雨の救急搬送
人は、たった一度の出会いで変わることがある。
忘れるはずだった。
ただ雨の夜に助けてもらっただけ。
名前を知っただけ。
それなのに、心はもう、あの人を探していた。
翌朝、美桜は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
薄いカーテン越しに、灰色の朝の光が差し込んでいる。
時計を見る。
午前六時十二分。
いつもなら二度寝をする時間だった。
けれど今日は、なぜか眠れなかった。
美桜は布団の中で天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
昨夜のことを思い出していた。
雨。
倒れた女性。
救急車。
落ち着いた声。
――神崎玲司。
名前を思い浮かべただけで、胸の奥が少しだけざわついた。
馬鹿みたいだと思う。
たった一度会っただけ。
それも数十分程度。
連絡先を交換したわけでもない。
また会う約束をしたわけでもない。
それなのに、美桜は昨夜から何度も彼の顔を思い出していた。
怖くないわけないです。
あの言葉が、耳から離れない。
美桜はゆっくり起き上がった。
ワンルームの部屋は静かだった。
ベッドの横には小さなローテーブル。
壁際には本棚。
観葉植物が一つ。
必要最低限しかない部屋。
けれど美桜は、この静けさが嫌いではなかった。
誰にも気を遣わなくていい。
誰かの機嫌をうかがわなくていい。
突然誰かがいなくなる心配をしなくていい。
一人暮らしは、孤独だった。
でも同時に、安全でもあった。
美桜はキッチンでコーヒーを淹れた。
湯気が立ち上る。
スマホを見ると、母から返信が来ていた。
『無理しないでね』
短い文章。
それだけなのに、美桜は少しだけ眉を寄せた。
母は昔から、肝心な言葉を言わない人だった。
「大丈夫?」
「寂しくない?」
「頑張ったね」
そういう言葉を、美桜はほとんど記憶していない。
けれど母なりに、不器用に気遣っていることはわかっていた。
だから責めきれない。
責めきれないからこそ、苦しい。
美桜はスマホを伏せ、コーヒーを一口飲んだ。
苦い。
それでも、その苦さが少し落ち着いた。
窓の外では、昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。
空は青く、街はもう動き始めている。
人は昨日の出来事を引きずったままでも、朝になれば仕事へ向かう。
世界は待ってくれない。
美桜は支度を終え、マンションを出た。
駅までの道を歩く。
昨日、玲司と歩いた場所。
そのことに気づいた瞬間、自分でも驚くほど自然に辺りを見回していた。
もちろん、いるはずがない。
平日の朝。
救命士だと言っていた彼は、今ごろ別の場所で働いているのだろう。
それなのに、美桜は少しだけ残念に思ってしまった。
自分でも呆れる。
たった一度会っただけの相手なのに。
電車に揺られながら、美桜は仕事用のスイッチを入れた。
今日も打ち合わせが三件。
午後にはドレスショップとの確認。
夕方から来月挙式予定のカップルとの最終打ち合わせ。
忙しい。
余計なことを考えている暇なんてない。
そう思っていた。
けれど、式場へ着いてロッカーを開けた瞬間、美桜は小さく固まった。
ロッカーの中に、昨日忘れていた折り畳み傘が入っていた。
黒い傘。
昨日、玲司と一緒に入った傘よりずっと小さい。
美桜はその傘を見つめながら、小さく笑ってしまった。
「何笑ってるんですか」
後ろから声がして振り向く。
莉子だった。
「え、怖。急に」
「美桜さん、今日ちょっと機嫌よくないですか?」
「そう?」
「なんか顔が柔らかいです」
美桜は慌てて表情を引き締めた。
「気のせい」
「怪しい」
莉子はニヤニヤしている。
二十二歳の彼女は感情が顔に出やすく、美桜とは正反対だった。
「彼氏できました?」
「いない」
「絶対嘘」
