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第二十八話『愛と真実、時を超える物語』

 1

 しとしとと降る初夏の雨が、古びた道具街の片隅に佇む『遺品閣』のガラス窓を濡らしていた。

 店内に漂うのは、淹れたてのほうじ茶の香ばしい匂いと、長い年月を経て積み重なった古い木と紙の匂い。だが、その穏やかな静寂を切り裂くように、カウンターの帳場に置かれた「ある遺品」が、異様な気配を放ち始めていた。


 それは、太い黒縁のメガネだった。

 レンズは激しくひび割れ、フレームには何かが焼け焦げたようなすすと、鼻を突く硝煙の匂いがべっとりと染み付いている。


「……う、く……っ!」

 カウンターの前に立つ少女――リリが、突如として激しく胸を押さえ、その場に膝をついた。

 彼女の細い身体から、どす黒い霧のような霊障が立ち上る。それは、1965年2月21日、ニューヨークのオーデュボン・ボールルームという狂乱の演壇で、無数の銃弾を浴びて倒れた男――マルコムXが最期に身につけていた遺品だった。


「リリ、触れるな!」

 店主である九条湊が鋭い声を上げ、リリの肩を支える。しかし、すでに遅かった。メガネから溢れ出したのは、単なる死の恐怖ではない。それは、何十年もの間、世界中の教科書やメディア、国家のシステムによって「暴力の化身」「ヘイトスピーチの先導者」「過激な暴動の煽動者」として歪められ、記号化され続けてきた強固な『偽りのラベル』の呪いだった。


「俺の怒りは……ッ、世界を壊すためのものではなかった……! だが、世界は俺を怪物としてしか記憶しない……!」


 怨念の霧の向こうから、胸から血を流した巨躯の黒人男性の幻影が現れる。マルコムXの魂だった。彼の瞳は深い虚無と激昂に染まり、その背後には、彼の暗殺直後に自宅を放火され、幼い子供たちを抱えて絶望の淵に立たされた妻、ベティ・シャバズの引き裂かれた記憶が、重々しい黒い鎖となってマルコムの身体に絡みついていた。


「触れてはだめだ、ベティ……。俺は世界中から呪われた、憎しみの象徴」

 マルコムが虚無の瞳のまま、悲痛な声で妻の幻影を拒絶する。

「世界が望む『怪物(記号)』として死ぬのが俺の運命だ。俺に触れれば、お前たちまでその泥にまみれてしまう……」


 二人の身体からは、世界の歴史によって強固に貼り付けられた呪いが黒い薔薇の棘となって溢れ出し、お互いの魂を深く傷つけ合っていた。


 ---


「世界を揺るがした激動の怨念か! 歴史のことわりにおいて、この破壊者の魂は正しく浄化され、歴史の暗闇の底で静かに眠るべきだ!」


 暗闇を裂いて、無数の白い紙式神が激しく乱舞した。安倍美晴が冷徹な眼差しで印を結ぶ。これ以上の霊障の暴走を許さぬよう、正統な陰陽術で強制的な封印を試みる。


「ハハッ! 世界中で『過激派の象徴』として消費され、何十年も蓄積された怒りのエネルギーだぞ? 差別の歴史と民衆の憎悪が混ざり合った極上の燃料だ、俺がもらう!」


 どす黒い呪術の霧を伴って、蘆屋道徹が狂喜しながら闇から現れた。美晴の結界を紫の毒霧で侵食し、その凄まじい力を自身の呪具へと強奪せんとする。

 正統による完全消去と、異端による怨念利用。二人の術が激突し、凄まじい衝撃波がマルコムとベティを圧殺しようとした、その瞬間。


「やめて――ッ!! 二人とも、絶対にやらせない!!」


 その激突のド真ん中に、リリが猛然と割って入った。

 生身の身体から、かつてシステムの要石にされかけ、実母や義母と理不尽に引き裂かれた記憶を持つ、戦国高辻の姫君としての圧倒的な霊圧が開放される。


 美晴の光と道徹の闇を、彼女は自らの身体で強引にこじ開けた。

「歴史の文字なんて関係ない! この人たちは、ただもう一度、ちゃんとお互いを想い合う夫と妻に戻りたいだけなの! 誰かが作ったお話(記号)のために、この人たちの本当の愛までなかったことにさせない!」


 リリは自らの魂を燃やすようにして、二人を隔てる黒い鎖を素手で掴み取った。バリバリと魂を焼く呪いがリリの手を凍らせ、血を流させるが、彼女は怯まない。渾身の力で、その因縁の鎖を引きちぎる。かつて母たちの愛によって現世へと逃がされた娘だからこそ、残されたベティの痛みが、マルコムの絶望が誰よりも分かった。


「行きなさい! ベティの元へ! 彼女の手を、もう二度と離しちゃだめ!!」


 リリの気高き叫びが、マルコムの背中を強く押した。男が意を決して立ち上がり、泣きながらベティの胸へと飛び込む。二人がしっかりと抱き合おうとした刹那、狂乱する怒号とともに、あの暗殺の日の無数の銃弾が、二人の頭上へ向けて猛然と降り注ぎ始めた。


