第二十七話『吉野山の白雪、あるいは静寂(しじま)の舞踏』
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六月も半ばを過ぎると、梅雨特有の湿った重い空気が『遺品閣』の周囲を包み込んでいた。格子窓の向こうでは紫陽花が濡れ、帳場では微かに点けられた除湿機の音が静かに響いている。
だが、その平穏な空気は、引き戸を開けて入ってきた初老の男性によって一瞬で塗りつぶされた。男性は古びた平箱から、黒漆が剥げかかった一本の「舞扇」を取り出した。扇の骨は一部が折れ、虫食いの激しい紙面には、目を背けたくなるような赤黒い「血痕」が、まるで何かの文字を描くように歪に滲んでいる。
「我が家に代々伝わる品なのですが……数日前から、これを開こうとすると、指先が切られたように真っ赤に染まるのです。それだけではない。夜な夜な、耳の奥で、冷たい波の音と……赤ん坊の、消え入るような泣き声が聞こえてくるのです。九条さん、どうか……」
怯える男性が去った後、帳場に残されたその扇を、九条湊は静かに見つめた。
「……湊。この扇、息が詰まるくらいに重い。冷たい海の底で、誰かがずっと、自分の心を殺して座り込んでいるみたいな……そんな、ぞっとするような静けさがする」
淹れたての麦茶のグラスを置いたリリが、自らの胸を強く押さえながら扇を凝視する。生身の身体を取り戻して以来、彼女の魂の輪郭は確かになったが、そのぶん、他者の情念に対する共鳴は狂おしいほどに鋭敏になっていた。
「ああ。兄への純粋な忠義を『政治』という冷徹な歯車で圧殺された天才の恨み。そして、国家の都合のために未来を奪われ、心を壊された女性の、底知れない情だ」
湊はいつものように静かに和シャツの袖をまくり、リリを一人にさせないよう、その手の上から同時に扇の骨へと手を伸ばした。
二人の指先が、黒漆の剥げた扇に触れた。
――パチン。
空間が、凍りついた海の氷板が一斉にひび割れるような、鋭く、硬質な音を立てて弾けた。
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「――っ、う、あ……っ!」
リリは激しい眩暈とともに、その場に膝を突いた。初夏の空気は一瞬で消え去り、周囲を支配したのは、視界を真っ白に染め上げる激しい吹雪と、暗闇の奥から響く不気味な読経の地鳴り。
骨まで凍てつかせるような「鎌倉・鶴岡八幡宮の若宮回廊」と、無数の矢が降り注ぐ「衣川の館」が歪に融合した、極寒の血の雪夜。
『遺品閣』の店内は跡形もなく引き裂かれ、その嵐のただ中に、二人の迷霊が佇んでいた。
無数の矢に射抜かれた弁慶の幻影の前に、異形の影を纏って佇む甲冑姿の男――源義経。彼の周囲からは、鎌倉幕府という巨大な武家社会のシステム、そして兄・源頼朝へのすさまじい「恨み」の業火が溢れ出し、周囲の雪さえも赤く焼き尽くそうとしていた。
「頼朝……! 鎌倉……! なぜ我が忠義を踏みにじり、我が子を殺した! 許さぬ、この国ごと、あの冷徹なシステムごと、すべてを呪い殺してやる!」
義経の瞳は、裏切られた天才の圧倒的な拒絶と、戦場でしか己を証明できなかった英雄の孤独でギラギラと燃え盛っている。
だが、その暴走する業火を、自らの身体を投げ出すようにして必死に抱きしめている女性がいた。
血に染まった白拍子の衣装を纏い、狂ったように髪を振り乱した――静御前。
しかし、彼女の瞳には、義経のような怒りの炎はなかった。そこにあるのは、底の抜けた暗闇。我が子を由比ヶ浜の冷たい海に沈められて殺された瞬間に、彼女の心は完全に壊れ、ただの「生きるしかばね」と化していたのだ。
「義経様……もう、おやめください……。怨念で、その美しかった心を染めないで……!」
静は涙すら枯れ果てた、虚ろな声で呟く。
