1-5 探索
見えてきた室内は、記憶していたのとほとんど変わらない厨房だ。
イルヴァがもっと幼い頃、料理長からおやつをもらった記憶が蘇る。あの料理長も解雇されて、もうここにはいないはずだ。
細かく見れば変わっていることもあるのかもしれないけど、とにかく窓の隙間から射し込む月明かり程度の他は闇の中という観察で、大きなものの配置はそのままのように思われる。
それならば、とそこそこ広い室内の左奥を目指す。そちらが、食材などの保管庫になっているはずだ。
大きな引き出しが積み上がったみたいな見てくれの、大人の背丈を超える高さの木造設備。
その引き出しを下から順に開けていく。
――これは、葉野菜。
――これは、芋。
――これは、豆。
――小麦粉。
――五つめに、見つけた。
焼いた丸パンが、いくつも無造作に転がっている。
――あった。
思わず、イルヴァの口に唾が溢れる。
すぐにも掴み出して齧りつきたい、と逸る気持ちを何とか抑えて。あといくつか引き出しを確かめ、考える。
この夜の冒険の目的は、もちろん食べ物の確保だ。
ただそれには、絶対守らなければならない条件がある。
イルヴァがここから何かを盗んだ事実を、気づかれない。
何度も満腹まで食べて見るからに明らかに栄養状態改善をするなどして、不思議がられることは避ける。
とにかく現在進行している義母たちの企みが、失敗しそうなどと思わせてはならない。
もしそうなったら、イルヴァは別の方法で命を狙われることになるだろう。次にはもっと過激に、手段を選ばない、ということになるかもしれない。
将来的にこんな家など飛び出してしまいたいという気はあるが、今すぐは無理だ。頼れる人はいないし、夜露を凌ぐ場所の当てもない。
少なくともこの屋敷で、屋根の下の部屋だけは確保できている。
何とか一人で生きていくための力をつけるまで、現状で辛抱すべきだろう。現在の最大の問題は餓死寸前ということなのだから、ぎりぎりそれだけの回避で時間を稼ぐ限り、今のところそれ以上の仕打ちをされることは考えられない。
――まずとにかく、食べ物が減っていることを勘づかれてはいけないんだよね。
ここの料理人がすべての食材の保管量を細かく記録している、とは思えないけど。とにかく目立たないように。
丸パン保管の引き出しは、二つあった。片方は比較的整然と並べられ、もう一方はそこそこ無造作に放り込まれたというような。そっと触れて比べると、整然とした方が柔らかい。つまり古く硬いパンの方が管理が緩いと考え、一つだけ取り出す。
ここも齧りつきたいのを堪えて、空間に収納。慌てて喉に通すと以前のように嘔吐しかねないので、部屋に戻ってゆっくり咀嚼しなければと思うのだ。
パンだけは絶対確保と思っていたけれど、他の食材についてはどう管理されているか分からない。夕食の余りなども何処かにあるかもしれないけれど、どう保管されているのか、そこから減っていたら気がつかれるかどうか、分からないので諦める。
ここで口にしたら嘔吐しかねない、部屋に運ぶには収納空間にしても手持ちにしても分量に限りがある、という理由もある。
――とにかく絶対、気づかれる危険は避けなくちゃいけない。
それでも未練げに見回していると、隅の箱に何やら乱雑に放り込まれているのが目についた。
近寄って覗くと、廃棄予定の食器類らしい。木製の皿や器で真っ二つや粉々になったものが見つかる。
その中に縁が少し欠けただけの木のコップがあったので、取り出してみる。
大きさ的に大丈夫と見て収納を試みると、できなかった。
――先にパンが入っている、からか。
パンとコップの両方は、大きさ的に無理らしい。
少し考え、パンは一度取り出す。
それから「コップだけ」と念じて収納。すぐに手の中に取り出す。これで、付着していた汚れなどは消えたものと思われる。
そのコップに、飲料用の水を汲む。水は魔法でも出せるが、極力魔力は使わないようにしたい。
どちらか一方、どっちにするかと考え、水のコップを収納してパンは手に持つことにした。水は、途中で零す恐れがあるから。
他の食物に未練はあっても、これ以上運ぶことは難しい。
――やりすぎは禁止。今は安全第一。
きっぱり意を定めて、厨房を後にした。
部屋に戻り、パンとコップをテーブルに並べる。
扉の錠を、収納経由で元に戻す。
そうしてからベッドに腰かけ、水に浸しながらゆっくりパンを口に入れた。
一口。
ゆっくり、噛みしめ。
噛みしめ。
「う……く……」
気がつくと、イルヴァの目から涙が零れていた。
「……おいひい……」
おいしい、はずなどないのだ。
ほとんど味もない、ぼそぼそぐちゃぐちゃの水漬け硬パンなんだから。
およそ、貴族の端くれが口にするようなものじゃない。
しかし。
「おいひい、よお……」
この夜は本来、食べる物もなく、空腹の苦痛で眠ることさえ難しいかもしれなかったんだ。
思いがけずの、一日早い食事。
空っぽのお腹に、形のあるものが落ちていく。
噛みしめ。
噛みしめ。
「う……ぐす……ぐす……」
啜り上げる鼻水が貴重な食物の上に落ちないように、気をつけて。
弱った胃と相談しながらゆっくり噛み続けるのが、もどかしいほどに。
本来、食べることができるはずはなかった。
それを。
文字通り、命がけの末に、手に入れたんだ。
もう、五日間絶食には戻れない。
――戻りたくもない。
これから毎夜、パン一つを手に入れることは可能だろう。
あの古い方のパンならば、夜間に一つ減っていても気づかれないんじゃないか。そう思いたい、と言うか、思うしかない。これだけは実行しないと、命に関わる。
他のものについては、欲を出さない。とにかく、気がつかれないことを最優先にする。
一日パン一個で何とか命を保たせることはできると思うが、たぶんこれだけで健康を保つことは無理だ。ゆくゆくはそちらも考えていかなければならない。
――それでも、急がない。欲張らない。
時間をかけた食事を終え、板の上に横たわる。
満腹にはほど遠いけれど、最悪のひもじさに転げ回るはずだったこの日に、数日前までは考えられなかった落ち着きだ。
今後も下手を打たなければ、最低限こうした夜は迎えられるはず。と言うより、何としてもこの水準だけは確保しなくちゃならない。
――そのために――。
夜闇の中にぼんやり視線を漂わせながら、考える。
考え、迷ったけれど。やっぱり必要だろう、と思う。
この一日、まったく基礎魔法を使わなかった。水を飲みたくても我慢したし、さっきの闇の中の歩行でも光を使わなかった。だからまだ、魔力値は1のまま残っている。
今夜もパンとコップの両方を収納することができず悩んだわけで、これからもこうしたことは十分にありそうだ。つまり、収納空間一つでは足りない。
結局前日と同じ決断を強いられるわけだけど、同じだ。もう一度、命をかけてやってみよう。
何となくながら、昨夜よりは楽観的な気もしてくる。一度大丈夫だったんだから、二度目もいけるんじゃないかといったような。
つまるところ、やっぱり、同じく。
これで天に召されても、運が悪いと諦めるだけだ。
――やっぱり、そうしたらお母様に会えると思えばいいよ。
闇の中に、深呼吸。
覚悟を決めて。
「空間成造」
口にする。
途端、激しい不快感が全身を襲い。
「くあ――あああ――――」
バタ、バタバタ――。
板の上でのたうち、のたうち。
イルヴァは意識を手放す。




