君の隣は、あたたかすぎた
誰かの隣が落ち着くなんて、
もう二度とないと思っていた。
でもあなたの部屋で飲んだコーヒーの湯気も、
眠そうに笑う声も、
「おかえり」みたいな空気も、
全部、
私がずっと欲しかったものに似ていた。
玲司と次に会う約束をした日から、美桜は少しおかしくなっていた。
仕事中なのに、時計ばかり見てしまう。
メイクが変じゃないか何度も確認してしまう。
クローゼットの前で三十分悩む。
こんなの、高校生みたいだと思った。
でも、それくらい玲司と会うことが特別になっていた。
「うわ、今日めちゃくちゃ気合い入ってる」
ロッカールームで莉子が吹き出した。
「別に普通だけど」
「いや、絶対違います。髪巻いてるし」
「いつも巻いてる」
「今日は丁寧です」
鋭い。
美桜はため息をついた。
「そんな見ないで」
「だってわかりやすすぎるんですもん」
莉子は嬉しそうに笑っている。
「今日デートですよね?」
「デートじゃない」
「もうその否定聞き飽きました」
美桜はロッカーを閉めながら、小さく息を吐いた。
確かに、デートなのかもしれない。
玲司と映画を見て、そのあとご飯へ行く約束をしている。
“約束”。
その言葉だけで胸が少し熱くなる。
誰かと会う予定を楽しみにするなんて、いつぶりだろう。
昔は、もっと自然に恋をしていた気がする。
会いたいと思って、
好きになって、
未来を想像して。
でも傷ついてから、美桜はそういう感情をどこかに閉じ込めてしまった。
期待すると苦しくなる。
信じると壊れた時に痛い。
だから恋愛から距離を取っていた。
それなのに玲司は、少しずつその壁を壊してくる。
無理やりじゃない。
静かに。
自然に。
気づけば、美桜は彼を待つようになっていた。
仕事を終え、待ち合わせ場所へ向かう。
駅前の映画館。
人混みの中に玲司を見つけた瞬間、美桜の心臓が大きく跳ねた。
黒いジャケット。
ラフなデニム。
片手でスマホを見ている横顔。
美桜に気づくと、玲司は少し笑った。
「こんばんは」
「お待たせしました」
「全然。俺も今来たとこです」
まただ。
たぶん少し前から待っていたのだろう。
でも玲司は、そういうことを自然に隠す。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
「手、冷たい」
玲司がふっと言った。
その瞬間、美桜の胸が熱くなる。
どうしてそんな細かいことに気づくんだろう。
「玲司さんの方が薄着ですよ」
「暑がりなので」
「また嘘」
玲司が少し笑う。
その笑顔を見るだけで安心する自分がいる。
映画は恋愛ものだった。
偶然だった。
美桜は最初、もっと軽い作品を選ぼうとした。
でも玲司が「これ気になってた」と言ったから、それにした。
上映中。
スクリーンの中では、恋人たちが泣きながら抱き合っていた。
「ずっと一緒にいよう」
そう言って笑い合う二人。
その言葉を聞いた瞬間、美桜の胸が少し痛んだ。
ずっと。
一緒。
永遠。
その響きは、今でも少し怖い。
玲司はどう思っているんだろう。
そんなことを考えているうちに、映画が終わった。
エンドロールが流れる。
周囲のカップルたちが静かに席を立つ。
美桜はぼんやりスクリーンを見つめていた。
「天音さん」
玲司が小さく呼ぶ。
「泣きました?」
「……少し」
「俺も」
玲司は照れたみたいに笑った。
その表情が妙に優しくて、美桜の胸はまた苦しくなる。
映画館を出ると、外はすっかり夜だった。
冬の空気が冷たい。
「何食べたいですか?」
玲司が聞く。
「なんでも」
「一番困るやつですね」
美桜は少し笑った。
玲司といると、自然に笑ってしまう。
そのことに自分でも驚いていた。
昔はもっと、恋愛中でも気を張っていた気がする。
嫌われないように。
面倒だと思われないように。
“重い女”にならないように。
でも玲司の前だと、少しだけ肩の力が抜ける。
結局二人は、小さなイタリアンへ入った。
落ち着いた店だった。
ワインの匂い。
小さな照明。
静かな音楽。
玲司はメニューを見ながら言った。
「こういう店、久しぶりです」
「来ないんですか?」
「仕事終わりだとラーメンとか牛丼ばっかりなので」
「ちゃんとしたご飯食べてください」
「天音さんにだけは言われたくないです」
またそれだ。
美桜は少し笑った。
「なんでそんなに私の食生活把握してるんですか」
「なんとなくわかります」
玲司は静かに笑う。
その目が優しくて、美桜は少し視線を逸らした。
好きだ。
会うたび、その気持ちが強くなる。
でも同時に、不安も大きくなる。
こんなに幸せでいいのだろうか。
いつか壊れるんじゃないか。
そんな考えばかり浮かんでしまう。
「天音さん」
玲司が不意に呼んだ。
「はい」
「最近、ちゃんと眠れてます?」
その質問に、美桜は少し驚く。
「……どうしてですか」
「なんか、疲れてる顔する時あるので」
美桜は少し黙った。
玲司は時々、びっくりするくらい人を見ている。
表面だけじゃなく、その奥まで。
「昔からなんです」
美桜は小さく言った。
「考えすぎる癖があって」
「どんなこと」
「色々」
曖昧に笑う。
でも玲司は急かさなかった。
「じゃあ、その“色々”も含めて、ちゃんと休まないと」
その言い方が優しくて、美桜は胸が熱くなる。
誰かに“無理しなくていい”と言われるだけで、こんなに苦しいなんて知らなかった。
