この幸せが、壊れませんように
幸せだった。
怖いくらいに。
だから願ってしまう。
どうかこの時間が、
終わりませんように、と。
でも私はまだ知らなかった。
“失う怖さ”は、
幸せを知った人間ほど、
深くなるということを。
十二月に入った。
街はすっかりクリスマスの色に染まっていた。
駅前のイルミネーション。
コンビニに並ぶ限定スイーツ。
カップル向けの広告。
以前の美桜なら、こういう季節が少し苦手だった。
幸せそうな人たちを見るたび、自分だけ取り残されている気がしたから。
でも今年は違う。
玲司がいる。
その事実だけで、冬の景色が少し優しく見えた。
「美桜さん、今日機嫌いいですね」
式場の控室で、莉子が笑いながら言った。
「そう?」
「はい。鼻歌歌ってました」
「嘘」
「本当です」
美桜は少し恥ずかしくなって視線を逸らした。
最近、自分でもわかるくらい気持ちが軽かった。
玲司と一緒にいる時間が増えたからだ。
朝、眠そうな声で電話する時間。
夜勤明けに「今から帰る」と届くメッセージ。
スーパーで並んで買い物する時間。
その全部が、美桜にとって大事になっていた。
「クリスマスどうするんですか?」
莉子が目を輝かせる。
「……まだ決めてない」
「えー絶対デートじゃないですか!」
美桜は少し笑った。
デート。
その言葉にも、最近ようやく慣れてきた。
玲司と一緒にいることを、“幸せ”だと思っていいのかもしれない。
少しずつ、そう思えるようになっていた。
でも同時に。
幸せになればなるほど、不安も大きくなる。
もしこの時間が終わったら。
もし玲司がいなくなったら。
その恐怖は、消えたわけじゃない。
ただ、以前より少しだけ、“信じてみたい”が勝ち始めているだけだった。
仕事終わり。
美桜は玲司と待ち合わせしていた。
駅前のイルミネーションの下。
玲司は黒いコート姿で立っていた。
美桜を見つけると、少し笑う。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
自然に並んで歩き出す。
その距離感が、もう当たり前みたいになっている。
「寒くないですか?」
玲司が聞く。
「大丈夫です」
「手冷たい」
玲司はそう言って、当たり前みたいに手を繋いだ。
その温度に、美桜の胸が静かに熱くなる。
好きだ。
今でも、繋いだ手だけでこんなに嬉しくなる。
「今日、泊まります?」
玲司が聞く。
「……うん」
その返事も、もう自然にできるようになっていた。
玲司の部屋へ向かう途中。
二人でコンビニへ寄る。
「アイス買っていいですか」
美桜が言うと、玲司は笑った。
「冬なのに?」
「冬のアイス美味しいので」
「わかります」
そんな何気ない会話が愛しい。
以前の美桜は、“日常”にこんな温度があるなんて知らなかった。
玲司の部屋へ着く。
「ただいま」
自然にそう言う。
玲司が少し笑う。
「おかえり」
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
帰る場所。
美桜は今、初めてそれを手に入れ始めている気がした。
部屋にはクリスマスソングが小さく流れていた。
「玲司さん、こういうの聞くんですね」
「店で流れてたのが頭から離れなくて」
玲司が少し照れたように笑う。
その表情を見るだけで、美桜は幸せだった。
ご飯を食べながら、二人でテレビを見る。
本当に普通の夜。
でも、その普通が美桜には特別だった。
「美桜」
玲司がふと呼ぶ。
「はい?」
「来年もこうやって一緒にいたいですね」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
来年。
未来。
以前の美桜なら、その言葉だけで怖くなっていた。
でも今は。
怖いだけじゃなかった。
「……うん」
小さく頷く。
玲司が少し笑う。
「よかった」
その笑顔を見ていると、未来を信じたくなる。
ずっと一緒にいたい。
そう思ってしまう。
食後。
ソファで並んで映画を見ていた時だった。
玲司のスマホが鳴る。
仕事用の着信音。
玲司の表情が変わる。
