好きになるほど、不安になる
好きにならなければ、傷つかない。
そう思っていた。
でも、人を好きになる気持ちは、
いつだって静かに心へ入り込んでくる。
気づいた時にはもう、
“失いたくない”に変わってしまうほどに。
玲司と出会ってから、美桜の日常はゆっくり形を変え始めていた。
朝、目が覚めた瞬間にスマホを確認する。
通勤電車の中で、昨夜のやり取りを読み返す。
仕事中なのに、ふとした瞬間に彼の顔を思い出す。
そんな自分に気づくたび、美桜は小さく息を吐いた。
恋だ。
もう認めるしかなかった。
認めたくなかったけれど。
好きになればなるほど、不安になる。
それが美桜にとっての恋愛だった。
「おはようございます」
朝の式場。
スタッフルームへ入ると、莉子がすぐに顔を上げた。
「……あ」
その顔を見た瞬間、美桜は嫌な予感がした。
「何」
「今日、めっちゃ綺麗です」
「は?」
「え、待って。自覚ないんですか」
莉子は椅子から立ち上がり、美桜の顔を覗き込む。
「絶対なんかありましたよね」
「ないって」
「いや、あります。顔が違う」
「顔って何」
「恋してる顔」
美桜は思わず顔をしかめた。
「朝からうるさい」
「でも本当に変わりました。なんかこう……前より柔らかい」
柔らかい。
その言葉に、美桜は少しだけ戸惑う。
昔から「隙がない」と言われることは多かった。
近寄りがたい。
冷たそう。
完璧主義。
実際、美桜は人に弱さを見せるのが苦手だった。
迷惑をかけたくない。
重いと思われたくない。
嫌われたくない。
そう思えば思うほど、本音を隠す癖がついた。
だから“柔らかい”なんて言われたことは、ほとんどない。
「で?」
莉子がにやにやしながら聞く。
「どこまでいきました?」
「何が」
「恋です」
「違う」
「違わないです」
莉子は断言した。
「美桜さん、スマホ見るたび顔変わるので」
「そんな見てない」
「見てます」
「監視しないで」
「だって面白いんですもん」
莉子はケラケラ笑う。
美桜はため息をつきながらロッカーを閉めた。
確かに、玲司からのメッセージが来ると嬉しい。
通知が鳴るだけで心臓が反応する。
こんな感覚、何年ぶりだろう。
高校生の頃以来かもしれない。
でもあの頃と違うのは、“恋が怖い”ことを知ってしまったことだった。
好きになるほど、不安になる。
嫌われたらどうしよう。
面倒だと思われたらどうしよう。
突然いなくなったらどうしよう。
そんなことばかり考えてしまう。
「美桜さんって、恋愛すると重くなりそうですよね」
莉子が悪気なく言った。
その言葉に、美桜の胸が少しだけ痛んだ。
重い。
昔、元恋人にも言われた言葉だった。
『なんか重かった』
別れ際のあの声を、今でも忘れられない。
「……そうかもね」
美桜が小さく呟くと、莉子は少し驚いた顔をした。
「え、否定しないんですか」
「否定できないし」
「でも好きな人できたら、不安になるの普通じゃないですか?」
普通。
その言葉が、美桜には少し遠かった。
普通の恋愛。
普通の幸せ。
普通の家庭。
美桜には、どれもどこか現実感がない。
だって、美桜の知っている“愛”は、
突然終わるものだったから。
父は「ずっと一緒だ」と言いながらいなくなった。
恋人は「好きだ」と言いながら別の人を選んだ。
だから美桜は、“永遠”を信じられない。
それなのに。
玲司といると、少しだけ信じたくなる。
そのことが怖かった。
午前中の打ち合わせを終え、美桜は一人で資料室にいた。
次の挙式資料を整理しながら、スマホを見る。
玲司からメッセージが届いていた。
『今日は休みです』
その短い文章だけで、胸が少し熱くなる。
美桜は指先を止めた。
返信したい。
でも、すぐ返したら重いだろうか。
そんなことを考えている自分に呆れる。
昔の美桜なら、もっと冷静だった。
連絡が来なくても平気だった。
恋愛に振り回されるなんて馬鹿らしいと思っていた。
でも今は違う。
玲司の言葉一つで、一日が変わる。
『珍しいですね』
数分悩んでから返信する。
すぐ既読がついた。
『久しぶりに昼間起きてます』
思わず笑ってしまった。
『健康的ですね』
『たぶん今日だけです』
そのやり取りだけで、心が少し軽くなる。
好きだ。
その感情を認めれば認めるほど、不安も大きくなっていく。
玲司は優しい。
だから怖い。
優しい人ほど、突然いなくなる。
美桜の中には、その恐怖が根を張っていた。
昼過ぎ。
仕事がひと段落し、美桜は近くのスーパーへ寄った。
