第五章 江南初入
柳河鎮を離れて五日後、顧雲深と小環はついに江南の地へと足を踏み入れた。
「従兄さん、見てください!」小環が前方を選び、興奮気味に叫んだ。「あれは……あれは水田です!」
顧雲深が彼女の指す方を見ると、そこには広大な平原が広がり、青々とした水田が地平線まで続いていた。所々に桑園や茶園が点在し、遠くの村々からは炊事の煙が立ち上り、縦横に流れる運河が景色を彩っている。北方のあの荒涼として荒れ果てた土地とは、鮮やかな対照を成していた。
「これが江南か」顧雲深は深く息を吸い込んだ。空気には湿り気と清らかな香りが満ちている。「大夏王朝で最も豊かな場所だ」
二人は足早に進んだ。江南に入ると道の状態は明らかに良くなり、官道は広く平坦で、道端の柳が風に揺れている。時折、商隊が通り過ぎるのも見えた。彼らの服はボロボロで顔には旅の疲れが滲んでいたが、心は希望に満ち溢れていた。
さらに二日歩き、彼らは「臨安府」という城郭都市に辿り着いた。
「従兄さん、これが臨安府ですか?」小環は目を丸くして、目の前の雄大な城を見上げた。
高くそびえる城楼、堅固な城壁。門の上に掲げられた「臨安府」の三文字が金色に輝いている。行き交う人々は数知れず、豪商や物売り、文人墨客から江湖の侠客まで様々だ。城内には店が立ち並び、威勢のいい物売りの声が響き渡る、まさに繁栄の極みであった。
「そうだ、ここが臨安府だ」顧雲深は言った。「杭州の玄関口であり、我々が立ち寄る最初の拠点だ」
「従兄さん、ここで少し休みますか? それとも先を急ぎますか?」
「二日ほどここで休もう。物資を補充し、杭州への道中の様子を探る必要がある」
二人は城門をくぐり、安い客棧(宿屋)に落ち着いた。道中、煎蛋包を売って稼いだ金は、三両ほどになっていた。決して多くはないが、一文無しの逃亡者だった二人にとっては巨金である。
「従兄さん、こんなにたくさんのお金、どう使えばいいか分かりません」小環は荷物の中の銀を見て、目を輝かせた。
「そう喜ぶのはまだ早い。これはあくまで軍資金だ。本当の富は、杭州へ行ってから稼ぐんだ」
「杭州はそんなに良いところなのですか?」
「良いというより、凄まじい場所だ」顧雲深の瞳に鋭い光が宿る。「あそこは江南の商業の中心地。絹、茶、陶器の貿易が盛んで、商人が雲集し、チャンスが無限に転がっている。知恵と手段さえあれば、あそこに自分の『商業帝国』を築くことができる」
「商業帝国?」小環はきょとんとした。「従兄さん、どんな国を作るつもりなんですか?」
「李嵩に対抗できる力を持つ帝国だ」顧雲深は静かに言った。
小環は分かったような分からないような顔で頷いた。彼女には「商業帝国」が何たるかは不明だったが、従兄がやろうとしていることは、きっととてつもなく偉大なことなのだと確信していた。
翌日、顧雲深は小環を宿で休ませ、一人で街の情報収集に出かけた。臨安府は杭州ほどではないにせよ商業の要衝であり、情報は早い。茶館で半日過ごすだけで、有用な噂がいくつも耳に入ってきた。
「聞いたか? 朝廷がまた増税するそうだ!」
「何の税だ?」
「『軍費税』とか言って、一軒につき二割も上乗せだとよ!」
「二割!? 無茶苦茶だ、民はどうやって生きていけばいいんだ」
「民が生きようが死のうが、お上には関係ないのさ。李宰相が戦をすると言えば、俺たちが金を出すしかないんだ」
人々の不満を聞きながら、顧雲深は内心で冷笑した。李嵩はまだ増税を強いているのか。どうやら相当に金に困っているらしい。金に窮した奸臣は、なりふり構わず民から搾り取るものだ。これは利用できる弱点になる。
彼はさらに耳を傾けた。
「それからな、最近、李宰相が北方の拓跋宏と親密にしているらしい。密使が頻繁に行き来しているという噂だ」
「拓跋宏? あの蛮族の首領か?」
「そうだ。李宰相が自分の権力を守るために、国土を売り渡して奴の支持を取り付けているという話だ」
顧雲深の心が動いた。
拓跋宏。北方蛮族の首領であり、李嵩の同盟者、そして彼にとって未来の敵の一人だ。もし李嵩が本当に国土を売っているのなら、奴を倒す理由はさらに強固になる。復讐だけでなく、国を救うための戦いだ。
彼が茶館を去ろうとした時、一人の男が入ってきた。儒学者のような服を着ているが、その眼差しには狡猾さが滲んでいる。
「皆さん、朗報ですぞ!」男は扇子を叩いて大声を出した。
