1-1 目覚《めざめ》
〈ルオナヴァーラ暦612年10の月〉
「うううう……」
板だけが露出する寝床に腹這いになって、少女の乾いた唇に呻きが漏れる。
両手で押さえた薄い布地の下で、腹部がかすかに痙攣する。
こういう場合の象徴とも言える音声さえ、弱り切った内臓はしばらく前から奏でなくなっているのだ。
お腹空いた……。
ひもじい……。
そんな声さえ出ないし、出したとしても何の役にも立たないことは分かりきっている。
「え……と……」
何だっけ。
自分は何を考えていたっけ。
そもそも自分は、誰だっけ。
どうしてこうしているんだっけ。
霞み始めていた頭の中身を、何とかかき集めてみる。
何だか分からないけど、しばらく意識が遠のいていたみたいだ。
まるでそれ以前の自分が失われたみたいに、何かが頭の中で欠けずれたみたいに。
――きっと、空腹のあまり失神していたんだ。
自分というものを失ってしまっては、堪らない。
必死に、記憶の残骸を探る。
自分は――イルヴァ・ケミライネン。
ケミライネン子爵家の長女。
現在、七歳。
ほら、思い出した。
ここは、カルッティアラ王国ヒュヴァリネン侯爵領内にあるケミライネン子爵家領地、その領主邸。一階隅の小部屋。
この屋敷主人の娘である自分が、どうしてこんな粗末な部屋で空腹に呻いているのか。
――思い出したくもない――けれど、忘れてしまうわけにもいかないよ。
最近のイルヴァに与えられている食料は五日に一個、拳の大きさ程度の丸パンだけだ。
一年近く前に、母が亡くなった。
半年ほど前に、教会で加護を授かった。
それ以降、完全に父の関心を失って、放置されている。
その、結果だ。
――ああ、あと……。
半年少し前に、父は後妻を迎えた。
何故かイルヴァより一つ年上の、父の実子だという息子とともに。
ずっと前からのことだが、父はこの家から徒歩だと二日かかる距離の侯爵領領都にある領主邸で執務をしていて、こっちに戻るのは月に一度あるかないか。
その間屋敷の実権は、後妻のソルヴェイとその息がかかった執事サンプーサに握られている。
つまり、改まって尋ねたこともないけど火を見るよりも明らか、今のイルヴァの境遇は義母の意図によるものだ。
――わたしに、死んでほしいんだろうなあ。
殺したいというのなら直接手を下すなり、五日に一個のパンなど与えず餓死させるなりすればいいんだろうけど。
その辺、少し複雑な事情があるらしい。
それは――。
いや――。
――ああーーッ、頭がぼやける!
空腹というか飢餓が、限界なのかもしれない。
食べ物がないというだけなら、ひと月程度は生き延びるかもしれない――そんな知識が何処からか囁きかけてくるけど。
この五日に一個という待遇が、もうひと月以上続いているんだ。
ましてや、それ以前から栄養状態が悪化している七歳児。
そろそろ限界に来て、不思議はないんじゃないのか。
限界かどうか、なんてことはともかくも。
こんなずっといつまでも続くひもじさ。
五日かけて延々と空腹が悪化し。
ようやく一個のパンを口にしても、満たされず。
それからまた延々と苦痛が続く。
こんなのもうやめにして、さっさと死んでしまった方が楽なんじゃないのか。
そんな諦めの気持ちが湧き。
全身に広がり、染み込み、まるで生きる力を抜きとっていくみたいに。
もう――。
もう――。
やめにしようか――。
死んでしまおうか――。
――――――。
死んで――
――たまるか!
いきなり、頭の奥から叫ぶ声が響き出てきた。
驚いた。
何にって――。
これまでのイルヴァに、こんな叫ぶみたいな強い意思は何処にもなかったのだ。
母の死以降、何をする気力も失って。
父からも義母からも使用人たちからも、言われるがまま無気力に従って。
挙句の果てが、こんな小部屋での餓死寸前の境遇、だ。
それなのに。今の強い言葉、何処から出てきたのだろう。
自分の内を、探ってみる。
――何か、変わっただろうか。
変わった、のかもしれない。
何か、今までにない手応え、みたいなものが奥底に生まれている。
それから何か――今までなかった『知識』みたいなものが。
そう言えばさっき、「食べ物がないというだけなら、ひと月程度は生き延びる」という囁きがあった。こんなの、今までのイルヴァになかった知識だ。
何かが、イルヴァの中で変わっている。
何だか、分からないけど。
もしかするとさっき意識を失って、今までのイルヴァが死んで、生まれ変わったのかもしれない。
――いや、それはないか。
今までの自分の記憶は、そこそこ鮮明にある。
ただ、何かがそこに加わったのかもしれない。
だからと言って。
――今の境遇をどうするでもないけどねえ。
それでも、死んで堪るか、生きるのを諦めるな、という呼びかけが何処かに生まれている。
何かできないか。考えるべきじゃないのか。
今の境遇を整理して、何かできるか、できないか、考えてみようと思う。
今のイルヴァは、子爵家の長女。
半年くらい前まではそれに相応しく育てられ、少しずつ教育も受けていた。
あの頃はまだ使用人たちも親切で、いろいろと教えてくれることもあった。
それによると。
この国カルッティアラ王国では中央に国王が王領を持ち、十名余りの大貴族たる公爵、侯爵がその周囲から辺境にかけて領地を持つ。
大貴族たちは王室から授かったり貴族同士で奪い合ったりしながら、伯爵子爵男爵という低位貴族の株のようなものを所有し、家臣に与えている。
そういう慣習に従って、父のマイニオ・ケミライネンはヒュヴァリネン侯爵家の家臣として子爵の地位を授かり、領地を分け与えられている。
ヒュヴァリネン侯爵家の家臣で爵位を授けられた者としては、かなり新しい方だという。侯爵家の重臣であるキュマライネン伯爵の姪を嫁にとることを条件に、叙爵されたのだとか。
伯爵の姪、つまりイルヴァの産みの母エヴェリーナだ。
叙爵の条件になるというくらい、この伯爵令嬢には問題があった。
本人の人となりとは関係ない。血筋の関係だ。
エヴェリーナの母親はまちがいなく先代伯爵の娘、現伯爵の妹なのだが、父親不明の子を身ごもり、出産後に死亡した。結局生前、子の父親についてはまったく誰にも明かさなかったという。
そんなわけで、伯爵の血にはまちがいないが父親の方が不明としてエヴェリーナは生まれ育つ。そういう問題で婚姻が難しくなっていた姪を、現伯爵は主君の侯爵に頼み込んで片づけたということになる。
絵に描いたような政略結婚で、イルヴァの父と母の間に情愛は薄かったようだ。
ただし、父には母を粗末にできない事情があったらしい。
一つは、母を離縁したり冷遇するなどしたら子爵位を剥奪する、と侯爵から言い渡されていたこと。
もう一つは、母の実子に子爵位を継承させると決められていたこと。
つまり、時期子爵はイルヴァに決まっているのだ。
この国での爵位継承は男子優先だが、女子にも認められている。母の実子がイルヴァ一人しかいない以上、これは決定事項となる。
そうである以上、今こんなところでイルヴァが餓死しかけているなど、
――絶対あり得ないはずだよ、こんなの。
しかしこの数ヶ月、イルヴァはいつ死んでもおかしくない境遇に追い込まれている。
これが義母と執事だけの考えなのか、父も同意してのことなのか、そこは分からない。
とにかくイルヴァを亡き者にして、義兄のアールネを次期子爵に仕立て上げようという意図と思われる。