「湊――!!」

「……ダイブする。彼の、歪められた愛の真実の先へ!」


 リリの悲痛な呼び声に応え、九条湊が動いた。手元の黒縁メガネを壊れるほどの力で握り締める。その双眸に、九条の血脈の共鳴による凄まじい遺品感応の光が宿った。


 ---



 湊が引き出し、二人の魂へと最大出力で流し込んだのは――国家の監視や民衆の怒号、メディアの偏見によって完全に闇に葬られたはずの、「隠された真実の光」という名の、凄まじい真実の光だった。


 それは、マルコムXが最も恐れていた「暴力を煽った悪人(記号)」として、永遠に暗闇の中で呪われ続ける未来ではなかった Lights(光)だった。

 数百年後の未来――現代の世界。


 国家がどれほど彼に不名誉なラベルを貼り付け、民衆がどれほど怒号で彼の声をかき消そうとも、後世の歴史家や世界中の人々は、彼の真実の姿を見つめていた。

 それは、彼が晩年、狭い憎悪の枠を飛び越え、すべての「人間」を愛するための真の平等を叫んでいたこと、そして彼が何よりも優しく、家族を愛した一人の父親であり、誠実な人間であったという真実を暴き、「マルコムは決して憎しみの塊ではなく、最期まで尊厳と愛を守り抜いた気高き人だった」と、その歪められた愛の真実に涙している現代の光だった。


 さらに、湊の感応は、妻のベティが生涯にわたって抱え続けていた、もっと深く、あまりにも切ない『真実の記憶』を呼び覚ます。

 ベティが後年、夫と同じように「強すぎる未亡人」と冷徹さを罵られながらも、生涯肌身離さず、衣服の奥に隠して持ち歩いていた秘密の遺品――。


 それは、マルコムが過酷な旅先から彼女に送った、不器用で、まっすぐな愛が綴られた、最後のメッセージだった。

 ――『あなたと子供たちを、心から愛しています(I love you)』。


 そそして、マルコムが最期の瞬間、脅迫に怯える周囲に対して放った、あの有名な言葉。

「アイ・アム・ア・マン(私は一人の人間だ)。私はただ、人間としての尊厳を求めているだけだ」


 死の間際にあっても、他者への気遣いと品格を失わなかった一人の純粋な人間としての記憶。現代の人々が「これこそが彼の真実の美しさだ」と、エンタメや政治の記号ではなく、一人の人間として彼をリスペクトしている未来の光が、二人の魂を優しく包み込んでいく。


「あ、ああ……」

 マルコムXの瞳から、世界への恐怖と虚無の光が消え、純粋な、温かい涙が溢れ出た。

「ベティ、お前は俺を恨んでなどいなかったのね。俺の戦いは、ただの憎しみの嵐なんかじゃなかった……!」

「あなた……ずっと、ずっと大好きでした……! ずっと、お会いしたかった……!」


 二人の身体を苛んでいた黒い鎖も、暗殺の銃弾も、すべてが光の粉となって弾け飛んだ。頭上から迫っていた銃弾は、彼らに届く前に瑞々しい純白のジャスミンの花びらへと姿を変え、広場を埋め尽くしていた民衆の怒号は、祝福のような静かな風の音へと融けていった。


 そこにはもう、歴史の記号にされた「過激な指導者」も「悲劇の未亡人」もいなかった。

 かつて静かな部屋で、ただ純粋にお互いを想い合って笑い転げていた、どこにでもある、ただの幸福な夫と妻の姿だけがあった。

 二人はしっかりと手を繋ぎ、光に満ちた春の陽だまりの彼方へと、静かに歩み去っていった。


 ---



「チッ、国家転覆の特大の呪いも、最後はただの綺麗な花吹雪かよ。本当にやってられねえな」


 道徹が退屈そうに首を振り、毒の霧を収めて闇の中へと消えていく。美晴もまた、リリが流した血と涙の重さに何かを考えさせられたように、静かに式神の紙片を懐へと収めた。

「歴史の座標は守られた。……だが、不愉快な結末だな」

 ぼそりとそう言い残し、美晴もまた素気無く『遺品閣』から立ち去っていった。


 完全に静寂を取り戻した店内の帳場。

 カウンターの上に置かれた黒縁のメガネは、どす黒い煤もひび割れによる抉り傷も綺麗に消え去り、驚くほど美しい輝きを取り戻していた。


「……ひっ、く……」

 リリはまだ少し目を赤くし、時折小さくしゃくり上げながら、湊が手際よく包帯を巻いてくれた自分の掌を見つめていた。

 窓の外からは、再び穏やかな初夏の風がお茶の香りを連れて吹き込んでいる。


「ねえ、湊」

 リリはメガネの澄んだ鏡面を見つめながら、少し大人びた聲音で呟いた。

 鏡の中には、彼女の後ろでいつものように静かに佇んでいる湊の姿が、温かく映し出されている。

「世界中の人がその人のことを『悪い人』だって嘘をついても……たった一つでも、本当の『愛』が残っていれば、ちゃんと時間は超えられるんだね」


「ああ。どんなに強固なシステムが真実を歪めようとしても、人間の残した本当の『情』だけは、絶対に消せない。それをすくい上げるために、この店がある」


 湊は静かに微笑み、新しく淹れ直した温かいほうじ茶の湯呑みを、リリの前へと置いた。

 リリは嬉しそうにその湯呑みを両手で包み込み、かつて自分の名前すら奪われかけた初姫から、今ここで自分の足で生きている『リリ』としての確かな現在いまの温もりを、深く、深く噛み締めるのだった。

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