幸せになりたいだけなのに
ただ、普通に幸せになりたかった。
好きな人がいて、
帰る場所があって、
「おかえり」と笑って言い合えるような。
それだけだったのに。
どうして私は、
幸せを前にすると、
こんなにも怖くなってしまうんだろう。
母から「今度の日曜、来れる?」という連絡が来たのは、水曜日の夜だった。
玲司の部屋で、二人並んでテレビを見ている時だった。
スマホの通知が光る。
画面を見た瞬間、美桜の胸が少し重くなる。
『久しぶりに一緒にご飯食べたい』
その短い文章。
美桜はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
玲司が隣で気づく。
「どうかしました?」
「……母からです」
玲司は小さく頷いた。
「仲悪いんでしたっけ」
「悪いわけじゃないんです」
美桜は少し困ったように笑った。
「ただ……疲れるというか」
玲司は何も急かさない。
「会うと、昔思い出すので」
その言葉を口にした瞬間、自分でも胸が少し苦しくなる。
母を嫌いになれたら楽だった。
でも、美桜は母を嫌いになれない。
母もまた、苦しかったのだと思うから。
父がいなくなってから、母はずっと働いていた。
朝早く出て、夜遅く帰る。
疲れ切った顔でコンビニ弁当を机に置く。
気づけばソファで眠っている。
幼い美桜は、そんな母を見ていた。
だから、わがままを言えなかった。
寂しいと言えなかった。
「ママ、今日学校でね」
そう話しかけても、母は疲れた顔で「あとで聞くね」と言った。
その“あとで”は、来ないことが多かった。
でも責められなかった。
母だって、必死だったから。
「行きたくないですか?」
玲司が静かに聞く。
美桜は少し考えた。
「……わかんないです」
本当は怖い。
母に会うと、自分の中の“家族”への傷が疼くから。
幸せそうな家庭を見るたび、
自分にはちゃんとした“帰る場所”がなかったことを思い出すから。
「でも、会わなきゃって思います」
玲司は小さく頷いた。
「無理しないでくださいね」
その一言が優しい。
優しすぎて、胸が苦しくなる。
どうして玲司は、こんなにも自然に人を気遣えるんだろう。
美桜は時々、その優しさに救われながら、同時に怖くもなっていた。
もしこの人を失ったら。
きっと、自分は立ち直れない。
日曜日。
美桜は実家へ向かっていた。
電車の窓から流れる景色をぼんやり見つめる。
胸が重い。
実家へ帰る時、美桜はいつも少し呼吸が苦しくなる。
駅を降り、住宅街を歩く。
昔と変わらない道。
小学校へ続く坂道。
古い公園。
コンビニ。
でも、そこを歩く自分だけが変わってしまった気がした。
実家の前で立ち止まる。
インターホンを押す。
数秒後、扉が開いた。
「美桜」
母だった。
少し痩せた気がする。
でも笑顔は昔より柔らかかった。
「久しぶり」
「うん」
ぎこちない会話。
昔から、母とはこうだった。
仲が悪いわけじゃない。
でも、どこか距離がある。
部屋へ入る。
食卓には料理が並んでいた。
ハンバーグ。
ポテトサラダ。
味噌汁。
どれも、美桜が子どもの頃好きだったものだ。
「こんな作ったの久しぶり」
母が少し笑う。
「美桜、ちゃんと食べてる?」
「まあ、それなりに」
「痩せた?」
「仕事忙しいから」
そんな会話をしながら、美桜は胸の奥がざわついていた。
この家には思い出が多すぎる。
父が笑っていた記憶。
母が泣いていた夜。
静まり返った食卓。
その全部が残っている。
食事中、母がぽつりと言った。
「彼氏できたんだって?」
美桜の手が止まる。
「……なんで知ってるの」
「この前電話で、ちょっと声違ったから」
母は少し笑った。
「わかるわよ、そのくらい」
美桜は視線を落とした。
「……いる」
「どんな人?」
「優しい人」
その言葉を口にした瞬間、胸が少し熱くなる。
玲司は優しい。
本当に。
でも、その優しさが時々怖い。
「よかった」
母が静かに言った。
「美桜、ずっと一人で頑張りすぎてたから」
その言葉に、美桜の胸がざわつく。
頑張りすぎてた。
その一言で、昔の感情が一気に蘇った。
「……仕方なかったじゃん」
気づけば、声が少し強くなっていた。
