幸せそうな人を見るのが辛かった
幸せそうな人を見るたび、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
羨ましいのか、
寂しいのか、
それとも怖いのか。
きっと私はまだ、
“幸せになってもいい自分”を信じられていない。
土曜日の式場は、朝から慌ただしかった。
チャペル装花の確認。
席次表の最終修正。
新婦のヘアメイク進行。
音響スタッフとの打ち合わせ。
スタッフたちが慌ただしく行き交う中、美桜はいつものように冷静に指示を飛ばしていた。
「高砂の花、あと少し左寄せでお願いします」
「乾杯前にプロフィールムービー流します」
「新郎側のお父さま、少し緊張されてるのでフォロー入れてください」
次々と仕事を片付けながらも、美桜の頭の片隅には、昨夜の玲司との時間が残っていた。
帰り道。
名前を呼ばれた瞬間。
「また会えますか」という言葉。
思い出すだけで、胸の奥が静かに熱くなる。
こんな感覚、いつぶりだろう。
高校時代の恋愛以来かもしれない。
でも、あの頃とは違う。
今の美桜は、“好き”という感情がどれほど怖いものかを知っている。
好きになればなるほど、不安になる。
嫌われたらどうしよう。
重いと思われたらどうしよう。
突然いなくなったらどうしよう。
そんなことばかり考えてしまう。
「美桜さん」
後ろから声をかけられ、美桜は振り返った。
莉子だった。
「新婦さん、控室で泣いちゃってます」
「え?」
「お母さまと話してて、急に」
美桜はすぐ控室へ向かった。
ノックして扉を開ける。
中では、新婦がハンカチを握りしめたまま泣いていた。
隣には困った顔のお母さま。
「大丈夫ですか?」
美桜がそっと声をかけると、新婦は涙を拭きながら笑った。
「すみません……なんか急に実感しちゃって」
「結婚するんだなって?」
新婦は小さく頷く。
「ずっと一緒にいた家を出るんだと思ったら、急に寂しくなっちゃって……」
その言葉を聞いた瞬間、美桜の胸が少しだけ締めつけられた。
“家”。
その言葉は、美桜にとってどこか曖昧だった。
帰る場所はあった。
母と暮らした家もあった。
でも、安心できる場所だったかと聞かれれば、答えに困る。
父がいなくなってから、家の空気は変わった。
母は疲れた顔で働き続け、
美桜は空気を読む子どもになった。
静かにしていれば怒られない。
迷惑をかけなければ嫌われない。
そんなふうに生きているうちに、“甘える”という感覚がわからなくなった。
「でも、幸せですよね」
美桜は優しく言った。
「寂しいって思えるくらい、大切な場所だったってことだから」
新婦はまた涙を浮かべた。
「……はい」
その横で、お母さまも泣いていた。
美桜はその光景を見ながら、胸の奥が少し苦しくなるのを感じていた。
羨ましかった。
こんなふうに泣き合える親子が。
“帰る場所”をちゃんと持っている人たちが。
式が始まる。
バージンロードを歩く新婦。
涙ぐむ父親。
優しく微笑む新郎。
拍手が響く。
「誓います」
その言葉がチャペルに響いた瞬間、美桜はまた胸が苦しくなった。
どうしてだろう。
幸せそうな人を見ると、涙が出そうになる。
羨ましい。
でも同時に怖い。
だって、幸せは壊れる。
美桜はそれを知っている。
どれだけ愛し合っていても、
どれだけ笑っていても、
人は離れていく時がある。
だから、美桜はずっと“見る側”でいた。
誰かの幸せを祝福する側。
自分はそこへ入らない。
その方が安全だった。
披露宴中、美桜は進行確認をしながら会場を回っていた。
新郎新婦は本当に幸せそうだった。
目が合うたび笑い合って、
自然に手を繋いで、
隣にいることが当たり前みたいに見える。
その光景を見るたび、美桜の胸の奥はざわついた。
玲司の顔が浮かぶ。
もし、あの人と一緒にいたら。
もし、隣に並べたら。
そんな想像をしてしまった瞬間、美桜は慌てて首を振った。
まだ何も始まっていない。
期待しすぎるな。
そう心の中で何度も言い聞かせる。
でも感情は、簡単には止まってくれない。
披露宴の終盤。
新婦から両親への手紙が始まった。
「お父さん、お母さん。今まで育ててくれてありがとう――」
会場が静まり返る。
新婦は涙声になりながら、ゆっくり言葉を紡いでいた。
幼い頃の思い出。
反抗期。
家族旅行。
受験の日。
その一つ一つに、両親は泣きながら頷いている。
美桜はその光景を見ながら、息が苦しくなった。
もし自分だったら。
母へ、どんな言葉を書くのだろう。
ありがとう?