一人暮らし用の食材を買う。
サラダ。
ヨーグルト。
冷凍パスタ。
簡単なものばかり。
レジへ向かおうとした時だった。
「天音さん?」
聞き慣れた声。
振り向くと、玲司がいた。
私服姿だった。
ラフなパーカーにジーンズ。
髪は少し寝癖がついている。
その“休日の顔”が新鮮で、美桜の胸が跳ねた。
「え、なんで」
「近所なんです」
玲司は笑った。
「そっちこそ」
「仕事帰りで」
偶然だった。
でも、最近偶然が多すぎる。
美桜は少し笑ってしまう。
「休みの日まで会うと思わなかったです」
「俺も」
玲司は買い物かごを見せた。
中にはスポーツドリンクやゼリー、カップ麺が入っている。
「食生活終わってますね」
思わず言うと、玲司は苦笑した。
「言われます」
「ちゃんとご飯食べてください」
「天音さんにだけは言われたくない」
「え?」
「コンビニ飯ばっかりでしょ」
図星だった。
美桜は言葉に詰まる。
「……なんでわかったんですか」
「なんとなく」
玲司は少し笑った。
その笑顔を見て、美桜はまた胸が苦しくなる。
どうしてこんなに好きになってしまうんだろう。
まだ出会ってそんなに経っていないのに。
でも、だからこそ怖い。
急に近づきすぎている気がする。
もしこのまま好きになって、
もし突然終わったら。
その時、自分は耐えられるだろうか。
「このあと時間あります?」
玲司が聞いた。
美桜の心臓が跳ねる。
「少しなら」
「じゃあ、ご飯行きません?」
その誘いが嬉しくて、
でも同時に怖かった。
もっと会いたい。
もっと一緒にいたい。
そう思うほど、不安になる。
「……はい」
美桜は小さく頷いた。
二人で近くの定食屋へ入る。
カウンター席。
揚げ物の匂い。
テレビの音。
高級な店じゃない。
でも不思議と落ち着く空間だった。
玲司は生姜焼き定食、
美桜は唐揚げ定食を頼む。
「ちゃんと食べるんですね」
玲司が言う。
「今日はたまたまです」
「いつもは?」
「サラダとか」
「だから顔色悪いんですよ」
またそれだ。
美桜は思わず笑った。
「玲司さんも人のこと言えないです」
「俺は仕事柄仕方ないので」
「ずるい」
玲司は少し笑った。
その自然な空気が心地よかった。
沈黙も苦じゃない。
無理に会話を探さなくていい。
それが、美桜には新鮮だった。
「……玲司さんって、なんでそんな優しいんですか」
気づけば聞いていた。
玲司は少し驚いた顔をする。
「優しいですか?」
「優しいです」
「そんなことないですよ」
「あります」
玲司は少し黙った。
「たぶん、怖いからです」
「え?」
「人が突然いなくなるの、怖いので」
その言葉に、美桜の呼吸が止まりそうになる。
同じだった。
玲司もまた、“失う怖さ”を知っている。
「……何かあったんですか」
玲司は少しだけ視線を落とした。
でもすぐに笑った。
「まあ、色々」
それ以上は話さなかった。
でも、美桜にはわかった。
この人もまた、何かを抱えている。
強く見える人ほど、傷を隠すのが上手い。
そのことを、美桜は知っていた。
食事を終え、店を出る。
夕方の街はオレンジ色に染まっていた。
「今日、楽しかったです」
玲司が言う。
その一言だけで、美桜の胸が熱くなる。
「私も」
素直に言えた。
玲司は少し笑う。
その笑顔を見た瞬間、美桜は思ってしまった。
もっと一緒にいたい。
もっと知りたい。
でもその瞬間、心の奥で別の感情が広がる。
怖い。
好きになるほど、不安になる。
もし玲司が突然いなくなったら。
もし別の誰かを選んだら。
もし自分が“重い”と思われたら。
そんな未来ばかり想像してしまう。
幸せを感じるほど、壊れる未来が怖くなる。
「天音さん?」
玲司が不思議そうに覗き込む。
美桜は慌てて笑った。
「なんでもないです」
でも本当は、全然なんでもよくなかった。
好きだった。
もう、自分では止められないくらい。
そしてその恋は、
美桜の中に眠っていた“不安”も同時に目覚めさせ始めていた。
第6ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、美桜が“恋をしている自分”をはっきり自覚し始める回でした。
好きになるほど、会いたくなる。
会いたくなるほど、失うのが怖くなる。
それでも玲司と過ごす時間は、美桜の凍っていた心を少しずつ溶かし始めています。
次のページでは、美桜の過去の恋愛と、“永遠を信じられなくなった理由”がさらに深く描かれていきます。




