表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/30

第二十六話 『氷点下のカンパネルラ、あるいは大逆の組曲』

 五月の終わり、初夏の柔らかな陽光が『遺品閣』の古い格子窓から差し込んでいた。

 帳場には扇風機が静かな音を立てて回り、ガラスの器に盛られた氷がチリンと涼しげな音を立てている。だが、その穏やかな日常の匂いを断ち切るように、店の引き戸がひどく重々しい音を立てて開いた。


 入ってきたのは、ある高名な近代文学研究者の遺族だという中年女性だった。彼女は包みから、古びた、黒ずんだ一本の「丸ペン」を取り出した。ペン先は煤けて変色し、その軸には、まるで強固な呪術の触媒として巻き付けられたかのように、文字がびっしりと書き込まれた古い和紙の切れ端が、固く、歪に巻き付いている。


「これに触れた大学の整理チームの者が、全員、指先が凍りつくような感覚に襲われ、夜な夜な喀血のような赤いインクが滲み出ると言うのです。九条さん、どうかこれを……」


 女性が怯えながら去った後、帳場に残されたそのペン先を、九条湊は静かに見つめた。着古したらしき和シャツの袖をまくり、本のページをめくっていた手を止める。


「……湊。このペン先、すごく哀しい。冷たい雪の底で、ずっと誰かが叫んでいるみたいな音がする」


 リリが吸い寄せられるようにペン先を見つめ、そっと指先を伸ばした。生身の身体を取り戻してから数ヶ月、彼女の魂の輪郭は確かな質量を伴っているが、そのぶん、遺品に宿る情念への共鳴も深く、鋭くなっていた。


「ああ。時代そのものが凍りついたような、重い呪いだ」


 湊もまた、リリを一人にしないように鏡の縁ならぬペンの軸へと手をかける。

 二人の指先が、同時に煤けた丸ペンに触れた。


 ――パチン。


 空間が、凍りついた氷板が真っ二つに割れるような、鋭く、硬質な音を立てて弾けた。



「――っく、ひ、どい寒さ……!」


 リリは思わず自分の肩を抱き、激しく身震いした。初夏の陽気は一瞬で消え去り、周囲を支配したのは、骨まで凍てつかせるような「明治四十四年一月の東京」の暗闇。

 ひゅうひゅうと吹き荒れる風の中、咳き込むたびに吐き出される血の混じった雪が、地面を赤く染めていく。耳の奥からは、不気味に軋む「縛り首の縄の音」と、すべてを圧殺せんとする「国家権力の重苦しい足音」が、地鳴りのように響いていた。


『遺品閣』の店内は歪に引き裂かれ、その極寒の雪夜のただ中に、二人の迷霊ゴーストが佇んでいた。


 パジャマ姿のまま、血の混じった雪の上に這いつくばり、激しく喀血している若い男――石川啄木。彼の瞳は結核の病魔に侵されながらも、時代への底知れない憎悪と狂信的な熱狂で、ギラギラと異様な輝きを放っている。


 そしてその背後、巨大な絞首台の幻影の前に、静かに着物姿で佇む大柄な男――幸徳秋水。

 秋水の身体からは、明治政府という巨大な国家システムが彼に貼り付けた「国賊」「稀代のテロリスト」「国家転覆犯」という、おぞましい黒い呪詛の鎖が溢れ出し、彼を地面へと縫い止めていた。


「先生! なぜ何も言わない! あなたは国家の謀略に嵌められたんだ! 宮下たちの爆弾計画を、あなたは止めたはずだ! 完全な冤罪だ、なぜ無抵抗で絞首台に上がるんだ……っ!」


 啄木が凍りついたペン先を握り締め、雪を血で染めながら叫ぶ。彼は病床で秘密裏に秋水たちの公判記録を書き写し(『「大逆事件」顛末』)、時代の閉塞感に狂いそうになりながら、詩を詠むことしかできない己の無力さに絶望していた。


「……もうよいのだ、石川くん。私が何を叫ぼうと、国家という巨大な文字の前には、個人の声など一瞬でかき消される」


 幸徳秋水は、諦めの中に、どこか気高さを宿して微笑んだ。

 秋水を縛る真の未練――それは国家への恨みではない。自分が目指した、誰もが平等に、人として生きられる理想郷(社会主義)の思想が、国家の謀略によって「ただの凄惨なテロ」という泥にまみれさせられ、文字通り存在を抹殺されるという、絶対的な孤独だった。

 そして啄木は、その秋水を、ひいては時代を変えようとした若者たちを、夜空を走る銀河鉄道の『カンパネルラ』のようにただ見送ることしかできなかった。暗闇に一人取り残された無力感と孤独が、彼らをこの氷点下の雪夜に閉じ込めている。


「大逆事件の因縁か! 明治の国家体制がその威信をかけて処理した、不可触の歴史。幸徳秋水という『国家転覆の象徴』の怨念が現世に溢れれば、統治機構の霊的基盤が崩壊する!」


 暗闇を裂いて、無数の白い紙式神が激しく乱舞した。安倍美晴が冷徹な眼差しで印を結ぶ。彼女は「秩序の正統」として、これ以上の歴史の歪みを許さず、最強の封印術で両者を歴史の闇へと強制的に還そうとする。


「ハッ! 明治政府っていう巨大な怪物を本気で震え上がらせた、国家転覆の絶対的な呪いだぞ? それに天才詩人の『時代への呪詛』が乗っかってるんだ、これ以上の毒(燃料)はねえよ!」