「朝から元気だね」
「若いので」
莉子は笑いながらロッカーを閉めた。
「でも美桜さん、もっと恋愛した方がいいですよ」
「なんで」
「人生つまらなくなりそう」
その言葉に、美桜は少しだけ視線を落とした。
恋愛。
その言葉は、今でもどこか苦しい。
好きになるほど怖くなる。
近づくほど失う未来を想像してしまう。
だから美桜は、深く踏み込まない恋愛ばかりしてきた。
「私は仕事で十分」
そう答えると、莉子は露骨に嫌そうな顔をした。
「うわ、仕事人間のセリフ」
「別にいいでしょ」
「もったいないなあ」
莉子はため息をついた。
「美桜さん綺麗なんだから、絶対モテるのに」
「はいはい、仕事戻るよ」
美桜は会話を切り上げるように歩き出した。
けれど莉子の言葉は、少しだけ胸に残った。
モテるとか、そういう問題じゃない。
誰かを本気で好きになることが怖いのだ。
愛された分だけ、失った時に痛い。
それを知っているから。
午前中の打ち合わせは穏やかに進んだ。
来年春に結婚式を予定しているカップル。
二人とも高校時代から付き合っているらしく、話しているだけで空気が柔らかい。
「桜をいっぱい使いたいんです」
新婦が嬉しそうに言う。
「出会ったのが桜の季節なので」
「いいですね。春らしくて素敵です」
美桜は資料を広げながら微笑んだ。
「チャペル装花も淡いピンク系にすると統一感が出ます」
「わあ、絶対かわいい」
新郎は隣で優しく笑っていた。
その視線に、美桜は少しだけ胸が痛くなる。
愛されている人の顔だった。
打ち合わせが終わり、二人を見送ったあと、美桜はふっと息を吐いた。
「疲れました?」
声がして振り向く。
支配人だった。
五十代半ば。
厳しいが面倒見のいい人だ。
「大丈夫です」
「最近働きすぎじゃないか」
「そんなことないです」
「顔色悪いぞ」
昨日も玲司に同じことを言われた。
美桜は苦笑した。
「そんなにひどいですか」
「自覚ないのが一番危ない」
支配人は缶コーヒーを一本差し出した。
「少し休め」
「ありがとうございます」
「お前は真面目すぎる」
その言葉に、美桜は曖昧に笑った。
真面目。
昔からよく言われる。
でも本当は違う。
真面目にしていないと、不安なのだ。
ちゃんとしていないと、捨てられる気がする。
役に立たない人間になった瞬間、誰かがいなくなる気がする。
だから、美桜は頑張る。
笑う。
働く。
期待に応える。
そうしていれば、一人にならない気がした。
昼休憩、美桜は近くのコンビニへ向かった。
風が強い。
昨日の雨の匂いが、まだ少しだけ残っている。
おにぎりとサラダを手に取り、レジへ並ぼうとした時だった。
「……あ」
思わず声が漏れた。
レジ前に立っていたのは、神崎玲司だった。
黒いパーカー姿。
片手にスポーツドリンク。
少し眠そうな顔。
昨日とは違うラフな格好なのに、一瞬でわかった。
玲司も気づいたらしく、少し驚いた顔をした。
「あ」
その反応が妙に同じで、美桜は少しだけ笑ってしまった。
玲司も小さく笑う。
「偶然ですね」
「……そうですね」
心臓がうるさい。
こんな偶然あるんだ、と美桜は思った。
東京は広いのに。
「この辺なんですね、職場」
「はい。式場が近くで」
「ウェディングプランナーでしたっけ」
「覚えてたんですか」
「まあ、一応」
玲司は肩をすくめた。
「そっちは?」
「夜勤明けです」
なるほど、と美桜は思った。
少し眠そうなのはそのせいか。
「ちゃんと寝てます?」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
玲司は少し笑う。
「それ、よく言われます」
「だって顔色悪いので」
「昨日あなたに言った言葉、そのまま返ってきましたね」
確かにそうだった。
美桜は少し恥ずかしくなった。
レジが進み、玲司の会計が終わる。
「じゃあ」
彼は軽く会釈した。
それだけのはずだった。
