第七十三話:塩むすびの記憶と、決して手の届かない場所
【嘘の前回のあらすじ】(※本編とは一切関係ありません)
チャンピオン・ねねから、タッグマッチとはいえ見事ムーンサルトプレスでスリーカウントを奪った淀殿(元カトリーヌ)。勝利の余韻冷めやらぬリング上で、淀殿はマイクを握りしめ、倒れ伏す王者を冷酷に見下ろした。
「あんたからちゃんとスリーとったよなぁ? これであんたのベルト挑戦権はあるって考えてもいいんだろ?」
その挑発に対し、ねねはゆっくりと立ち上がるとマイクを奪い返し、不敵に笑い飛ばした。
「まだまだクソガキの癖に、ベルトなんて10年早いわ……って言いたいところだけど、あんたの挑戦、受けてやるよ。場所と時間は?」
淀殿がビシッとねねを指差す。
「次の後楽園、3月10日! ここであんたの防衛ロード、止めてやんよ!」
大歓声に包まれる会場。こうして、絶対王者ねねと新星・淀殿による、雌雄を決するタイトルマッチの開催が決定したのであった――(嘘)。
豊臣メガバンク本社ビルの最上階。
張り詰めた静寂の中、秀吉はゆっくりと淀殿の腕をほどき、ねねが持ってきたお盆から素朴な「塩結び」を一つ手に取った。
「ひでちゃん……?」
淀殿が、すがるような、そして非難するような声で秀吉を見つめる。
秀吉は無言のまま、塩結びを口に運んだ。
少しだけ塩気が強い、昔と全く変わらない味。彼がまだ何者でもなく、ただの「藤吉郎」として泥水の中で這いつくばっていた頃、ねねがひび割れた手で握ってくれた、あの温かい味だった。
「……美味いな。昔から、お前の握る飯が一番美味い」
秀吉の言葉に、ねねの静かな瞳がわずかに揺れた。
「秀吉様……」
「だがな、ねね」
秀吉は、残りの塩結びを皿に戻し、クリスタルグラスのブランデーを一息に飲み干した。喉を焼くアルコールの刺激が、彼を「メガバンクのCEO」へと引き戻していく。
「ここはもう、長屋のボロ家じゃない。日本中のカネと権力が渦巻く、魔物の棲む摩天楼だ。俺はここで、誰よりもギラギラと輝き続けなきゃならねぇ。少しでも立ち止まれば、あっという間に若い奴らに寝首を掻かれる」
秀吉は、隣で不安そうに立ち尽くす淀殿の肩を抱き寄せた。
「茶々が放つこの圧倒的な光と野心は、今の俺のガソリンなんだ。彼女がいなきゃ、俺は天下という重圧に押し潰されちまう」
その言葉は、淀殿への愛の告白であると同時に、ねねに対する残酷な決別のようにも聞こえた。
淀殿の顔に、勝者のような優越感がパッと広がる。彼女はねねに見せつけるように、秀吉の胸に顔を埋めた。
「そうよ。ひでちゃんを一番輝かせられるのは、私だけなんだから」
しかし、ねねの顔に絶望の色はなかった。
彼女はただ、慈愛に満ちた、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。
「……ええ。分かっていますよ、あなた。あなたがどれだけの業を背負って、その場所に立っているか。……私ではもう、あなたの背中を押してあげることはできないのですね」
ねねは深く一礼し、静かに踵を返した。
「ねね……」
秀吉が思わず手を伸ばしかけるが、ねねは振り返ることなく、扉に手をかけた。
「茶々さん」
部屋を出る直前、ねねは背中越しのまま、淀殿に静かに語りかけた。
「彼を、よろしくお願いしますね。……でも、一つだけ覚えておいて。どれだけ眩しい光で彼を照らしても、彼が本当に疲れた時、心を休める『暗闇』を作ってあげられるのは、あなたには無理だということを」
「……ッ!」
静かに扉が閉まり、ねねの気配が完全に消えた。
ペントハウスには再び、淀殿の甘い香水の香りと、大坂の夜景のネオンだけが残された。
「ひでちゃん……私、あんな女の負け惜しみなんか気にしないわ。私があなたを、もっともっと高いところへ連れて行ってあげる」
淀殿は秀吉の首に腕を絡ませ、甘く口づけを求めた。
秀吉はそれに応え、彼女を強く抱きしめた。
――だが、淀殿は気づいてしまった。
私を抱きしめる彼の腕の強さ。それは情熱なんかじゃない。まるで、何か大切なものを失うまいと必死にすがりつくような、深い孤独と焦燥感に満ちていた。
(勝ったはずなのに……。今、彼の一番近くにいるのは私なのに)
淀殿は、秀吉の背中に腕を回しながら、微かに震えていた。
どんなに着飾っても、どんなに甘く愛を囁いても。
あの女が置いていった「塩結び」の残した温もりにだけは、絶対に勝てない気がしたのだ。
天下人の心を巡る、冷たくて熱い女たちの戦い。
その歪なトライアングルは、誰一人として本当の幸福を掴めないまま、さらに深く絡み合っていく。




