィリアムだけが心にわだかまりを抱えたまま、合宿は進行していった。
翌日にはテオドールとアニエスが合流し、豊穣祭の準備を進める。
「祭事にはアニエス先生も参加するんですかー?」
「ええ。今年はサロンに光魔法使いがいないから、その代わりに」
「そうであれば属性の不足は解消されますね。そしたら……」
ニコラとアーネストが、アニエスと会話をしている。
ニコラは自然に彼女の名前を呼び、アーネストもそれが当然のように受け入れていた。
その光景には、特段おかしな様子は見受けられない。
アニエスの姿を見ていても、特に違和感を覚えるわけでもない。
(一体私たちに、何が起こっている……?)
アロイスの言葉が、まだウィリアムの胸に残っている。
どうしてもその疑問が拭いきれない。
「殿下……? ご気分が優れないですか……?」
ウィリアムが思考を巡らせている間に、そばにシャロが寄ってきていた。
そばにアロイスはいない。豊穣祭の説明をしたら「わかった」とだけ返して、どこかへと行ってしまった。
「ああ、いや……少し考え事をしていただけだよ。ありがとう、シャロ」
「そうですか? なら、良いのですが……」
シャロの優しい言葉に、ウィリアムは心を和ませる。
しかし、和んだのも束の間、ウィリアムの中に新たな疑問が湧いてくる。
(……そういえば、シャロはアニエス先生を忘れていないのか?)
今まで何度か、シャロはアニエスのことを話題にしていたはずだ。
つまり、忘れていないということになる。
ウィリアムが視線を上げると、今度はドミニクとアニエスが会話をしていた。
それはあまりにも違和感のない光景で――違和感のないことが、不自然に思えた。
*
合宿も終盤に入り、明日はそれぞれが帰路に就く日となった。
別荘で過ごす最後の夜になる。
アニエスは、昼間のうちに一足先に帰ることとなった。
『ごめんなさい、先に失礼するわね。テオドール先生、あとはよろしくお願いします』
『お気をつけて。ああ、例の資料は私の机にあるので』
『承知しました。では皆さん、また夏休み明けに学校で会いましょう』
一足先に帰るアニエスを、皆で見送る。
穏やかな合宿の日々が終わろうとしている。
その後、皆で食事をとったあと、ウィリアムが談話室に皆を集めた。
もちろん、アロイスも例外ではない。
「どうしたの殿下? 皆でカードゲームでもする?」
ニコラが陽気に笑う姿を見ながら、ウィリアムは静かにかぶりを振る。
「皆に聞きたいことがあってね……」
ウィリアムは一度息をつくと、静かに口を開く。
「今日帰っていった保健医の先生……彼女の名前を、思い出せるか?」
その言葉に、場の空気が変わる。
目を見開くシャロ。
表情を変えないアロイス。
周囲を伺うように見渡すテオドール。
そして――。
「あ、れ……? なんでだろ、なんていったっけ……?」
「……わるい、殿下……俺も思い出せねえ……」
「……申し訳ありません、僕も、思い出せず……」
ニコラ、ドミニク、アーネストは、それぞれ申し訳なさそうに顔を曇らせる。
「な、なんで……」
困惑の色を顔に浮かべるシャロ。
ウィリアムは苦々しげに続ける。
「……私も、彼女の名前が思い出せない」
「殿下も!?」
「どういうことだ……?」
どよめきが更に広がる。
ほんの数時間前までそこにいた女性。
その人の名前が、もう思い出せない。
「……アロイス、頼む」
「……“アニエス・ダニエ”。それが彼女の名だ」
ウィリアムに促されて、アロイスはその名前を口にする。
アロイスの言葉に、更に場は混乱に陥った。
「ダニエ!? それってダニエ辺境伯家だよね!? ……なんでボクが、覚えていないの……」
「待て。アロイス先輩は忘れていないということか?」
「……彼は忘れていない。忘れているのは、私たちだけのようだ」
「殿下が覚えていないということは、何かが起きているということでは……?」
シャロは周囲の反応にまったくついていけないまま、戸惑いをあらわにした。
「時々、アニエス先生の名前を出した時の皆さんの反応がおかしいなとは思ってたんです……でも、まさか忘れてしまっているだなんて思わなくて……!」
もはや悲鳴のようなその声に、一同は言葉に詰まってしまった。
「……シャロ」
静まり返った室内で、アロイスが切り出す。
「これは“そういうもの”だ。彼らが忘れるのも、俺たちが覚えているのも」
「彼女は……シャロにとって必要な人間だ。だから俺は“覚えた”。それだけのことだ」
アロイスの説明になっていない説明に、一同は何も返せなかった。
アロイスの規格外さは周知の事実であるからいいとして、まだ疑問は残る。
「……アロイス先輩やシャロが覚えているのであれば、その……アニエス先生が何らかの意図で、僕たちの記憶を消している可能性はないでしょうか?」
「そんなこと!」
アーネストの意見を、シャロは即座に否定する。
「あまり考えたくはないけれど、可能性は十分にある」
「ウィリアム殿下……」
シャロは泣き出しそうな顔で、サロンの面々を見渡す。
重苦しい空気が、談話室に立ち込める。
「皆さん、そこまで」
その空気の中に――今まで静観を貫いていたテオドールが、切り込んだ。
*
生徒たちはみな、沈んだ面持ちでテオドールを見る。
生徒たちの不安や疑問は、テオドールにも理解できた。
(やはり、今まで感じていた違和感は正しかった)
(しかし……彼女が意図的に、記憶を改ざんしたとは考えにくい……)
「……現状、アニエス先生が何かをやったという証拠はありません」
静かに語り始めるテオドールを、生徒たちは息を飲んで聞いている。
「……それに、先ほどアロイスくんは“そういうもの”だと言いましたね?」
「ああ」
「それは、誰かによる意図的な改ざんではなく……そういう自然現象だ、というニュアンスでよろしいですか?」
「その解釈で構わない」
その言葉に、シャロは縋るような表情を見せた。
「彼の言う通り、アニエス先生も知らないところで、“何か”が干渉している可能性もあります。まだどの仮説も、憶測の域を出ない」
「皆さんが不安に感じる気持ちも理解できますが……一旦この件は私が預かります。生徒だけで解決できる問題ではありませんから」
「ですから今は、目の前の豊穣祭に集中しましょう」
淡々と教師らしく諭す言葉に、場に漂っていた緊張の空気が少しだけ和らいだ。
それでもまだ、生徒たちは首を傾げてはいたが――。
(だが、まだ彼らに明かしていない疑問がある)
生徒たちの表情を見ながら、テオドールは一人、深く思考する。
(……王太子ですら忘れるなら、なぜ私は彼女のことを覚えていられる?)
良くも悪くも例外であるアロイスとシャロは、まだ納得できる。
どちらかが『世界の鍵』、あるいは『観測者』だとするなら、なおのことだ。
しかし、自分はただの教師だ。
二人のように特別な力があるわけではない。
王族でもない。
その自分が――記憶を保持できる理由はなんだ?
(アニエス先生……貴方はこの理由を、知っているんじゃありませんか?)
テオドールの問いかけは、アニエスには届かない。
いよいよ謎が浮かんできました!
次回は明日20時更新予定です。