食事を終える頃には、もう終電が近かった。
「送ります」
玲司が自然に言う。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
その言い方に、美桜は少し笑ってしまう。
駅までの道。
二人並んで歩く。
街のイルミネーションがぼんやり光っていた。
「……帰りたくないですね」
気づけば、美桜はそう呟いていた。
言った瞬間、顔が熱くなる。
何を言ってるんだろう。
でも玲司は笑わなかった。
「俺も」
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
玲司は少し考えるように黙ったあと、小さく言った。
「うち来ます?」
美桜の心臓が止まりそうになる。
玲司の部屋。
その言葉の意味を、美桜は理解していた。
怖かった。
でも。
行きたかった。
「……少しだけ」
気づけば頷いていた。
玲司の部屋は、思っていたより普通だった。
ワンルーム。
シンプルな家具。
少し散らかったソファ。
キッチンには洗いかけのマグカップ。
生活の匂いがした。
男の人の部屋なのに、不思議と落ち着く。
「適当に座ってください」
玲司はコートを脱ぎながら言った。
美桜はソファへ腰を下ろす。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の音だけが小さく響く。
「コーヒー飲みます?」
「はい」
玲司がキッチンへ立つ。
その背中を見ているだけで、胸が温かくなる。
どうしてだろう。
ただ誰かが部屋にいるだけなのに。
ただ同じ空間にいるだけなのに。
こんなに安心するなんて。
玲司がマグカップを持って戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯気が立ち上る。
温かい。
その温度が、今の気持ちみたいだった。
玲司は向かいに座り、少し眠そうに目を細めた。
「……眠いですか?」
「ちょっと」
「寝てください」
「でも、せっかく来てもらったのに」
その言葉が嬉しい。
“来てくれた”ことを、ちゃんと喜んでくれている。
美桜は胸がきゅっとなった。
「玲司さん」
「はい」
「……なんでそんなに優しいんですか」
また聞いてしまった。
玲司は少し笑う。
「優しくないですよ」
「優しいです」
「たぶん、天音さんが頑張りすぎなんです」
その言葉に、美桜は息を呑む。
「頑張ってる人見ると、放っとけないので」
その瞬間。
美桜の中で、何かが崩れた。
ずっと。
ずっと誰かにそう言ってほしかった。
頑張らなくていいって。
無理しなくていいって。
一人で抱え込まなくていいって。
でも、美桜はそれを言われたことがなかった。
だからいつの間にか、“頑張ること”が自分の存在価値になっていた。
泣いたら迷惑。
弱音を吐いたら嫌われる。
そう思って生きてきた。
なのに玲司は、そんな美桜を当たり前みたいに見抜く。
「……ずるいです」
美桜は小さく呟いた。
「え?」
「玲司さん、ずるい」
「なんで」
「そんなこと言われたら、もっと好きになる」
言った瞬間、空気が止まる。
美桜は自分で自分に驚いた。
何を言ってるんだろう。
でも、もう止まらなかった。
玲司はしばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「……俺も、好きですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
美桜の胸が熱くなる。
嬉しい。
でも同時に、怖い。
好きだと言われるほど、
失う未来が怖くなる。
玲司が少しだけ近づく。
「怖いですか」
美桜は小さく頷いた。
「……すごく」
玲司はその答えを否定しなかった。
「俺も怖いです」
その言葉に、美桜は涙が出そうになる。
同じだった。
この人も、不安を抱えている。
強そうに見えても、
ちゃんと怖がっている。
「でも」
玲司が静かに言う。
「怖くても、会いたいって思ったので」
その瞬間、美桜の目から涙がこぼれた。
玲司が少し驚いた顔をする。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
玲司は困ったみたいに笑った。
「泣かせたいわけじゃないので」
美桜は涙を拭いながら笑った。
こんなふうに泣いたのは久しぶりだった。
安心すると、人は泣くのかもしれない。
玲司の隣は、温かかった。
温かすぎて、
壊れるのが怖くなるくらいに。
でもその夜、美桜は初めて思った。
“誰かの隣にいたい”と。
ただ、好きだった。
玲司の声が。
笑い方が。
眠そうな目が。
「お疲れさま」と言ってくれる優しさが。
全部。
全部、好きだった。
そしてその恋は、
美桜が必死に閉じ込めてきた孤独を、
少しずつ溶かし始めていた。
第8ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、美桜が初めて玲司の部屋を訪れ、“誰かの隣にいる安心感”を知っていく回でした。
好きだから怖い。
でも怖くても一緒にいたい。
そんな感情が、二人の距離を少しずつ変えていきます。
次のページでは、美桜が“玲司を失う怖さ”を初めて強く自覚し、恋がさらに深く動き始めます。