「……ごめん」
電話に出る。
短いやり取り。
でも、美桜にはわかった。
仕事だ。
玲司は電話を切ると、小さく息を吐いた。
「出動?」
玲司は頷く。
「急患」
その瞬間。
美桜の胸に、嫌な不安が広がる。
「今から?」
「うん」
玲司は急いで立ち上がる。
その姿を見た瞬間、美桜は急に怖くなった。
まただ。
“いなくなるかもしれない”という感覚。
仕事だから仕方ない。
わかっている。
でも怖い。
「玲司さん」
気づけば呼び止めていた。
玲司が振り返る。
「……気をつけて」
その声は、自分でも驚くくらい震えていた。
玲司は少しだけ優しく笑う。
「大丈夫」
その言葉。
以前の美桜なら、信じられなかった。
でも今は、少しだけ信じてみたいと思ってしまう。
玲司が玄関を出ていく。
扉が閉まる。
静かになる部屋。
さっきまで温かかった空間が、一気に広く感じる。
美桜はソファに座ったまま、ぼんやりしていた。
玲司のマグカップ。
脱ぎっぱなしのパーカー。
ソファに残る体温。
全部が愛しい。
それと同時に、怖い。
こんなにも大事になってしまった。
もし失ったら。
その未来を想像するだけで、呼吸が苦しくなる。
時計を見る。
深夜一時。
玲司から連絡はまだない。
きっと忙しいだけ。
そう思うのに、不安は止まらない。
事故。
搬送。
誰かの死。
玲司の仕事は、常に危険と隣り合わせだ。
美桜はスマホを握りしめた。
連絡したい。
でも邪魔したくない。
その間で何度も迷う。
結局、送れないまま時間だけが過ぎていく。
深夜二時。
やっとスマホが震えた。
『落ち着きました』
その文字を見た瞬間、美桜は深く息を吐いた。
安心した。
それだけで、涙が出そうになる。
『よかった』
すぐ返信する。
数秒後。
『起きてたんですか』
『うん』
また少し間が空く。
『心配させてごめんなさい』
その言葉を見た瞬間、美桜の胸がぎゅっと締まる。
『大丈夫』
打ちながら、涙が滲む。
本当は全然大丈夫じゃなかった。
怖かった。
玲司が帰ってこない未来を想像してしまって。
でも。
その怖さは、玲司を好きになった証拠でもあった。
『帰ったら抱きしめてください』
気づけば、そんなメッセージを送っていた。
送った瞬間、顔が熱くなる。
重いかもしれない。
でも玲司から返ってきた言葉は優しかった。
『何回でも抱きしめます』
その瞬間。
美桜は静かに泣いてしまった。
どうしてこんなに優しいんだろう。
どうしてこんなに、安心させてくれるんだろう。
明け方。
玄関の音で目が覚めた。
玲司だった。
疲れ切った顔。
少し乱れた髪。
でも美桜を見ると、ちゃんと笑う。
「ただいま」
その瞬間、美桜は立ち上がっていた。
玲司に抱きつく。
玲司が少し驚く。
「……どうしたんですか」
「怖かった」
気づけば泣いていた。
玲司は静かに抱きしめ返してくれる。
その温度が温かい。
「ごめんなさい」
玲司が小さく言う。
「いやです」
美桜は首を振った。
「謝らないで」
玲司は少し笑う。
「じゃあ、ありがとう?」
その言い方が優しくて、美桜はまた泣きそうになる。
「……帰ってきてくれてありがとう」
玲司は美桜の髪を優しく撫でた。
「ちゃんと帰ってきますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
美桜は心の中で願ってしまった。
どうか。
この幸せが、
壊れませんように。
玲司と過ごす時間が、
終わりませんように。
その願いは、
恋を知った人間の、
一番弱くて、
一番切実な祈りだった。
第15ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、玲司との穏やかな日常の中で、美桜が“失いたくないほど大切な存在”を手に入れてしまった怖さを描きました。
幸せだから怖い。
愛しているから失いたくない。
それでも美桜は、少しずつ「この幸せを信じたい」と思い始めています。
次のページでは、玲司の仕事に関わる大きな出来事が二人の関係を揺らし、美桜は“本当に失うかもしれない恐怖”と向き合うことになります。




