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幸せになりたいだけだった、君と  作者: あーちゃん


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永遠を誓う声が、少し苦しかった

誰かの幸せを祝うたび、自分の心だけが置いていかれる気がした。


これは、幸せを信じたいのに信じきれない女性と、明日が当たり前ではないことを知っている男性の物語です。

「新郎、神田悠真さん。あなたは新婦、麻衣さんを、病める時も健やかなる時も、愛し、敬い、支え続けることを誓いますか」


チャペルの中に、牧師の声が静かに響いた。


高い天井から降り注ぐ柔らかな光。

白い花で飾られたバージンロード。

参列者たちの息をひそめるような沈黙。


そのすべてが、今日という日を特別なものにしていた。


新郎は少し緊張した顔で、新婦を見つめた。

新婦は白いベールの奥で、今にも泣きそうに微笑んでいる。


「誓います」


たった一言だった。


けれど、その一言で、新婦の瞳から涙がこぼれた。

参列者席から小さなすすり泣きが聞こえる。


天音美桜は、チャペルの後方に立ちながら、静かに手元の進行表を確認した。


次は指輪交換。

その後、誓いのキス。

退場曲は予定通り。

披露宴会場のスタッフには、すでに合図を出してある。


問題はない。

今日も完璧だ。


そう思ったはずなのに、美桜の胸の奥だけが、少し苦しかった。


「永遠を誓う声が、少し苦しかった」


そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。


美桜はウェディングプランナーだった。


誰かの人生で一番幸せな日を作る仕事。

泣いて、笑って、手を取り合って、未来を誓う瞬間を支える仕事。


美桜はこの仕事が嫌いではなかった。


むしろ、好きだった。


新婦がドレスを選ぶ時の表情。

新郎がこっそりサプライズを相談してくる時の不器用な真剣さ。

両親への手紙を読む前に震える手。

披露宴後、何度も何度も「ありがとうございました」と頭を下げてくれる二人。


そのすべてに、胸を打たれる。


けれど同時に、美桜はいつも思ってしまう。


この幸せは、本当に続くのだろうか。


今日、永遠を誓った二人は、

十年後も同じ手を握っているのだろうか。


笑い合っているのだろうか。

同じ家に帰っているのだろうか。

喧嘩をしても、ちゃんと仲直りできるのだろうか。


そんなことを考える自分が嫌だった。


人の幸せを疑うなんて、最低だと思った。


「美桜さん」


小さな声に振り向くと、後輩の莉子が立っていた。


「披露宴会場、準備できてます。ケーキも入ってます」


「ありがとう。じゃあ、このまま予定通り進めて」


「はい」


莉子は頷いたあと、美桜の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか? なんか、顔色悪いです」


「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


美桜は笑った。


仕事用の笑顔だった。

何年もかけて身につけた、崩れない笑顔。


莉子はまだ心配そうにしていたけれど、それ以上は何も聞かなかった。


チャペルでは、指輪交換が始まっていた。


新郎の手が震えて、なかなか指輪が入らない。

参列者たちの間に、温かな笑いが広がる。


新婦も泣きながら笑っていた。


美桜はその光景を見つめながら、胸の奥に沈んでいる記憶を押し戻した。


大丈夫。

今は仕事中だ。


私情を挟んではいけない。

この二人にとって今日は、一生に一度の日なのだから。


美桜は深く息を吸い、背筋を伸ばした。


誓いのキス。

拍手。

退場。


扉が開くと、外の光が一気に差し込んだ。

フラワーシャワーの花びらが舞い、新郎新婦が笑顔で歩いていく。


「おめでとうございます!」


スタッフたちの声が重なる。


美桜も笑った。


誰よりも綺麗に。

誰よりも穏やかに。

誰よりも幸せを願う顔で。


けれど、その笑顔の裏側で、心だけが小さく震えていた。


どうか、壊れませんように。


そう願ってしまったことに、美桜はまた少しだけ傷ついた。


披露宴が終わったのは、夜の九時を過ぎてからだった。


ゲストを見送り、新郎新婦を控室へ案内し、忘れ物を確認し、装花の撤収を業者と確認する。


華やかだった会場は、あっという間に日常へ戻っていく。


