1-3 断行
そのアールネは貴族としての教育はまだだが、護衛兵を教師にして剣の稽古を始めているという。
ほとんどイルヴァと言葉を交わす機会はない。それでも一度偶然、廊下で顔を合わせたことがあった。向こうは男の側仕えを伴っているが、こちらは一人だ。
母を亡くした悲しみは消えず父に見放される宣言を受けた直後で、ほとんど感情を失った状態で歩いていると、じろりと冷たい目を向けられた。
「こいつ、邪魔くさい奴だな。こんなのいなくなった方がいいって、母様が言ってたぞ。俺が始末してやろうか」
持っていた木剣をビッと水平に翳し、剣先を向けてくる。
しばらく前から屋敷の中の出来事にいちいち思うことをなくしていたイルヴァだったが、このときだけは恐怖めいたものを感じて目を瞠り、後ずさっていた。
使用人たちの態度はただ冷たいだけだが、この少年の向けてくる感情は違う。何をしても許されるとでもいった意識があるのか、邪魔なものは排除するという行為をためらいなく実行するだろうことが、幼い少女にも本能的に感じとれるのだ。
木剣の先が持ち上がろうとしたところで。側仕えが冷静な声をかけた。
「坊ちゃまが手を下すと、まずいことになります。お母様が方法をお考えになっていますので、今はお堪えください」
「そうなのか?」
「はい」
「邪魔だから、さっさと何とかしてほしいな」
「然様でございますね」
じろり残忍な目を向けて、それから主従はズカズカと歩き去っていく。
生まれて初めてと言えるむき出しの悪感情を向けられた恐怖で、イルヴァはそのまま廊下の隅にぺたりと座り込んでしまった。
それから少しして、イルヴァは屋敷隅の小部屋に居住を移された。
扉には施錠がされ、外出を許されない。窓には格子が填められている。
窓の外は一面の雑草とその先の森しか見えない裏庭で、人が通ることはまずなさそうだ。
室内には小さな戸棚と粗末な小テーブル、板がむき出しのベッドがあるだけ、
トイレだけは続き部屋にあるのが、わずかな救いとも言える。
水は少量ながら、基礎魔法で取り出せる。
粗末な食事が一日二回運ばれて、一人で黙々ととる。
当然、側付の使用人も家庭教師もいなくなった。
戸棚にあるのは、今着ているものと合わせて平民の子どもより粗末に見えるワンピースが二着、これも身に着けているものと合わせて三着の下着。
そういう世話をする者もいなくなっているので、数日ごとに自分で魔法の水で洗濯することになる。
食事はやがて一日一回となり、二日に一回、三日に一回……と減り、ひと月ほど前から五日に一回丸パン一個のみ、という形に落ち着いた。
最初の頃は食事を運ぶ女使用人に、もっと食べ物をくださいと泣いて頼んだが、薄ら笑いを返されるだけだった。
小さな頭の中に、諦めるしかないということを刻み込む他、できようもない。
そうしてイルヴァは、ほとんどの時間を空腹に悩まされることになった。
「お腹、空いた……」
口に出しても、何の効果も得られない。
誰からの手も、差し出されることはない。
五日に一回丸パン一個とコップ一杯の水、という妙に律儀な規則正しいサイクルが続く。
空腹は、三日目から四日目が最も苦しい。五日目になるとどこか麻痺したように苦痛はやや紛れることが多く、昼過ぎにパンが運ばれてくるという期待が膨らんでいる。
ただこのサイクルになってから確か三度目に運ばれたパンを夢中で口にしたとき、突然の腹痛でトイレに駆け込み喉に通した分すべてを嘔吐してしまう、ということがあった。
あまりの空腹で、胃が受け付けなかったらしい。
それ以来イルヴァは、パンを貴重な水に浸して柔らかくしてから少しずつ、よく噛んで飲み込むように努めている。
貴族用とは到底思えない硬くなったパンで、こうした食べ方では旨みも何もないのだが、五日に一度の栄養源は涙が出るほどありがたく口に感じられる。
しかしそれでも。これが義母の意図するところと思われるのだが、明らかにイルヴァは自分の身体が弱っていくのを感じ続けていた。
五日に一度のわずかな穀物製品だけで、とても人間の生を保てるとは思えない。ましてや、成長途中の幼児なのだ。
このままだと義母の企み通り、体力衰弱して何らかの病にかかるしかないのではないか。
――奴らの手に乗って堪るか!
