表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

75/100

第七十五話:静寂の庭。天下人の涙と、手放した陽だまり

【嘘の前回のあらすじ】(※本編とは一切関係ありません)

 大坂城ホールは、金網に囲まれた異様な熱気と殺気に包まれていた。完全決着を誓った金網デスマッチ。挑戦者・淀殿(元カトリーヌ)は、有刺鉄線を巻きつけた特製ルブタンのヒールで凶器攻撃を仕掛け、王者・ねねの額を無惨にカチ割った。

 しかし、流血によって「真の王者」として覚醒したねねは、淀殿の命乞いを冷酷な視線で一蹴。高さ5メートルの金網最上段から、掟破りの雪崩式タイガー・スープレックスを敢行!

 キャンバスに沈み、完全にピクピクしている淀殿から3カウントを奪取したねねは、「アンタの覚悟、その程度かい?」と吐き捨ててリングを降りた。担架で運ばれる淀殿は、うわ言のように「次は……電流爆破よ……!」と呟き、女たちの狂気の抗争はついにデスマッチの最終形態へと向かうのであった――(嘘)。


 大坂の喧騒から少し離れた、緑豊かな閑静な一角。

 豊臣メガバンクの迎賓館の裏手にひっそりと佇む伝統的な日本家屋が、正室・ねねの住まいだった。

 初夏の風が吹き抜ける縁側で、ねねは一人、庭の紫陽花に静かに水をやっていた。ペントハウスの狂騒とは無縁の、ただただ穏やかな時間がそこには流れている。

 ――ザクッ、ザクッ。

 玉砂利を踏む重い足音が近づいてきた。

 振り返らなくとも、ねねにはそれが誰の足音か分かった。世界中の誰もがひれ伏す天下のメガバンクCEOの足音は、彼女の耳には、ひどく疲れ切った迷子の少年のように響いていた。

「……こんな昼下がりに、珍しいですね。会議はどうされたのですか?」

 ねねが柄杓を置き、静かに振り返る。

 そこに立っていた秀吉は、ネクタイを緩め、最高級のスーツをだらしなく着崩していた。いつも纏っている「絶対的な権力者」の覇気は剥がれ落ち、その目元には深い隈が刻まれている。

「……少しだけ、息が詰まった。少しだけだ」

 秀吉は力なく縁側に腰を下ろすと、まるで糸が切れた操り人形のように、ねねの膝へとゆっくりと頭を預けた。

 天下人・豊臣秀吉の膝枕。

 淀殿でさえ決して許されないであろう、無防備で脆い姿だった。

「……茶々は、眩しい。あいつの放つ強烈な光と欲望は、俺に前へ進む力をくれる。だが……時々、その強すぎる光が、俺の目を焼き尽くしそうになるんだ」

 秀吉は目を閉じたまま、ポツリポツリと独り言のようにこぼした。

 ねねは何も言わず、秀吉の少し薄くなり始めた髪を、優しく、慈しむように撫でた。

「誰もが俺にカネを求め、権力を求め、俺の首を狙っている。茶々もそうだ。あいつは『天下人の俺』を愛している。俺がただの藤吉郎に戻れば、あいつは俺を見捨てるだろう」

「……」

「なぁ、ねね。俺たちは、どこで間違えたんだろうな。長屋で、二人で一つの塩結びを分け合って、いつかデカい城を建てようって笑い合ってた、あの頃が……一番幸せだったんじゃねぇのか」

 秀吉の閉じた目から、一筋の涙がこぼれ落ち、ねねの着物の膝を濡らした。

 天下人の、誰にも見せることのできない孤独な涙だった。

 ねねの胸は、張り裂けそうだった。

 今すぐ「もう十分です、すべてを捨てて、また二人で静かに暮らしましょう」と抱きしめてあげたかった。

 しかし、ねねはその言葉を飲み込み、秀吉の頬にそっと手を添えた。

「……間違ってなどいませんよ、藤吉郎。あなたは、誰よりも高く飛ぶと決めた人。そして、実際に空の頂点まで登り詰めた。その強大な翼を休める場所は、もう……この小さな庭にはないのですよ」

「ねね……」

「茶々さんは、今のあなたに必要な人です。彼女の野心という風がなければ、あなたの重すぎる翼は、すぐに墜落してしまう。……あなたは豊臣の長として、最後までその光の中で戦い続けなければならないのです。それが、天下を取った男の責任です」

 それは、妻としての愛を殺し、「天下人の伴侶」としての覚悟を突きつける、残酷なほどに優しい宣告だった。

「……お前は、本当に強いな。昔から、俺よりずっと」

 秀吉はゆっくりと身を起こした。

 ねねの膝から離れた瞬間、彼の顔から迷いと涙は消え失せ、再び冷徹で威厳に満ちた「メガバンクCEO・豊臣秀吉」の顔へと戻っていた。

「ありがとう、ねね。……もう、迷わねぇよ」

 秀吉は立ち上がり、ネクタイを締め直すと、一度も振り返ることなく玉砂利を踏んで歩き出した。

 迎えの黒塗りの高級車が、彼を再び摩天楼の戦場へと連れ去っていく。

 ねねは縁側に座ったまま、その背中が完全に見えなくなるまで見送った。

 彼が残した、着物の膝の上の小さな涙の染み。ねねはそれをそっと指先でなぞりながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

「さようなら、私の愛した藤吉郎」

 初夏の風が紫陽花を揺らす。

 手放した陽だまりと、摩天楼の光。決して交わることのない二つの愛の形が、大坂の空の下で静かに分かれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