ついさっきまで笑い声で満ちていた空間から、テーブルクロスが外され、花が片づけられ、ライトが落とされる。


結婚式の後片づけは、いつも少し寂しい。


夢のような時間が終わったあとに残るのは、現実の静けさだった。


「美桜さん、お疲れさまでした」


莉子が片づけを終えて戻ってきた。


「お疲れさま。今日はよく動いてくれたね」


「いえ、まだまだです。でも、今日の新婦さん、すごく綺麗でしたね」


「うん。綺麗だった」


「私もいつか、あんな結婚式したいなあ」


莉子は両手を胸の前で組んで、夢見るように言った。


その言葉に、美桜は一瞬だけ返事に詰まった。


けれどすぐに笑った。


「莉子ちゃんなら、きっと素敵な式になるよ」


「美桜さんは? 結婚式したいですか?」


何気ない質問だった。


悪意なんてない。

ただの雑談。


それなのに、美桜の胸はぎゅっと縮んだ。


「私は……どうかな」


「え、意外です。美桜さん絶対きれいですよ。ドレス似合いそう」


「仕事で見すぎてるから、逆に現実的になっちゃうのかも」


「そういうものですか?」


「そういうもの」


美桜は笑ってごまかした。


莉子は納得したような、していないような顔をしていた。


「じゃあ、先に上がっていいよ。電車なくなる前に」


「はい。美桜さんも早く帰ってくださいね」


「うん。ありがとう」


莉子が去ったあと、美桜は一人で会場に残った。


誰もいなくなった披露宴会場は、冷たいほど静かだった。


高砂に置かれていた花の香りだけが、まだわずかに残っている。


美桜は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。


足が痛い。

肩が重い。

頭も少しぼんやりしていた。


けれど、本当に疲れているのは体ではなかった。


心だった。


今日の新郎新婦は、とても幸せそうだった。

互いを見る目に嘘はなかった。

きっと本当に愛し合っているのだと思う。


だからこそ、怖かった。


愛し合っている人たちですら、いつか変わってしまうかもしれない。


そんなことを知っている自分が、嫌だった。


美桜が初めて「永遠なんてない」と思ったのは、小学生の頃だった。


父は優しい人だった。


少なくとも、美桜の記憶の中ではそうだった。


日曜日には公園に連れて行ってくれた。

小さな手を引いて、ブランコを押してくれた。

母に隠れてアイスを買ってくれた。


「美桜はパパのお姫様だからな」


父はよくそう言っていた。


幼い美桜は、それを本気で信じていた。


家族はずっと一緒にいるものだと思っていた。

母と父と自分。

三人で食卓を囲み、三人でテレビを見て、三人で眠る。


それが当たり前だと思っていた。


けれど、ある日父は帰ってこなくなった。


最初は出張だと聞かされた。


次は仕事が忙しいのだと言われた。


そのうち母は、父の話をしなくなった。


ある夜、美桜は母がキッチンで泣いているのを見た。


電気もつけず、流し台の前に座り込んで、声を殺して泣いていた。


「ママ?」


声をかけると、母は慌てて涙を拭いた。


「美桜、ごめんね。起こしちゃった?」


「パパは?」


母の顔が、壊れそうに歪んだ。


その瞬間、美桜は子どもながらに悟った。


もう、前みたいには戻らないのだと。


父はその後、一度だけ家に来た。


知らない女の人の匂いをまとっていた。


母は玄関で父と話していた。

美桜は廊下の影から、それを見ていた。


父は美桜に気づくと、困ったように笑った。


「美桜、元気だったか」


美桜は頷けなかった。


父は近づいて頭を撫でようとした。

けれど、美桜は一歩下がった。


父の手が宙に浮いたまま止まる。


その手を見て、美桜は思った。


この人はもう、私の家族ではないのかもしれない。


父は帰り際に言った。


「幸せになれよ」


その言葉が、美桜は今でも嫌いだった。


幸せにするって言ったのは、そっちだったのに。


どうして置いていった人が、

置いていかれた人に、

そんなことを言えるのだろう。


それから母は変わった。


笑うことが少なくなった。

仕事を増やし、疲れた顔で帰ってくるようになった。

食卓には惣菜が増え、家の中から会話が減った。


美桜は、母を困らせない子になった。


わがままを言わない。

泣かない。

寂しいと言わない。

欲しいものを欲しいと言わない。


そうすれば、母が壊れないと思った。


そうすれば、これ以上誰もいなくならないと思った。


けれど大人になってから、美桜は気づいた。