字面だけは勇ましいかもしれない声が、頭の奥に生まれてはいるものの。
実際の身体は。空腹の継続で弱りきり、ほとんど力の籠もりようもなくなっている。
今日は、サイクルの三日目。これから明日にかけてが、最も苦しい期間だ。
そろそろ衰弱が限界に達して、明日にも力尽きるかもしれない。
何か、できることはないか。
実を言うとイルヴァは、一つだけ打開に繋がるかもしれないという可能性を頭に描いてはいた。
ただ、
――命がけ、ということになるんだよなあ。
授けられた、加護だ。
加護については、前例がなく神官にさえ詳細が分からないものでも、本人にはぼんやりながらそのあらましが頭に浮かぶ、ということがあるらしいと言われる。
イルヴァにも、授けられた直後からそれが頭に入っていた。
ただ命がけでなくては使えないものだし、父に告げても無意味なのはまちがいないので、誰にも話していない。
イルヴァに授けられた加護の正しい名称は『空間』だ。その加護により、『収納』という魔法が使えるらしい。
――『収納』って、何? 分からない。
……頭に浮かんだのは、その程度だった。
あともう一つ、加護を得てからイルヴァに変化があった。
自分でもどう表現していいか分からないが、視界の隅に小さく光って見えるものがある。1という数字だ。
気にしないでいると気にならない。よく見ようと目を凝らすような意識をしてみると、そこそこ明瞭に見える。
その1という数字の意味が分からなかったのだが。しばらくして、見当がついた。
イルヴァにも、基礎魔法だけは使える。一日五回未満という制限付きだが。
それが、例えば水魔法を一回使うと、見える数字が0・8という小数に変化したのだ。つまりこれは、魔力値の残量を表しているらしい。
こんなことを、他の人から聞いたためしがない。特殊な加護によるイルヴァの固有なものではないかと思われる。
――魔力値1という境遇を、神様が哀れんでくれたのかも。
つまり0・2になったら、もうこれ以上無理だよ、という警戒の必要のためか。
何となく情けなくなりながら、納得することにした。
それが加護に絡んで、分かったことのすべてだ。
――そのはずだった。
のに、この日になって、事情が変わったのだ。
さっき、頭の奥から得体の知れない『知識』みたいなものが生まれた。
それが、教えてくれたのだ。『収納』の予想される詳細を。
どうもその『知識』も魔法を実際に経験したことはないらしいのだが、空想とか創作といったようなものの中にそれに該当するものがあるらしい。
そうして告げられたものに、加護に付随するものから肯定するような感触が得られた。それから、追加の情報提供もあった。
それらを総合すると。
どうも『収納』というのは、異空間に自由に物質を出し入れできる魔法らしい。あくまで物質であって、生物は除く。
その『収納』の空間を作るために、魔力値を1消費する。その後の出し入れは何度行っても魔力値を消費しない。
魔力値1で作ることができる収納空間の大きさは、縦横高さが10セターの立方体。
1セターというのは、子どもの指先ほどの長さだ。
縦横高さが、10セター。
――ちっさ!
そんなもの意味があるのか、と思う。
つまり、拳くらいの大きさのものしか出し入れできない、ということだ。
そしてその空間一つを作ることで、命を落とす可能性が大きいという。
――そんな割の合わない賭け事、誰がやるっていうのさ。
吐き捨てて、イルヴァはベッド板の上に寝返りをする。
どんな姿勢をとっても、キリキリと空腹の痛みが染みてくる。
辺りが暗くなるのを知りながら、何をするべくもなく頭の中に思考が続く。
いろいろ考えるうち、もしかしたら、というものがいくつか浮かび上がってくる。
もしかしたら、縦横高さ10セターの立方体で、こんなことができるかもしれない。
しかしそれ、命を懸ける価値はあるか?
でも、でも――。
――このままだと、放っといてもきっと殺されるんだ。
だとしたらたとえ割の合わない賭けでも、やらずに後悔するよりはいいんじゃないか。
残された一人の肉親、父には「使えない加護」と見放された。
それを密かに見返せる可能性を追うだけでも、意味があるかもしれない。
――こんなの、およそ七歳児の考えることじゃないけどさ。
さっきからいろいろ思考を巡らせ、イルヴァは開き直ったような感覚になっている。
頭の奥に妙な『知識』が生まれ出てきてから、自分の何処かに変化が起きている。何と言うか、子ども離れした思考が頭を支配してきている、というような。
気味が悪い気もするけど、一方でそれも悪くないという思いにもなっている。こんな死の淵に近づいている今、大人びた考えで打開を考えることができるなら。
これが大人びて真っ当な選択と言えるのかさえ、確証は持てないけど。
とにかく、怖くてもやってみようか、というくらいの度胸みたいなものは何処かに生まれている。
結果が悪い方に転んでも、それはそれで運命かもしれない。
――天に召されても、お母様にまた会えるとしたら、悪くない。
――と、腹を据え。
加護が囁きかける、言葉を口にする。
「空間成造」
途端、生まれて初めてと思えるほどの不快感が、全身を襲った。
「くあ――あああ――――」
バタ、バタバタ――。
板の上でのたうち、のたうち。
イルヴァは意識を手放した。