けれど、美桜の口は勝手に動いていた。
「あの」
玲司が振り返る。
「昨日の方、大丈夫だったんでしょうか」
玲司は少し目を細めた。
「気にしてたんですね」
「……はい」
「命に別状はなかったです。貧血と過労だったみたいで」
その言葉に、美桜は心から安堵した。
「よかった……」
その表情を見て、玲司は少しだけ驚いた顔をした。
「あなた、優しいですね」
美桜は戸惑った。
「そんなこと……」
「普通、昨日会った他人のこと、そこまで気にしない」
「でも、倒れてましたし」
玲司は少し黙ったあと、静かに言った。
「そういうところ、いいと思います」
その瞬間、美桜の心臓が跳ねた。
あまりにも自然に言うから、余計に困る。
玲司は悪気なく人を照れさせるタイプなのかもしれない。
「じゃあ、また」
彼は今度こそ店を出ていった。
自動ドアが開き、外の光が差し込む。
美桜はその背中を、少しの間見つめていた。
胸が落ち着かない。
ただ話しただけなのに。
ほんの数分。
コンビニで立ち話しただけ。
それなのに、世界の色が少し変わった気がした。
「……何してるんだろ、私」
美桜は小さく呟いた。
恋なんて、もっとゆっくり始まるものだと思っていた。
でも本当は、恋はもっと静かに始まるのかもしれない。
気づけば目で探してしまう。
名前を思い出す。
もう一度会えたことが嬉しい。
その程度の小さな変化から。
レジ店員に「お次どうぞ」と声をかけられ、美桜は慌てて前へ進んだ。
午後からは怒涛の忙しさだった。
衣装確認。
席次表修正。
司会者との打ち合わせ。
気づけば夕方になっていた。
それでも今日は、不思議と気持ちが軽かった。
玲司と再会したからだろうか。
たったそれだけで、自分の一日が変わることに、美桜は戸惑っていた。
恋愛は苦手だ。
誰かに期待するのが怖い。
好きになりすぎるのが怖い。
それなのに。
「また」
と言われただけで、少し嬉しかった。
夜。
仕事を終えた美桜は、駅へ向かって歩いていた。
空には薄い月が出ている。
昨日と違って雨は降っていない。
それなのに、美桜は昨日の夜を思い出していた。
玲司の声。
傘の中の距離。
「怖くないわけないです」という言葉。
その時、スマホが震えた。
母からだった。
『日曜、お昼どう?』
美桜は立ち止まる。
少し迷ってから返信を打った。
『うん、大丈夫』
送信してから、小さく息を吐く。
母に会うのは嫌ではない。
でも、疲れる。
会えば昔を思い出す。
昔を思い出せば、自分の中の傷が疼く。
それでも、美桜は逃げ続けることにも疲れていた。
駅へ向かう途中、小さな公園の前を通る。
ブランコが揺れていた。
夜風のせいだろう。
その光景を見た瞬間、幼い頃の記憶が蘇る。
父に押してもらったブランコ。
笑っていた自分。
「もっと高く!」と叫んでいた声。
美桜は視線を逸らした。
思い出したくない。
幸せだった記憶ほど、今は苦しい。
駅に着き、ホームへ向かう。
人混みの中で、美桜はふと考えた。
もし玲司と出会っていなかったら。
今日もただ、疲れて帰るだけの一日だっただろう。
誰とも深く関わらず、
仕事をして、
笑って、
家に帰って、
一人で眠る。
それは安全な日常だった。
でも今、美桜の中には小さな変化があった。
誰かにまた会いたいと思っている。
それが少し怖くて、
少し嬉しかった。
電車がホームに滑り込む。
扉が開く。
人の流れに乗りながら、美桜は胸に手を当てた。
心臓はまだ、少しだけ速かった。
そしてその鼓動が、
これから始まる感情の名前を、
美桜はまだ知らなかった。
第2ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、美桜と玲司が偶然再会し、“ただの出会い”が少しずつ特別に変わり始める瞬間を書きました。
次のページでは、玲司の優しさに触れるたび、美桜の中で「恋をする怖さ」が静かに動き始めます。