「何だ、朗報ってのは?」
「杭州の首富、蘇家が、お嬢様の婿養子を募集しているそうだ! 才ある者なら、家柄を問わず蘇家の婿になれるチャンスがあるとのことだぞ!」
「蘇家のお嬢様だと?」客の一人が息を呑んだ。「あの蘇青のことか?」
「そうだ、蘇青だ!」男は頷いた。「蘇青殿といえば有名な才女で、経済に精通し、経営にも長けた蘇家の至宝。彼女を娶れば、蘇家の婿になれるだけでなく、家業を継いで江南商界のリーダーになれるというわけだ!」
茶館は一気に沸き立った。顧雲深の脳裏には、ある人物の影が浮かんだ。
蘇青。
彼の記憶によれば、彼女は才色兼備で経済に明るい。何より、かつての顧雲深(原主)の文才を高く評価しており、彼が没落した後も密かに消息を案じていた人物だ。
彼女は頼れる存在になる。蘇青と接触できれば、彼女の支持を得るだけでなく、蘇家の商業ネットワークを利用して、一気に経済基盤を築くことができる。
「従兄さん?」背後から聞き慣れた声がした。小環だった。
「心配で追いかけてきちゃいました。従兄さん、蘇青さんの話を聞きましたか?」
「ああ、聞いた。……杭州へ行くぞ」
「今すぐですか?」
「そうだ。蘇青の婿募集は、我々が杭州商界へ食い込むための千載一遇のチャンスだ」
「でも従兄さん、あなたは皇族なのに、婿入りなんて……」小環が心配そうに尋ねた。
「今の俺は皇族ではない」顧雲深は言った。「ただの落ちぶれた書生だ。蘇青を娶ろうとする、一人の男に過ぎない」
顧雲深の言葉には、揺るぎない決意が宿っていた。
「蘇青は単なる女ではない。俺たちが商業帝国を築くための、大きな『鍵』だ。彼女を娶れば、杭州に根を張り、李嵩と戦う実力が手に入る」
「……少し、打算的すぎませんか?」
「打算か?」顧雲深は笑った。「小環、覚えておけ。この世界に純粋な感情などない。あるのは純粋な利益だけだ。感情は後から育めばいいが、利益は今、掴み取らねばならないんだ」
二人が宿に戻り荷物をまとめようとしたその時、外が騒がしくなった。
「開けろ! 官兵の検問だ!」
顧雲深は咄嗟に小環を連れて部屋に引き返した。窓から外を伺うと、十数人の官兵が宿を囲んでいる。指揮官が持っているのは、粗末ながらも顧雲深の顔が描かれた人相書きだった。
「……ここまで追ってきたか」
二人は迷わず二階の窓から飛び降り、裏路地の柴草の山に着地した。背後から「あそこに誰かいるぞ!」という叫び声が聞こえる。小路を抜け、障害物を飛び越え、執拗な追跡を振り切って臨安府の城外へと逃れた。
【システム提示:官兵の捜索を回避。危機脱出。】
【危険度:低。速やかに杭州へ向かってください。】
五日後、二人の目の前に杭州城の雄大な輪郭が現れた。運河には商船がひしめき、空前の繁栄を誇る街。
「あそこが杭州……私たちの未来の起点だ」
城門には、茶館で聞いた通りの高札が貼られていた。
【婿養子募集公告】
杭州蘇家、長女・蘇青の婿を募る。才ある者、出自を問わず。
選考:
初試:詩詞歌賦(文才)
復試:経済策論(見識)
終試:実戦比試(能力)
顧雲深はそれを見て、不敵に微笑んだ。詩詞は原主の得意分野。経済策論は、21世紀の金融のプロである彼にとって「庭」のようなものだ。天機システムがあれば、この時代の本質を見抜いた圧倒的な策を書ける。
蘇府の門前には、志願者が列をなしていた。豪華な服を着た御曹司から、野心溢れる書生まで様々だ。
「お名前を」受付の執事が尋ねた。
「顧雲深だ」
執事が顔を上げ、一瞬驚きの色を見せた。「天都の、あの……?」
顧雲深の身体が強張るが、執事はすぐに冷静を取り戻し、受験票を渡した。「明朝、初試を開始する」
宿に戻った顧雲深は、筆を執った。蘇青を動かすには、ただの美しい詩では足りない。彼は江南の情景に、自身の商業的野心と時代の展望を込めた《江南春》を書き上げた。
明日、初試が始まる。
蘇青を娶り、商界の頂点へ登り詰め、李嵩を奈落の底へ突き落とす。
復讐の第一歩が、ついに正式に踏み出されようとしていた。
【システム提示:杭州到着。任務フェーズ1完了。】
【目標:蘇青の招親(婿選び)初試を突破せよ。】
「小環、明日からが本当の勝負だ。準備を始めるぞ」
「はい、従兄さん!」
二人は顔を見合わせ、希望に満ちた笑みを浮かべた。
21世紀の知恵と古代の身分を融合させた男の、前代未聞の逆転劇が幕を開ける。




