あなたが帰ってこない未来を、初めて想像した
「いってらっしゃい」
その言葉の意味を、
私はちゃんと知らなかった。
帰ってくるのが当たり前じゃないことを、
大切な人が突然いなくなる怖さを、
私は、
あなたを好きになってから知ってしまった。
玲司の仕事は、人の命と隣り合わせだった。
頭ではずっとわかっていた。
救命士。
誰かの“最後”に立ち会う仕事。
事故現場。
急病。
心肺停止。
玲司は、そんな場所へ毎日向かっている。
でも、美桜はどこかで“玲司は大丈夫”だと思い込んでいた。
思い込もうとしていた。
そうしないと、不安で壊れそうだったから。
その日も、いつもと変わらない朝だった。
玲司の部屋。
カーテンの隙間から冬の光が差し込んでいる。
玲司はキッチンでコーヒーを淹れていた。
「今日寒いですね」
美桜が毛布にくるまったまま言う。
「雪降るかもしれないですね」
玲司がマグカップを差し出す。
「はい、甘いやつ」
「覚えてたんですか」
「毎回言ってるので」
玲司が少し笑う。
その笑顔を見るだけで、美桜は安心した。
好きだ。
今でも、会うたびにそう思う。
「今日夜勤でしたっけ」
「うん」
玲司はソファへ座る。
少し眠そうな顔。
最近かなり忙しそうだった。
出動件数が増えているらしい。
「ちゃんと寝てます?」
美桜が聞く。
「まあ、それなりに」
「それ絶対寝てないやつです」
玲司が苦笑する。
「美桜も仕事ばっかりしてるじゃないですか」
「私は死にません」
冗談のつもりだった。
でも玲司は少しだけ黙った。
その沈黙に、美桜は自分の言葉を後悔する。
「……ごめんなさい」
「いや」
玲司は静かに笑った。
「でも、そういう仕事です」
その声が少しだけ遠かった。
美桜の胸がざわつく。
玲司の仕事は、“帰ってこない可能性”と隣り合わせなのだ。
その現実を、今までちゃんと見ないふりをしていた。
「玲司さん」
「はい」
「無理しないでくださいね」
玲司は少し笑った。
「それ、美桜に毎日言われてる気がする」
「毎日心配してるので」
その言葉を聞いた瞬間、玲司の目が少し柔らかくなる。
「ありがとう」
その一言が愛しい。
そして同時に、怖い。
もしこの声が聞けなくなったら。
そんな想像が、一瞬頭をよぎる。
「……いってきます」
玲司が立ち上がる。
美桜も玄関まで見送る。
コートを着る玲司。
靴を履く姿。
いつもの朝。
でも、その“いつも”が急に不安になった。
「玲司さん」
気づけば、美桜は玲司の服を掴んでいた。
玲司が少し驚いた顔をする。
「どうしました?」
美桜は何も言えなかった。
ただ、急に怖くなった。
行かないで。
そう言いたくなるくらいに。
でも、玲司は仕事だ。
誰かを助けに行く。
そのことを止められるわけがない。
「……気をつけて」
やっとそれだけ言えた。
玲司は少し笑う。
「うん」
そして、美桜の額へ軽くキスをした。
「行ってきます」
扉が閉まる。
静かになる部屋。
その瞬間、美桜の胸に嫌な不安が広がった。
どうしてだろう。
今日は、妙に胸騒ぎがする。
仕事中も、美桜は落ち着かなかった。
披露宴の進行確認をしながらも、何度もスマホを見てしまう。
もちろん玲司から連絡はない。
仕事中だから当たり前だ。
でも不安だった。
「美桜さん」
莉子が心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色悪いです」
美桜は無理やり笑った。
「ちょっと寝不足かも」
「彼氏さん?」
鋭い。
美桜は小さく頷いた。
「夜勤だから」
「心配ですね」
莉子は少し真面目な顔をした。
「でも、美桜さん最近ほんと玲司さん大好きですよね」
その言葉に、美桜は少しだけ苦笑した。
大好き。
そうだ。
苦しいくらい。
だから怖い。
もし失ったら。
その未来を想像するだけで、息ができなくなる。
夕方。
披露宴が終わった頃だった。
スタッフルームで片づけをしていると、スマホが震えた。
玲司から。
そう思って画面を見る。
でも違った。
知らない番号。
嫌な予感がした。
恐る恐る出る。
「……はい」
『神崎玲司さんのご家族ですか?』
その瞬間。
