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22. 歌劇場にて

 王立歌劇場のエントランス。いつもより少しお洒落をしてやって来たリネアは、周囲の淑女たちの視線を一身に集めている人物を見つけて、その朝焼け色の瞳を大きく見開いた。


「シ、シベリウス公爵……? どうしてあなたがここに? もしかして、フレドリカに何かあったのですか!?」


 今日はフレドリカと一緒に歌劇を観る約束だったのに、ホールに彼女の姿はない。嫌な予感がしてベネディクトに駆け寄ると、ベネディクトはどこか言いにくそうに口を開いた。


「その……実はフレドリカは今朝急に体調が悪くなってしまいまして……」

「やっぱりそうだったのですね……! 公爵が伝えに来るほど悪い状況なのですか?」


 使用人に伝言を託せばいいのに、公爵であるベネディクトがわざわざ歌劇場まで足を運んだということは、かなり深刻な状況なのかもしれない。


 他の人に聞こえないよう、声を落として病状を尋ねると、ベネディクトはやはり非常に言いづらそうに眉を寄せて顔をしかめた。


「……いえ、体調についてはご心配には及びません」

「嘘はおやめください。そんな深刻そうな顔をしていらっしゃるのに」

「いや、これはそういうわけではなく……」


 ベネディクトの要領を得ない態度にリネアが首を傾げる。すると、ベネディクトの胸ポケットに歌劇公演のチケットが入っているのが見えた。


「公爵、そのチケットは……」

「あっ……こ、これは……は、払い戻しをしようと思って持ってきたのです」

「払い戻し?」

「はい、そうです。では私は受付で手続きをしてまいりますので、これで……。この度は誠に申し訳ございませんでした」


 ベネディクトが丁寧にお辞儀をして、リネアに背を向ける。

 しかし、リネアは妙に足早に去ろうとするベネディクトの腕をすばやく掴んだ。


「お待ちください。もう無理ですよ」

「え?」

「払い戻しの期限を過ぎています。ですから、今行っても受け付けてもらえないでしょう」

「そんな……」


 ベネディクトが途方に暮れたように額に手を当てる。

 おそらくこれまで観劇に来ることなどほとんどなく、そうした基本的なこともよく分からなかったのだろう。


(まあ、私も似たようなものだけど……)


 リネアの母が存命だった頃は、よく二人で劇場に足を運んでいたが、母亡き後は外出もほとんどしなくなり、今日は久しぶりの観劇だった。


(それにしても、今日はどうしようかしら……)


 フレドリカと一緒に観劇するのを楽しみにしていたが、彼女は体調不良で来られないし、チケットも払い戻しはできない。そして、目の前には同じく払い戻し不可のチケットを持つ公爵……。


 そのとき、まもなくの開演を告げる鐘の音が鳴り響いた。


「……公爵! 行きましょう!」


 リネアがグイッとベネディクトの腕を引く。

 ベネディクトは驚いた表情でリネアを見下ろした。

 

「どこへ行くのですか?」

「早く席に着かないと。オペラが始まってしまいます」

「え、私もですか……?」

「だってチケットが勿体ないではありませんか。このチケットを取りたくても取れなかった人が大勢いるのですよ。無駄にしてはいけません」

「は、はあ……」

「ほら、早く来てください! 途中入場は厳禁ですから!」


 開演間際で焦ったリネアがベネディクトの腕をグイグイと引っ張る。そんなリネアの勢いに負けたベネディクトがふらふらと後をついていき、結局二人揃って時間ぎりぎりで特別席に着席したのだった。



◇◇◇


 ──そして、観劇終了後。観客たちがぞろぞろと退席していく中、リネアは席から立ち上がれずにいた。


(どうしよう……。こんなに感動するなんて思わなかった)


 久々に観たオペラはリネアの心に深く響き、圧巻のフィナーレで涙が溢れて止まらなくなってしまったのだ。


「……大丈夫ですか?」


 隣に座っていたベネディクトがハンカチを差し出す。

 リネアのハンカチはすでに涙を拭きすぎてグシャグシャになっていたので、見かねて貸してくれたのだろう。


「す、すみません……」


 遠慮がちに受け取り、そっと目元を押さえると、ハンカチからふわりといい香りがした。フレドリカから漂う花のような香りとは違って、初夏の風を思わせるような爽やかな香り。


(これは公爵の香りかしら……好きな匂いだわ)


 ふとそんな感想を抱いた瞬間、リネアの瞳から涙が引っこむ。


(わ、私ったら何を考えて……!)