それとも、ごめんね?
美桜にはわからなかった。
感謝している気持ちはある。
でも同時に、ずっと寂しかった。
「美桜さん?」
隣にいた莉子が小さく声をかける。
その瞬間、美桜は自分が泣いていることに気づいた。
慌てて涙を拭く。
「ごめん、大丈夫」
「無理しないでください」
莉子は心配そうだった。
美桜は笑おうとした。
でもうまく笑えなかった。
披露宴終了後。
会場の片づけが始まり、華やかな空間が少しずつ現実へ戻っていく。
美桜は一人で裏口へ出た。
夜風が冷たい。
胸が苦しかった。
幸せそうな人たちを見れば見るほど、自分の空っぽな部分が浮き彫りになる。
愛されたい。
帰る場所がほしい。
誰かと未来を信じてみたい。
そんな気持ちが、胸の奥から溢れてくる。
でも同時に怖かった。
どうせ壊れる。
どうせ終わる。
どうせいなくなる。
その恐怖が、幸せになりたい気持ちを押し潰していく。
スマホが震えた。
玲司からだった。
『夜勤終わりました』
たったそれだけのメッセージ。
なのに、美桜の心臓はすぐに反応した。
『お疲れさまです』
すぐ返信する。
数秒後。
『そっちは?』
『今披露宴終わりました』
『お疲れさまでした』
その短いやり取りだけで、少し呼吸が楽になる。
美桜はスマホを胸元に抱えた。
どうしてこの人と話すだけで安心するんだろう。
まだ何も知らないのに。
好きになり始めている。
その事実が、嬉しくて、怖かった。
『今日、幸せそうな夫婦いっぱい見ました』
気づけば、そんなメッセージを送っていた。
送った瞬間、少し後悔する。
重かったかもしれない。
でも玲司から返ってきた言葉は、予想外だった。
『羨ましかったですか?』
美桜はしばらく画面を見つめた。
指が止まる。
やがて、小さく打ち込む。
『少し』
すぐ既読がつく。
『それ、悪いことじゃないと思います』
その言葉を見た瞬間、美桜の目頭が熱くなった。
羨ましいと思うこと。
幸せになりたいと思うこと。
美桜はずっと、それを“弱さ”だと思っていた。
期待するから苦しくなる。
欲しがるから傷つく。
だから最初から諦めた方が楽だった。
でも玲司は、それを否定しなかった。
『天音さんも、幸せになりたいって思ってるんですね』
そのメッセージを見た瞬間、美桜は呼吸を忘れた。
幸せになりたい。
その言葉を、自分はこんなにも隠していたのだと気づく。
ずっと平気なふりをしてきた。
一人で生きていけるふり。
恋愛なんて必要ないふり。
強いふり。
でも本当は違う。
誰かと笑いたかった。
誰かと帰りたかった。
「おかえり」って言ってほしかった。
ただ、それだけだった。
涙が一粒、頬を伝った。
美桜は慌てて拭う。
夜風が冷たい。
でも胸の奥は、少しだけ温かかった。
『……なりたいです』
美桜はゆっくり送信した。
送った瞬間、胸が痛くなる。
怖い。
本音を見せるのは怖い。
でも玲司は、少し時間を置いてこう返した。
『よかった』
その一言だけだった。
なのに、美桜は泣きそうになる。
誰かに「よかった」って言われるだけで、こんなに救われるなんて思わなかった。
美桜は空を見上げた。
夜空には星が少しだけ見える。
きっと明日も仕事だ。
また結婚式があって、
誰かが永遠を誓って、
美桜は笑顔で祝福する。
でも今日は少し違った。
初めて思ったのだ。
自分もいつか、
“幸せそうな人”になれる日が来るのかもしれないと。
その希望はまだ小さかった。
風が吹けば消えてしまいそうなくらい弱い。
それでも、玲司の存在は、
閉じていた美桜の心を少しずつ開き始めていた。
怖い。
でも、会いたい。
その気持ちはもう、止められなかった。
第5ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、美桜が“幸せそうな人たち”を見ながら、自分の孤独や不安と向き合う回でした。
羨ましい。
でも怖い。
それでも幸せになりたい。
玲司とのやり取りを通して、美桜の中に少しずつ“未来を願う気持ち”が生まれ始めています。
次のページでは、美桜が「好きになるほど不安になる」という感情に、さらに深く飲み込まれていきます。