あの頃からずっと、自分は誰かに愛されることが怖かったのだと。


愛されるほど、失った時に痛い。

約束されるほど、破られた時に苦しい。


だから最初から期待しない。

信じすぎない。

幸せになりすぎない。


そうやって生きてきた。


それなのに、美桜はウェディングプランナーになった。


皮肉なものだと思う。


永遠を信じられない女が、

毎日、永遠を演出している。


美桜は会場の照明を落とし、事務所へ戻った。


デスクの上には、次の打ち合わせ資料が積まれている。

来週の式の進行表。

再来月の新規相談。

ドレスショップからの連絡メモ。


仕事は終わらない。


幸せを待っている人たちは、まだたくさんいる。


スマホを見ると、母からメッセージが来ていた。


『今度の日曜、時間ある?』


短い文章。


美桜はしばらく画面を見つめた。


母とは、今も会っている。

仲が悪いわけではない。

けれど、親子らしい親しさがあるかと聞かれれば、答えに困る。


母は美桜を愛していたのだと思う。


ただ、不器用だった。

疲れていた。

自分の人生を守るだけで精一杯だった。


頭ではわかっている。


それでも、幼い頃の美桜はずっと待っていた。


母が抱きしめてくれることを。

「大丈夫」と言ってくれることを。

「あなたは悪くない」と言ってくれることを。


その言葉は、今もまだ届いていない。


美桜は返信を打ちかけて、やめた。


今日はもう、何も考えたくなかった。


職場を出ると、外は雨だった。


朝の天気予報では曇りと言っていたはずなのに、細い雨が街灯に照らされて降っている。


傘はロッカーに置き忘れていた。


取りに戻る気力もなく、美桜はバッグを抱えて歩き出した。


駅までは十分ほど。

小走りすれば、なんとかなる。


そう思ったけれど、足は思うように動かなかった。


ヒールの中で指先が痛む。

髪が濡れる。

コートの肩に雨が染みていく。


それでも、美桜は歩いた。


夜の街は冷たかった。


結婚式場の華やかな光から一歩出ると、世界は急に現実になる。


濡れたアスファルト。

タクシーのヘッドライト。

コンビニの明かり。

傘を差して足早に通り過ぎる人たち。


誰も、美桜を見ていない。


それが少し楽だった。


駅前の横断歩道まで来た時だった。


反対側の歩道で、人が倒れた。


最初、美桜は何が起きたのかわからなかった。


傘を持った女性が、膝から崩れるように倒れた。

周囲の人たちが驚いて足を止める。


「え、ちょっと」

「大丈夫ですか?」

「誰か救急車!」


声が飛び交う。


美桜の体は、反射的に動いていた。


道路の信号が青に変わる。

人の波に混じって、美桜は倒れた女性のもとへ駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


女性は意識が朦朧としているようだった。

顔色が悪く、呼吸も浅い。


周囲の人たちはスマホを手にしているものの、どうすればいいのかわからず戸惑っていた。


美桜も同じだった。


仕事では何百人もの前で冷静に指示を出せるのに、

目の前で誰かが倒れると、何もできなかった。


手が震える。


「救急車、呼びましたか?」


低い声がした。


美桜が振り向くと、一人の男性が人垣をかき分けて入ってきた。


濡れた黒髪。

紺色のジャケット。

真剣な目。


彼は膝をつくと、迷いなく女性の状態を確認し始めた。


「聞こえますか。名前言えますか」


女性の反応を見ながら、周囲に指示を出す。


「あなた、救急車呼んでください。場所は駅前交差点、意識障害あり。あなたはそこのコンビニでAEDの場所を聞いて。念のため持ってきてください」


その声は落ち着いていた。


強いけれど、怖くはなかった。


周りの人たちが一斉に動き出す。


美桜はその場に立ち尽くしていた。


男性が一瞬、美桜を見た。


「すみません、傘、差してもらえますか。雨が顔にかかる」


「あ、はい」


美桜は近くに落ちていた女性の傘を拾い、震える手で差しかけた。


男性は女性の脈を確認し、呼吸の状態を見ている。


「大丈夫。息はあります。救急車が来るまで、このまま」


「あなたは……」


美桜が思わず声を漏らすと、男性は顔を上げずに答えた。


「救命士です。非番ですけど」


救命士。


その言葉に、美桜は少しだけ息を吐いた。


やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


赤い光が雨に滲む。


救急隊が到着すると、男性は簡潔に状況を伝えた。