 どす黒い呪術の霧を伴って、蘆屋道徹が狂喜しながら闇から現れた。美晴の結界を紫の毒霧で侵食し、国家を揺るがした巨大なエネルギーを強奪せんとする。


 正統による完全消去と、異端による怨念利用。二人の術が激突し、凄まじい衝撃波が啄木と秋水を襲おうとした、その瞬間。


「やめて――ッ!! 二人とも、絶対にやらせない!!」


 その激突のド真ん中に、リリが猛然と割って入った。

 生身の身体から、かつて天海の「徳川の世を維持するシステム(要石)」にされかけた戦国高辻の姫君としての、圧倒的な霊圧が開放される。美晴の清浄な光と、道徹の悍ましい闇を、彼女は自らの身体で強引にこじ開けた。


「国家が勝手に作った『大逆』なんて都合のいい文字で、この人たちの命を縛らないで! この人たちは、テロリストなんかじゃない! ただ、誰もがご飯を食べられて、誰もが自分の言葉を奪われない世界(未来)を、命がけで信じたかっただけじゃない!」


 リリの脳裏に、かつてシステムのために犠牲にされかけた自分と、それを命がけで救ってくれた母たちの記憶が重なる。リリは血を流しながら、秋水を縛る国家の黒い鎖へと突き進み、素手でその冷たい呪詛を掴み取った。バリバリと魂を焼く氷点下の呪いがリリの手を凍らせるが、彼女は怯まない。渾身の力で、その因縁の鎖を引きちぎる。


「歌いなさい、石川さん! あなたのペンは、国を呪うためじゃなく、この人の真実を未来に遺すためにあったはずでしょ!!」


 リリの気高き叫びに、啄木がガタガタと震える手で、凍りついたペン先を握り直した。秋水のために、時代のために詩を紡ごうとした刹那、絞首台の縄が二人を完全に巻き込もうと暴走する。


「湊――!!」

「……ダイブする。二人の『届かなかった祈り』の先へ!」


 リリの悲痛な呼び声に応え、ずっと静観していた九条湊が動いた。湊は手元の煤けた丸ペンを壊れるほどの力で握り締める。その双眸に、九条の血脈の共鳴による、凄まじい遺品感応の光が宿った。


 湊が引き出し、二人の魂へと最大出力で流し込んだのは――国家の闇に葬られたはずの、「文字が勝ち取った、思想の未来」という名の、凄まじい真実の光だった。


 それは、彼らが恐れていた「国賊として歴史の闇に消え去る未来」ではなかった。

 数百年後の現代。国家が隠蔽した大逆事件の全貌は、後世の歴史家や人々によって「国家による稀代の冤罪事件」「暗黒裁判」として完全に暴かれ、幸徳秋水が「テロリストではなく、時代の閉塞感に命がけで抗った先駆者」として正当に評価されている現代の光。


 さらに、啄木が命を削り、喀血しながら病床で遺した大逆事件の告発、そして時代を鋭く切り取った短歌の数々が、何百年もの時を超えて現代の教科書に載り、日本の文学史において「時代と寝食を共にした、最も誠実で美しい言葉」として、無数の人々に愛され、語り継がれている未来の光景――。


「あ、ああ……」


 石川啄木の瞳から、時代を呪う狂気の光が消え、純粋な歓喜の涙が溢れ出た。

 凍りついたペン先から滲み出ていた赤黒いインクは、現代の人々の「理解」という名の優しい光によって、みるみるうちに澄んだ純白の光へと変わっていく。


「私の言葉は……国家の闇に、消されはしなかったのだな。先生、私たちの叫びは、ちゃんと未来へ届いていた……!」

「ありがとう、石川くん。君が、私の『生きた証』を、誰もが平等に生きられる未来へと繋いでくれたのだね」


 幸徳秋水は静かに啄木の肩を抱き、国賊の記号ではない、一人の人間としての気高い微笑みを浮かべた。

 二人の身体を苛んでいた絶対零度の鎖も、絞首台の幻影も、現代の人々の理解という温かい光によって純白の雪解け水へと変わり、赤坂の雪夜は静かに、穏やかな春の陽だまりへと融けていった。二人は静かに肩を並べ、光の彼方へと歩み去っていった。


「チッ、国家の呪いも、天才の呪詛も、ただの綺麗な水になっちまったか。やってられねえな」


 道徹が退屈そうに髪を掻き回し、呪具を収めて闇の中へと消えていく。美晴もまた、歴史の座標が歪まなかったことに安堵したように式神を収め、「フン……」と素気無く店を出て行った。


 静寂が戻った『遺品閣』の帳場。

 カウンターの上に置かれた丸ペンは、巻き付いていた古い和紙の切れ端とともに煤が綺麗に消え去り、美しい金属の輝きを取り戻していた。


 リリは包帯の巻かれた自分の手で、そのペン先をそっと愛おしそうになぞった。窓の外からは、再び初夏の心地よい風が吹き込んでいる。


「ねえ、湊。言葉って、すごいね」


 リリはペン先を見つめたまま、少し大人びた聲音で呟いた。


「どんなに大きな国が嘘をついて、一人の人間を悪者にしようとしても……たった一人が紡いだ本当の言葉は、ちゃんと時間を超えて、未来の誰かに届くんだね」


 かつてシステムの所有物として、自分の名前すら消されかけた初姫。だが今の彼女の横顔には、他者の痛みを抱きしめ、自分の足で現在を生きる人間の、確かな芯があった。


「ああ。どんなに巨大なシステムが真実を隠そうとしても、人間の遺した本当の想いだけは、絶対に消せない。それをすくい上げるために、この店がある」


 湊はいつものように静かに微笑み、新しく淹れた冷たい麦茶のグラスをリリの前へと置いた。ガラスと氷がチリンと鳴り、二人の時間を優しく満たしていく。リリは嬉しそうにグラスを両手で包み込み、その確かな現在いまの温もりを、深く噛み締めるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