美桜の心臓が止まりそうになった。
頭が真っ白になる。
『搬送中に事故がありまして――』
その言葉の続きを、美桜はうまく聞き取れなかった。
気づけば走っていた。
コートもちゃんと着ないまま。
バッグを掴んで。
駅へ向かって。
頭の中が真っ白だった。
怖い。
怖い。
怖い。
玲司が。
もし。
その想像をするだけで吐きそうになる。
病院へ着く。
受付で名前を言う声が震える。
案内された処置室の前。
そこに玲司がいた。
腕に包帯。
額に小さな傷。
でも、生きていた。
その瞬間、美桜の力が抜ける。
「……玲司さん」
玲司が顔を上げる。
「美桜」
その声を聞いた瞬間、美桜は涙が溢れた。
玲司は少し驚く。
「え、ちょっと」
美桜は玲司へ駆け寄った。
「よかった……」
涙が止まらない。
「よかった……」
玲司は困ったように笑う。
「大丈夫です。かすり傷なので」
「全然大丈夫じゃないです」
声が震える。
怖かった。
本当に。
「……死ぬかと思った」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
玲司の表情が少し変わる。
美桜は涙を拭いながら続けた。
「電話来た時、頭真っ白になって」
呼吸が苦しい。
「玲司さんがいなくなったらどうしようって」
その瞬間。
玲司は静かに美桜を抱きしめた。
病院の廊下。
消毒液の匂い。
白い光。
その中で、玲司の体温だけが温かい。
「ごめんなさい」
玲司が小さく言う。
「謝らないで」
美桜は首を振った。
「お願いだから、いなくならないで」
その言葉を言った瞬間、自分でも驚く。
でも、本音だった。
怖かった。
玲司が帰ってこない未来。
もう名前を呼ばれない未来。
「おかえり」がなくなる未来。
そんな未来、耐えられない。
玲司は少しだけ苦しそうに目を閉じた。
「……怖い思いさせましたね」
美桜は泣きながら頷く。
玲司は静かに言った。
「俺も怖かったです」
その言葉に、美桜は顔を上げる。
「搬送終わった瞬間、“もう美桜に会えないかも”って、一瞬思った」
その声が震えていた。
玲司も怖かったのだ。
強そうに見えても。
冷静そうに見えても。
ちゃんと怖がっている。
「だから」
玲司は少し笑った。
「ちゃんと帰ってこれてよかった」
その瞬間、美桜はまた涙が溢れた。
好きだ。
こんなにも。
もう、失いたくないと思ってしまうくらい。
病院を出る頃には、外は深夜になっていた。
雪が降っていた。
白い雪。
静かな夜。
玲司はまだ少しふらついていた。
「送ります」
美桜が言う。
「逆じゃないですか?」
玲司が苦笑する。
「今日は私が送ります」
玲司は少し笑った。
二人で並んで歩く。
雪が静かに積もっていく。
美桜は玲司の腕をぎゅっと掴んだ。
離れないように。
ちゃんとここにいると確認するみたいに。
「玲司さん」
「はい」
「……怖かったです」
玲司は静かに頷く。
「うん」
「初めて、本当に“失うかもしれない”って思った」
声が震える。
玲司は何も言わず、美桜の手を握る。
温かい。
生きてる。
ちゃんとここにいる。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
「美桜」
玲司が小さく言う。
「ちゃんと帰ってきます」
その言葉を、美桜は今度こそ信じたいと思った。
絶対なんてない。
永遠なんてわからない。
でも。
今この瞬間、
玲司がここにいることだけは本当だ。
その温度を感じながら、美桜は静かに思った。
私はもう、
あなたが帰ってこない未来を、
想像したくない。
第16ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、玲司の事故を通して、美桜が“本当に失うかもしれない恐怖”と向き合う回でした。
「行ってらっしゃい」の先に、必ず「おかえり」があるわけじゃない。
その現実を知ったことで、美桜の中の愛情はさらに深く、切実なものへ変わっていきます。
次のページでは、事故のあと少しずつ変わっていく二人の関係と、“一緒に生きていきたい”という想いが描かれていきます。