女性は担架に乗せられ、救急車へ運ばれていく。


その一連の流れを、美桜はただ見ていた。


命が運ばれていく。


そんな気がした。


救急車の扉が閉まり、サイレンとともに走り去る。


集まっていた人たちは、少しずつ散っていった。


まるで何事もなかったかのように、街はまた動き出す。


雨はまだ降っていた。


美桜は傘を手にしたまま、ぼんやり立っていた。


「大丈夫ですか」


声をかけられて、はっとする。


さっきの男性が、美桜を見ていた。


近くで見ると、思ったより若かった。

三十代前半くらいだろうか。

目元は少し疲れているのに、視線はまっすぐだった。


「私ですか?」


「顔色、悪いですよ」


「大丈夫です。何もしてないので」


「傘、助かりました」


「いえ……」


美桜は首を振った。


「私は、ただ立ってただけです」


男性は少しだけ黙ったあと、静かに言った。


「倒れた人のそばにいてくれるだけでも、助かることはあります」


その言葉が、なぜか胸に残った。


そばにいるだけでも。


美桜は、そんなふうに言われたことがなかった。


何かができなければ意味がないと思っていた。

役に立たなければ、必要とされないと思っていた。


だから、その言葉は少しだけ痛くて、少しだけ優しかった。


「濡れてますね」


男性が言った。


「あなたも」


「俺は慣れてるので」


「慣れるものなんですか」


「まあ、仕事柄」


彼は軽く笑った。


その笑顔は、さっきまでの真剣な表情とは違って、少し不器用だった。


「駅まで行くんですか」


「はい」


「送ります。傘ないんですよね」


「でも……」


「どうせ同じ方向なので」


断る理由はいくつもあった。


知らない人についていくのは危ない。

迷惑になる。

面倒なことになるかもしれない。


けれど、美桜は疲れていた。


そして何より、その人の声には、不思議と人を安心させるものがあった。


「じゃあ……お願いします」


男性は頷いた。


二人で一つの傘に入る。


傘は小さく、肩が触れそうになった。

美桜は少しだけ距離を取ろうとしたけれど、雨が容赦なく入り込んでくる。


「もっと中に入ってください。濡れます」


「すみません」


「謝らなくていいです」


その言い方があまりに自然で、美桜は少しだけ笑いそうになった。


駅までの道を、二人は並んで歩いた。


「さっきの方、大丈夫でしょうか」


美桜が聞くと、男性は前を見たまま答えた。


「搬送先で検査しないとわかりません。でも、呼吸も脈もありました。早く救急車も呼ばれていたので、できることはできたと思います」


「怖かったです」


「普通です」


「あなたは怖くないんですか」


男性は少し考えた。


「怖いですよ」


意外な答えだった。


美桜は横顔を見る。


「怖いんですか」


「怖くないわけないです。人の命に慣れることはないので」


雨の音が、二人の間に落ちる。


「でも、怖がって止まってたら、間に合わないことがある」


その言葉は、冷静で、重かった。


この人は、そういう場所で生きているのだと思った。


明日が当たり前じゃない場所。

今この瞬間に、誰かの命が消えるかもしれない場所。


美桜が毎日見ている幸せとは、まったく違う世界。


けれど、不思議だった。


結婚式の誓いよりも、

彼のその言葉の方が、

ずっと現実に近い気がした。


駅に着くと、男性は傘を少し傾けた。


「ここで大丈夫ですか」


「はい。ありがとうございました」


「気をつけて帰ってください」


「あなたも」


美桜はそう言ってから、ふと気づいた。


名前も聞いていない。


もう会うことはないかもしれない。

それなら聞く必要もない。


そう思ったのに、なぜか足が止まった。


「あの」


男性が振り向く。


「お名前、聞いてもいいですか」


少し驚いた顔をしたあと、彼は答えた。


「神崎玲司です」


「神崎さん」


「あなたは?」


「天音美桜です」


「天音さん」


彼が名前を呼んだ。


ただそれだけなのに、美桜の胸が小さく鳴った。


仕事では毎日、何度も名前を呼ばれる。

美桜さん。

天音さん。

プランナーさん。


けれど、今の声は少し違って聞こえた。


雨の夜に、知らない人から名前を呼ばれただけ。


それだけなのに。


「また、どこかで」


玲司はそう言った。


社交辞令かもしれない。

雨の夜の、ただの別れの挨拶。


美桜は小さく頷いた。


「はい」


