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幸せになりたいだけだった、君と  作者: あーちゃん


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4/25

名前を呼ばれるだけで嬉しかった

たった一言だった。


「お疲れさま」

「気をつけて帰って」


それだけなのに、

名前を呼ばれるたび、

心が少しずつ、あなたへ近づいていく。

玲司と連絡先を交換してから三日が過ぎた。


たった三日。


それなのに、美桜の日常は少しずつ変わり始めていた。


スマホが鳴るたび、無意識に期待してしまう。

仕事終わり、駅へ向かう道で彼の姿を探してしまう。

コンビニに寄れば、また偶然会えないだろうかと思ってしまう。


そんな自分を、美桜は少し呆れながら見ていた。


恋なんて、もっと劇的に始まるものだと思っていた。


もっと特別な瞬間があって、

もっと運命みたいな何かがあって、

気づいたら好きになっているものだと思っていた。


でも本当は違うのかもしれない。


小さな会話。

短いメッセージ。

何気ない優しさ。


そういうものが、少しずつ心を侵食していく。


気づけば、その人のことを考えてしまう。


今の美桜が、まさにそうだった。


「うわ」


昼休憩中、スマホを見ていた莉子が声を上げた。


「何その顔」


「恋する女の顔してます」


「してない」


「してます」


美桜は無視してコーヒーを飲む。


けれど莉子はニヤニヤが止まらない。


「絶対なんかありますよね」


「ないって」


「じゃあ最近スマホ見る回数増えたの何ですか」


ぎくりとした。


「見てないし」


「見てます」


「観察しないで」


「先輩がわかりやすすぎるんです」


莉子は楽しそうに笑う。


美桜はため息をつきながら、スマホを伏せた。


画面には玲司とのトーク画面が開かれている。


内容は、本当に他愛もないものだった。


『夜勤明けです』

『お疲れさまです』

『そっちは?』

『今日は式場バタバタでした』


その程度。


なのに、美桜はその短いやり取りを何度も見返してしまう。


玲司の文章は簡潔だった。

絵文字も少ない。

必要以上に踏み込まない。


でも、冷たくはない。


むしろ、不思議なくらい安心する。


「会う約束したんですか?」


莉子が突然聞いてきた。


「……今度コーヒー飲むだけ」


「デートじゃないですか!」


「違う」


「違いません!」


声が大きい。


周囲のスタッフがこちらを見て、美桜は慌てて莉子の腕を叩いた。


「静かにして」


「だって美桜さんが!」


莉子は嬉しそうだった。


「よかった〜。なんか安心しました」


「何が」


「美桜さんって、一生恋愛しなさそうだったので」


「失礼」


「でも本当に。なんか、“自分一人で生きていけます”って感じだったから」


その言葉に、美桜は少しだけ黙った。


一人で生きていける。


昔からそう思われることが多かった。


しっかりしてる。

弱音を吐かない。

頼れる。


でも、本当は違う。


一人で平気なんじゃない。

誰かを必要とするのが怖いだけだ。


期待して、

信じて、

失うのが怖い。


だから最初から頼らない。


そうやって生きてきた。


「……別に、恋愛しないわけじゃないよ」


小さく呟くと、莉子は少し驚いた顔をした。


「じゃあなんで避けるんですか?」


避ける。


その言葉は、妙に鋭かった。


美桜は視線を落とした。


「怖いから」


「え?」


「好きになるのって、怖いじゃん」


莉子は目を丸くしている。


美桜は苦笑した。


こんなことを人に言ったのは久しぶりだった。


「好きになればなるほど、その人がいなくなった時苦しいし」


「でも、好きにならなかったら幸せにもなれなくないですか?」


その言葉に、美桜は返事ができなかった。


幸せ。


その言葉はいつも遠い。


欲しいと思うほど、壊れる気がする。


だから美桜はずっと、幸せを“見る側”にいた。


誰かの結婚式を作り、

誰かの未来を祝福し、

誰かの幸せを支える。


でも、自分がそこへ入ろうとはしなかった。


入った瞬間、失う恐怖が始まるから。


夜。


仕事を終えた美桜は、駅前のカフェへ向かっていた。


玲司と約束した日だった。


ただコーヒーを飲むだけ。


それだけなのに、朝から落ち着かなかった。


服を何度も着替えた。

髪も少しだけ丁寧に巻いた。

口紅の色で五分悩んだ。


こんなの、自分らしくない。


美桜はため息をつきながら、カフェのガラス扉を押した。


店内は落ち着いた照明で、仕事帰りらしい人たちが静かに過ごしている。


玲司は奥の席にいた。


黒いシャツ姿。

片肘をつきながらスマホを見ている。


美桜に気づくと、すぐ立ち上がった。


「こんばんは」


「お待たせしました」


「全然。俺も今来たとこです」


その嘘はすぐわかった。


テーブルにはすでに半分ほど減った水のグラスがある。


でも、美桜は何も言わなかった。


そういう優しさを、ちゃんとわかってしまう自分が少し嬉しかった。


席に座る。


近くで見る玲司は、やっぱり少し疲れた顔をしていた。


でも目元は柔らかい。


「何飲みます?」


「カフェラテにします」


玲司が店員を呼び、自然に注文してくれる。


その動作が妙に落ち着いていて、美桜は少し見惚れた。


「仕事帰りですか?」


「はい。そっちは?」


「夜勤前です」


「え、これから?」


「まあ、慣れてるので」


玲司はそう言って笑う。