母が驚いた顔をする。
「美桜?」
「私がちゃんとしてなきゃ、ママ壊れそうだったし」
言った瞬間、空気が止まる。
美桜自身も驚いていた。
こんな感情、まだ残っていたんだ。
「……ごめんね」
母が小さく言った。
その言葉を聞いた瞬間、美桜の胸が苦しくなる。
謝ってほしかったわけじゃない。
でも、ずっと聞きたかった言葉でもあった。
「私、余裕なくて」
母の声が震えている。
「美桜にいっぱい我慢させたよね」
その瞬間。
子どもの頃の自分が蘇る。
静かな部屋。
一人で食べたご飯。
母を困らせないように笑っていた自分。
寂しかった。
本当は、ずっと。
「……私」
美桜の目から涙がこぼれる。
「ちゃんと甘えたかった」
母が息を呑む。
「でも、ママ苦しそうだったから」
涙が止まらない。
「迷惑かけちゃダメだって思ってた」
母も泣いていた。
「ごめんね……本当にごめん」
その言葉を聞いた瞬間、美桜の中で張り詰めていた何かが崩れた。
ずっと。
ずっと苦しかった。
愛されていないわけじゃない。
でも、“ちゃんと甘えられなかった”ことが、ずっと寂しかった。
だから美桜は、大人になっても誰かに頼れない。
迷惑をかけるのが怖い。
重いと思われるのが怖い。
そうやって生きてきた。
帰り道。
外はもう暗かった。
駅へ向かう途中、美桜は涙が止まらなかった。
母と話せてよかった。
でも同時に、昔の傷が全部開いたみたいに苦しかった。
スマホが震える。
玲司だった。
『終わりました?』
そのメッセージを見た瞬間、美桜はまた泣きそうになる。
『うん』
すぐ返信する。
数秒後。
『迎え行きます』
その言葉を見た瞬間、胸がいっぱいになる。
どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。
駅へ着くと、玲司がいた。
黒いコート姿。
少し眠そうな目。
美桜を見るなり、玲司はすぐ近づいてきた。
「大丈夫ですか」
その一言で、涙が溢れた。
美桜は顔を覆う。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
玲司は静かに美桜の背中を撫でる。
その手が温かい。
安心する。
安心すると、余計に涙が止まらなくなる。
「……私」
美桜は震える声で言った。
「幸せになりたいだけなのに」
玲司は黙って聞いている。
「なのに、怖いんです」
声が震える。
「幸せになったら、壊れる気がして」
玲司は静かに美桜を抱き寄せた。
その温度があまりにも優しくて、美桜はまた泣いてしまう。
「怖いですよね」
玲司が小さく言う。
「俺も怖いです」
その声が優しい。
「でも」
玲司は少しだけ強く抱きしめる。
「怖いからって、幸せになっちゃダメなわけじゃないです」
その言葉が、胸の奥へゆっくり落ちていく。
幸せになりたい。
本当はずっと、そう思っていた。
誰かと笑いたかった。
帰る場所がほしかった。
「おかえり」と言われたかった。
でも、幸せを求めることすら怖かった。
期待したら壊れるから。
愛したら失うから。
「……玲司さん」
「はい」
「私、ちゃんと幸せになれると思いますか」
玲司は少し笑った。
「もう、なり始めてると思います」
その言葉を聞いた瞬間、美桜は泣きながら笑ってしまった。
幸せ。
まだ怖い。
でも。
玲司といる時間だけは、
少しだけ未来を信じたくなる。
駅前の灯りがぼんやり滲む。
玲司の腕の中は温かかった。
その温度を感じながら、美桜は静かに思った。
私はただ、
幸せになりたいだけなのに。
どうしてこんなにも、
それが怖かったんだろう。
第12ページを読んでくださりありがとうございました。
今回は、美桜が母との過去や“家庭”への傷と向き合いながら、「幸せになりたいだけなのに」という感情を吐き出す回でした。
甘えられなかった子ども時代。
誰にも頼れなくなった大人の自分。
そして、玲司の優しさ。
少しずつ、美桜の中で“幸せを受け取る怖さ”と“幸せになりたい気持ち”がぶつかり始めています。
次のページでは、二人の感情がついに大きくぶつかり合い、初めての大喧嘩へと繋がっていきます。