改札を抜け、ホームに立つ。


電車を待ちながら、美桜は自分の濡れた肩を見た。


冷たいはずなのに、そこだけまだ少し温かい気がした。


スマホが震える。


母から再びメッセージが届いていた。


『無理ならいいからね』


美桜はしばらく画面を見つめた。


それから、ゆっくり返信を打った。


『日曜、少しなら行ける』


送信ボタンを押すと、胸の奥が少しだけざわついた。


何かが変わったわけではない。


父がいなくなった過去も、

母との距離も、

恋愛への恐怖も、

全部まだそこにある。


けれど今日、美桜は初めて思った。


怖くても、立ち止まらない人がいる。


怖いまま、誰かのそばにいる人がいる。


神崎玲司。


その名前を、心の中でそっと繰り返す。


電車がホームに入ってきた。


扉が開き、人が降り、人が乗る。


美桜もその流れに乗って、車内へ入った。


窓に映った自分は、ひどく疲れた顔をしていた。

髪は濡れ、化粧も少し崩れている。


それでも、なぜかいつもより少しだけ、生きている顔に見えた。


電車が動き出す。


雨の街が、窓の向こうで流れていく。


今日も誰かが永遠を誓った。

今日も誰かが倒れた。

今日も誰かが、誰かのそばにいた。


幸せなんて信じられない。


そう思っていた。


でも、本当は。


美桜はずっと、幸せになりたかった。


ただ、それだけだった。


幸せになりたいだけだった。


誰かと手を繋いで、

明日も一緒にいようと笑って、

帰る場所に灯りがついていて、

「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。


そんな普通の幸せがほしかった。


だけど、普通の幸せほど、失った時に痛いことを知っていた。


だから怖かった。


愛されることが。

信じることが。

未来を約束することが。


電車の揺れに身を任せながら、美桜はそっと目を閉じた。


瞼の裏に浮かんだのは、

チャペルで涙を流す新婦の顔でも、

父の背中でも、

母の泣き顔でもなかった。


雨の中で落ち着いた声を響かせる、あの人の横顔だった。


「怖くないわけないです」


そう言った彼の声が、まだ耳に残っている。


怖くても、進む。


怖くても、誰かを助ける。


怖くても、そばにいる。


そんな生き方があるのだと、初めて知った気がした。


美桜はバッグの中からハンカチを取り出し、濡れた指先を拭いた。


そして、心の中で小さく呟いた。


また会えたらいい。


その願いが恋なのかどうかは、まだわからなかった。


けれど、長い間凍っていた心のどこかに、

ほんの少しだけ、温かいものが灯った気がした。


その灯りはとても小さくて、

雨に濡れればすぐ消えてしまいそうで、

まだ名前もつけられないものだった。


でも、美桜はその灯りを消したくないと思った。


電車は夜の街を走っていく。


窓の向こうに、結婚式場の明かりが遠く見えた。


今日、美桜が見送った二人は、

今ごろどこかで笑っているだろうか。


どうか、幸せでいてほしい。


今度は素直に、そう思えた。


永遠を信じられなくても。

未来が怖くても。


誰かの幸せを願うことまでは、諦めなくていい。


そしていつか、自分の幸せも。


そう思った瞬間、電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ泣きそうに見えた。


美桜は慌てて視線を落とした。


泣くほどのことじゃない。

何も始まっていない。

ただ、雨の夜に救命士と出会っただけ。


それでも、その夜は美桜にとって、

長く閉じていた物語の最初のページになった。


まだ彼女は知らない。


この先、玲司と何度も笑い、

何度もすれ違い、

何度も傷つき、

何度も「それでも一緒にいたい」と願うことを。


幸せになりたいだけだった。


その願いが、

どれほど難しくて、

どれほど愛おしいものなのかを。


美桜はまだ知らない。


ただ、雨の匂いが残る夜、

彼の名前だけが胸に残っていた。


神崎玲司。


その名前は、

未来を怖がる美桜の心に、

初めて小さな光を落とした。

最後まで読んでくださりありがとうございます。


第1ページでは、美桜が“幸せを仕事にしているのに、自分の幸せを信じられない理由”と、玲司との出会いを描きました。


次のページでは、雨の夜に出会った二人がもう一度関わり始め、美桜の心が少しずつ揺れ始めます。

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