その“慣れてる”という言葉が、美桜は少し苦手だった。


救命士という仕事は、きっと想像以上に過酷だ。


誰かの命が消える瞬間にも立ち会うのだろう。


怖くないわけない。


でも玲司は、それを当たり前みたいに受け止めている。


「……大変じゃないですか」


美桜が言うと、玲司は少しだけ目を細めた。


「大変ですよ」


「辞めたいって思わないんですか」


「思う時もあります」


意外だった。


もっと強い人だと思っていた。


「でも、辞められないんですよね」


玲司はカップの水滴を指でなぞりながら続ける。


「助かった人が笑うの見ると、“ああ、よかったな”って思うので」


その言葉に、美桜は静かに胸を打たれた。


この人は、本当に人を助ける仕事をしているのだ。


「天音さんは?」


「え?」


「なんでウェディングプランナーになったんですか」


美桜は少し考えた。


昔なら、もっと綺麗な理由を答えていただろう。


“誰かの幸せを支えたかったから”

“結婚式が好きだから”


でも今は、なぜか取り繕いたくなかった。


「……幸せそうだったから」


玲司が静かに聞いている。


「結婚式って、すごく綺麗じゃないですか。みんな泣いて、笑って、“これから一緒に生きていきます”って約束して」


美桜は視線を落とした。


「だから、羨ましかったんだと思います」


玲司は何も言わなかった。


否定もしない。

軽く励ましたりもしない。


ただ、ちゃんと聞いてくれている。


その沈黙が心地よかった。


「でも、本当は信じられないんです」


気づけば、言葉がこぼれていた。


「永遠とか、幸せとか」


玲司の目が少しだけ揺れる。


「どうして?」


その問いに、美桜は少し笑った。


「……見たことないからかも」


父がいなくなったこと。

母が壊れていったこと。

恋人に裏切られたこと。


全部話す勇気はまだなかった。


でも玲司は、それ以上聞かなかった。


「そっか」


ただ、それだけ言った。


その“そっか”が、不思議なくらい優しかった。


わかったふりをしない。

無理に励まさない。


でも、ちゃんと受け止めてくれる。


美桜はその優しさに、少しずつ溺れ始めていることに気づいていた。


怖かった。


優しい人ほど、好きになってしまう。


好きになればなるほど、

失った時に苦しいのに。


「玲司さんは?」


美桜は聞いた。


「結婚とか、したいと思いますか」


玲司は少し考えた。


「昔は、あんまり考えてなかったです」


「今は?」


「……帰りたい場所があるのって、いいなとは思います」


その言葉に、美桜の胸が静かに揺れる。


帰りたい場所。


その響きは、美桜にとってずっと遠いものだった。


家はあった。

部屋もある。


でも、“帰りたい場所”だと思えたことは少なかった。


「天音さんは?」


玲司が聞き返す。


美桜は少し笑った。


「怖いです」


「結婚が?」


「幸せになるのが」


言ってしまった瞬間、少しだけ後悔した。


重いと思われたかもしれない。


でも玲司は笑わなかった。


「幸せって、怖いですよね」


その返事に、美桜は驚いた。


「……そう思うんですか」


「だって、失うの怖くなるので」


その瞬間。


美桜の心のどこかが、静かにほどけた。


同じだった。


この人も、怖いと思うことがある。


強く見えても、

平気そうに見えても、

ちゃんと不安を抱えている。


それが、なぜか嬉しかった。


気づけば、二時間近く話していた。


仕事のこと。

好きな映画。

コンビニでつい買ってしまうもの。

休日の過ごし方。


本当にくだらない話ばかり。


でも、美桜はこんなに自然に笑ったのが久しぶりだった。


店を出ると、夜風が冷たかった。


駅までの道を並んで歩く。


「寒くないですか」


玲司が聞く。


「少し」


すると玲司は、自分のマフラーを外して美桜に巻いた。


「え、いいです」


「俺暑がりなので」


また嘘だ。


玲司の耳は少し赤くなっていた。


でも、その優しさが嬉しかった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


駅前の信号で立ち止まる。


赤信号。


車のライトが流れていく。


玲司がふと、美桜を見た。


「天音さん」


名前を呼ばれる。


たったそれだけで、胸が苦しくなる。


嬉しかった。


誰かに名前を呼ばれるだけで、こんな気持ちになるなんて知らなかった。


「はい」


「また会えますか」


その言葉に、美桜の心臓が跳ねる。


断れるはずがなかった。


「……はい」


玲司が少し笑う。


その笑顔を見た瞬間、美桜は思ってしまった。


もっとこの人といたい。


もっと名前を呼んでほしい。


もっと知りたい。


その感情は、もう誤魔化せなかった。


恋だった。


静かで、

怖くて、

でもどうしようもなく温かい恋。


信号が青に変わる。


人の波が動き出す。


その中で、美桜は自分の胸に手を当てた。


怖い。


でも、嬉しい。


その二つが同時に存在する感情を、

美桜はまだうまく言葉にできなかった。

第4ページを読んでくださりありがとうございました。


今回は、美桜が少しずつ玲司に心を開き始め、“名前を呼ばれるだけで嬉しい”という小さな恋の感情を描きました。


怖いのに、会いたい。

失うのが怖いのに、もっと近づきたい。


次のページでは、美桜が“幸せそうな恋人たち”を前に、自分の孤独と向き合っていきます。

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