 借り物の匂いをかいで品評するなんて、失礼極まりない。

 それに、意識した途端、さっきよりも香りが強く感じられるような気がする。リネアは目元からパッとハンカチを遠ざけた。


「もう落ち着かれましたか?」


 リネアが泣き止んだことに気づいたベネディクトが尋ねる。


「は、はい、もう大丈夫です、すみません……」

「お気になさらず。まだ足りないなら思う存分どうぞ」

「えっ」

「泣き足りないなら遠慮なさる必要はありません」

「あ、そっち……ですよね」

「そっちとは?」

「さあ、もう平気ですので行きましょうか」


 リネアがすっくと座席から立ち上がる。


「ハンカチは洗ってお返しいたしますね」

「いえ、その必要はありませんのでお好きに……」

「いいえ、きちんとお返しいたします」


 歌劇場を出ると、王女宮の馬車がすぐそばで待機していた。本当はフレドリカと一緒に街のカフェでお茶でも飲みながらオペラの感想を語れたらと思っていたが、さすがにその代役までベネディクトに頼むわけにはいかない。


「では、私はこれで失礼しますね。今日はいろいろと申し訳ありませんでした」


 今になって考えてみると、観劇に無理やり付き合わせた挙げ句、最後も大泣きして迷惑をかけるなんて、淑女として褒められたものではない。


「私の勝手で公爵を振り回してご迷惑をおかけしました。思えば公爵がオペラをお好きかも分からないのに、もし退屈な思いをさせてしまっていたら申し訳なく……」

「王女殿下が謝られることではありません。元はといえばフレドリカが無茶を──いえ、体調を崩してしまったせいですし、私も退屈ではありませんでした」

「本当ですか?」

「ええ、正直なところ理解できない部分もありましたが、歌唱は迫力がありましたし、充分楽しめました」

「ならよかったです……」


 意外な高評価にリネアがホッとしていると、ベネディクトは何かを思い出したかのように、わずかに表情に緩めた。


「それに、王女殿下の意外な姿も知ることができましたから」

「私の意外な姿……?」

「では、気をつけてお帰りください。それと、フレドリカはすぐ回復すると思いますので、また近いうちに会っていただければ幸いです」

「あ……分かりました。またフレドリカにお誘いの手紙を書きます」

「お願いいたします」

「あの、今日はありがとうございました」

「こちらこそ」


 お詫びと感謝をすべて伝えて馬車に乗ると、御者が待ってましたとばかりにすぐ馬車を出発させた。おそらくリネアの戻りが遅いので待ちくたびれていたのだろう。


 窓の外を通り過ぎていく景色を眺めながら、今日の出来事を思い出す。


 歌劇場で居心地悪そうにリネアを待っていたベネディクト。チケットの払い戻しができないと知り、ショックを受けていたベネディクト。観劇中、微動だにしないと思っていたら、案外楽しんでいたらしいベネディクト。歌劇場の外で見せてくれたリラックスした笑顔……。


「公爵こそ、意外な姿だらけだったじゃない」


 ベネディクトのさまざまな様子を思い出して、リネアがくすくすと笑う。


 フレドリカと一緒に観劇できなかったのは残念だったが、ベネディクトのおかげで案外楽しい思い出になった。


「帰ったらフレドリカに手紙を書かなくちゃ」


 リネアが馬車の窓を開ける。

 外から入ってきた涼しく爽やかな風が、リネアの頬を心地よく撫でた。


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