表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

73/100

第七十三話:塩むすびの記憶と、決して手の届かない場所

【嘘の前回のあらすじ】(※本編とは一切関係ありません)

 チャンピオン・ねねから、タッグマッチとはいえ見事ムーンサルトプレスでスリーカウントを奪った淀殿(元カトリーヌ)。勝利の余韻冷めやらぬリング上で、淀殿はマイクを握りしめ、倒れ伏す王者を冷酷に見下ろした。

「あんたからちゃんとスリーとったよなぁ? これであんたのベルト挑戦権はあるって考えてもいいんだろ?」

 その挑発に対し、ねねはゆっくりと立ち上がるとマイクを奪い返し、不敵に笑い飛ばした。

「まだまだクソガキの癖に、ベルトなんて10年早いわ……って言いたいところだけど、あんたの挑戦、受けてやるよ。場所と時間は?」

 淀殿がビシッとねねを指差す。

「次の後楽園、3月10日! ここであんたの防衛ロード、止めてやんよ!」

 大歓声に包まれる会場。こうして、絶対王者ねねと新星・淀殿による、雌雄を決するタイトルマッチの開催が決定したのであった――(嘘)。


 豊臣メガバンク本社ビルの最上階。

 張り詰めた静寂の中、秀吉はゆっくりと淀殿の腕をほどき、ねねが持ってきたお盆から素朴な「塩結び」を一つ手に取った。

「ひでちゃん……?」

 淀殿が、すがるような、そして非難するような声で秀吉を見つめる。

 秀吉は無言のまま、塩結びを口に運んだ。

 少しだけ塩気が強い、昔と全く変わらない味。彼がまだ何者でもなく、ただの「藤吉郎」として泥水の中で這いつくばっていた頃、ねねがひび割れた手で握ってくれた、あの温かい味だった。

「……美味いな。昔から、お前の握る飯が一番美味い」

 秀吉の言葉に、ねねの静かな瞳がわずかに揺れた。

「秀吉様……」

「だがな、ねね」

 秀吉は、残りの塩結びを皿に戻し、クリスタルグラスのブランデーを一息に飲み干した。喉を焼くアルコールの刺激が、彼を「メガバンクのCEO」へと引き戻していく。

「ここはもう、長屋のボロ家じゃない。日本中のカネと権力が渦巻く、魔物の棲む摩天楼だ。俺はここで、誰よりもギラギラと輝き続けなきゃならねぇ。少しでも立ち止まれば、あっという間に若い奴らに寝首を掻かれる」

 秀吉は、隣で不安そうに立ち尽くす淀殿の肩を抱き寄せた。

「茶々が放つこの圧倒的な光と野心は、今の俺のガソリンなんだ。彼女がいなきゃ、俺は天下という重圧に押し潰されちまう」

 その言葉は、淀殿への愛の告白であると同時に、ねねに対する残酷な決別のようにも聞こえた。

 淀殿の顔に、勝者のような優越感がパッと広がる。彼女はねねに見せつけるように、秀吉の胸に顔を埋めた。

「そうよ。ひでちゃんを一番輝かせられるのは、私だけなんだから」

 しかし、ねねの顔に絶望の色はなかった。

 彼女はただ、慈愛に満ちた、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。

「……ええ。分かっていますよ、あなた。あなたがどれだけの業を背負って、その場所に立っているか。……私ではもう、あなたの背中を押してあげることはできないのですね」

 ねねは深く一礼し、静かに踵を返した。

「ねね……」

 秀吉が思わず手を伸ばしかけるが、ねねは振り返ることなく、扉に手をかけた。

「茶々さん」

 部屋を出る直前、ねねは背中越しのまま、淀殿に静かに語りかけた。

「彼を、よろしくお願いしますね。……でも、一つだけ覚えておいて。どれだけ眩しい光で彼を照らしても、彼が本当に疲れた時、心を休める『暗闇』を作ってあげられるのは、あなたには無理だということを」

「……ッ!」

 静かに扉が閉まり、ねねの気配が完全に消えた。

 ペントハウスには再び、淀殿の甘い香水の香りと、大坂の夜景のネオンだけが残された。

「ひでちゃん……私、あんな女の負け惜しみなんか気にしないわ。私があなたを、もっともっと高いところへ連れて行ってあげる」

 淀殿は秀吉の首に腕を絡ませ、甘く口づけを求めた。

 秀吉はそれに応え、彼女を強く抱きしめた。

 ――だが、淀殿は気づいてしまった。

 私を抱きしめる彼の腕の強さ。それは情熱なんかじゃない。まるで、何か大切なものを失うまいと必死にすがりつくような、深い孤独と焦燥感に満ちていた。

(勝ったはずなのに……。今、彼の一番近くにいるのは私なのに)

 淀殿は、秀吉の背中に腕を回しながら、微かに震えていた。

 どんなに着飾っても、どんなに甘く愛を囁いても。

 あの女が置いていった「塩結び」の残した温もりにだけは、絶対に勝てない気がしたのだ。

 天下人の心を巡る、冷たくて熱い女たちの戦い。

 その歪なトライアングルは、誰一人として本当の幸福を掴めないまま、さらに深く絡み合っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