「私は、ただの悲劇の白拍子(記号)。あの子を殺されたあの日から、私は心を失ったしかばね。……ですが、義経様。あなたを想うこの『情』だけは、どうしても殺せなかった。お願いです、もうこれ以上、誰も殺さないで……!」
我が子を奪った鎌倉への怒りを超えた、義経への狂おしいほどの愛と情。しかばねとなった彼女を現世に繋ぎ止めているのは、そのあまりにも深すぎる情念だった。二人の魂はお互いを泥沼の苦痛へと引きずり込み合いながら、凍てつく雪夜に囚われ続けていた。
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「判官贔屓の最果てか! 鎌倉の武家社会という、現代の日本を形作った不可欠な歴史の礎。そのシステムを根底から呪う義経の怨念と、静御前の情念が融合すれば、現在の統治機構の霊的基盤が崩壊する!」
暗闇を裂いて、無数の白い紙式神が激しく乱舞した。安倍美晴が冷徹な眼差しで印を結ぶ。「秩序の正統」として、これ以上の歪みを許さず、最強の陰陽合体術で両者を強制調伏しようとする。
「ハッ! 鎌倉幕府っていう血も涙もない冷徹な怪物に牙を剥いた、日本史最高峰の『大逆の情念』だぞ? 英雄の武才と、女の狂乱の舞いだ。これ以上の極上の燃料はねえよ!」
どす黒い呪術の霧を伴って、蘆屋道徹が狂喜しながら闇から現れた。美晴の結界を紫の毒霧で侵食し、国家を揺るがした巨大なエネルギーを強奪せんとする。
正統による完全消去と、異端による怨念利用。二人の術が激突し、凄まじい衝撃波が義経と静を圧殺しようとした、その瞬間。
「やめて――ッ!! 二人とも、絶対にやらせない!!」
その激突のド真ん中に、リリが猛然と割って入った。
生身の身体から、かつて天海の「徳川の世を維持するシステム(要石)」にされかけ、実母(江)や義母(お初)と強制的に引き裂かれた記憶を持つリリの、圧倒的な霊圧が開放される。美晴の光と道徹の闇を、彼女は自らの身体で強引にこじ開けた。
その時、空間に、由比ヶ浜の冷たい海へと沈められた赤ん坊の、消え入るような泣き声が木霊した。
「う……あ……あ、ああああ……っ!」
その声を聴いた瞬間、リリの目から大粒の涙が溢れ出し、彼女は激しく肩を震わせて「大泣き」しながら絶叫した。
かつて、大義やシステムのために親子の絆を切り刻まれかけた自分自身の痛みが、静の絶望と完全にシンクロし、リリの感情は限界を迎えて爆発していた。
「なんで……なんでこんなに酷いことができるのよ!? 国家が作った『大義』なんて都合のいい言葉のために、この人たちが流した血も、奪われた赤ちゃんの命も……なかったことにされていいわけがないじゃない!!」
リリは顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らし、号泣しながら、静を縛る鎌倉の黒い呪詛(鎖)へと突き進んだ。
「お母さんと子供を……愛し合う二人を、これ以上引き裂かないで!!」
バリバリと魂を焼く氷点下の呪いがリリの手を赤く染めるが、彼女は泣きじゃくりながらも、その因縁の鎖を渾身の力で引きちぎった。リリの純粋な号泣と霊圧が、美晴の光と道徹の闇を完全に弾き飛ばす。
リリは、しかばねのようだった静の肩を強く掴み、涙ながらに叫んだ。
「舞いなさい、静さん! あなたの舞は、鎌倉の奴らに見せるためのものじゃない! この人の、義経様の心を救うために、あなたの『情』はあったはずでしょ!!」
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リリの魂からの号泣に、静の虚無だった瞳が大きく見開かれた。その瞳に、初めて確かな光が宿る。
静は凍りついた舞扇を強く握り締め、義経のために、愛する人のために、最後の舞を舞い始めた。
激しい血の雪が舞い散る中、口ずさまれるのは、あの優しくも哀しい和歌。
*「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」*
*「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」*
静の切なすぎる「情」の歌声が響き渡り、義経を包んでいた恨みの業火が激しく揺らぐ。その刹那、ずっと静観していた九条湊が動いた。
「……ダイブする。二人の『届かなかった絆』の先へ!」
湊はカウンターの舞扇を強く握り締め、〈遺品感応〉の出力を最大にして、二人の魂へ逆流させた。
湊が流し込んだのは、鎌倉の闇に葬られたはずの、「文字が勝ち取った、情念の未来」という名の、圧倒的な真実の光だった。
それは、彼らが恐れていた「逆賊としかばねとして歴史に踏みつぶされる未来」ではなかった。
数百年後の現代。国家(鎌倉)がどれほど彼らを反逆者として処理しようとも、後世の人々は頼朝の冷徹さではなく、二人の純粋な愛と悲劇に涙し、源義経を「日本史上、最も人々に愛された最高の英雄(判官贔屓)」として称えている現代の光。
さらに、頼朝の命令に真っ向から不服を唱え、命を懸けて義経への愛を歌い上げた静御前の和歌が、何百年もの時を超えて現代の教科書に載り、日本の文学史において「権力に決して屈しなかった、最も気高く誠実な愛の言葉」として、無数の人々に愛され、語り継がれている未来の光景――。
「あ、ああ……」
静の目から、狂気でも虚無でもない、純粋な歓喜の涙が溢れ出た。
義経を包んでいた逆賊の業火、そして静を縛っていたしかばねの氷は、現代の人々の「理解」という名の温かい光によって、みるみるうちに澄んだ純白の雪解け水へと変わっていく。
義経は、異形の影を消し去り、一人の瑞々しい青年としての姿で、静かに静を抱きしめた。
「すまぬ、静。お前を不幸せにしてしまった……。だが、お前の情が、俺の醜い恨みを救ってくれた」
「いいえ、義経様……。あなたを愛し、あの子を産んだことに、一片の後悔もございません。私たちの想いは、ちゃんと未来へ届いていたのですね……」
二人の身体を縛っていた怨念の氷は、春の陽だまりとなって静かに融け去り、二人は優しく微笑み合いながら、光の彼方へと歩み去っていった。
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「チッ、最高峰の『大逆の呪い』が、ただの綺麗な水になっちまったか。やってられねえな」
道徹が退屈そうに髪を掻き回し、呪具を収めて闇の中へと消えていく。美晴もまた、リリの流した涙の重さに圧倒されたように式神を収め、「フン……」と素気無く店を出て行った。
静寂が戻った『遺品閣』の帳場。
カウンターの上に置かれた舞扇は、虫食いも血痕も綺麗に消え去り、美しい竹と華やかな紙の輝きを取り戻していた。
リリはまだ少し目を赤くし、時折「ひっ、く」と小さくしゃくり上げながら、包帯の巻かれた自分の手を見つめていた。窓の外からは、雨上がりの心地よい初夏の風が吹き込んでいる。
「……湊。恨みは国を滅ぼすかもしれないけれど……誰かを強く想う『情』は、時間を超えて、人を救うんだね」
まだ涙の痕が残るリリの横顔を、湊はいつものように静かに見守り、新しく淹れた冷たい麦茶のグラスを彼女の前へと置いた。
「ああ。どんなに巨大なシステムが真実を隠そうとしても、人間の遺した本当の『情』だけは、絶対に消せない。それをすくい上げるために、この店がある」
ガラスと氷がチリンと鳴り、二人の時間を優しく満たしていく。リリは嬉しそうにグラスを両手で包み込み、その確かな現在の温もりを、深く噛み締めるのだった。




