第二十五話 『二・二六の粉雪、あるいは未完の財政』
1
東京に珍しく大雪が降った翌日。骨董店『遺品閣』の周囲は、まだ解け残った泥混じりの雪に覆われていた。
帳場の暖房の効きが悪く、リリは白い息を吐きながら、かじかむ手をきゅっと握りしめた。
「寒いね、湊。なんだか、空気がずっと凍りついているみたい」
「ああ、気圧のせいだけじゃないな。何か来ている」
九条湊は帳場の椅子から立ち上がり、店の古い引き戸に目を向けた。その直後、まるで待ち構えていたかのようにガタガタと戸が開き、一人の若い男性が飛び込んできた。歴史系の博物館で学芸員をしているという常連の男だった。
「九条さん、頼む、これを見てくれ! 倉庫の整理で見つかった寄託品なんだが、持ち込まれてからというもの、館内の温度が異常に下がって……夜中に『パチ、パチ』と、何かが弾けるような音が鳴り止まないんだ」
男が差し出したのは、古びた木箱だった。
蓋を開けると、中には使い込まれた小ぶりな「算盤」が納められていた。経年変化で煤けた外枠。だが、その木肌の一部には、どす黒く変色した古い血痕がべっとりとこびりついている。
さらに異様なのは、その血痕のすぐ横だった。まるで重い鉄の銃口を無理やり押し付けられたかのような、歪な円形の凹み傷が、深く抉るように刻まれていた。
「……すごく冷たい。それに、なんだか胸が苦しくなるような、悲しい匂いがする」
リリが吸い寄せられるように算盤を見つめ、そっと指先を伸ばした。それと同時に、湊もまた算盤の枠に手をかける。
二人の指先が、煤けた算盤に同時に触れた。
――パチン。
空間が、凍りついたガラスが割れるような鋭い音を立てて弾けた。
2
「――う、くっ!?」
強烈な寒気がリリの全身を貫いた。
さっきまでの帳場の暖かさは一瞬で吹き飛び、代わりに吹き込んできたのは、肌を刺すような猛吹雪の風。
耳を劈くのは、無数の軍靴が雪を踏みしめる重苦しい足音と、激しい自動小銃の銃撃音だった。
「国賊を誅せよ!」「昭和維新の春だ!」
『遺品閣』の空間は完全に引き裂かれ、そこは昭和11年2月26日の未明――赤坂の高橋是清邸、その二階寝室へと変貌していた。血に染まった障子、引き裂かれた布団。
その中央に、パジャマ姿のまま胸から大量の血を流し、呆然と算盤を抱えて倒れている大柄な老人がいた。日本の財政を何度も救った「だるま宰相」、高橋是清の迷霊だった。
しかし、その是清のすぐ目の前には、もう一人のゴーストがいた。
陸軍の外套を纏い、拳銃を握り締めたまま、ガタガタと全身を激しく震わせている若い将校。二・二六事件の現場指揮官であり、首謀者の一人、安藤輝三歩兵大尉だった。
「高橋先生……っ! 私は……私はあなたを殺したかったわけではない……!」
安藤の目から、血のような涙が溢れ出ていた。彼の身体からは、歴史が押し付ける「大逆のテロリスト」「逆賊」「狂信者」という黒い呪詛の霧が溢れ出し、鎖となって彼自身を縛り付けている。
「だが、東北の農村では、私の部下たちの妹や娘が飢えのために売られている! 先生、あなたの弾く冷徹な算盤(財政調整)は、彼らを見捨てる悪政だ! この腐った現世のシステムを壊すには、国宝であるあなたをこの手で手にかけ、昭和維新を成し遂げるしかなかったんだ……っ!」
安藤は叫び、自らの頭に拳銃の銃口を突きつけた。
大逆の罪の意識と、崇拝する人物を殺めてしまったという極限の自責。安藤の魂は、終わらない雪夜の中で、自らを撃ち続ける無限の地獄に囚われていた。
対する高橋是清は、胸の銃創を押さえながら、ただ哀れみと悲しみに満ちた瞳で青年を見つめていた。
「何だ、馬鹿者……」
是清の口から、乾いた声が漏れる。それは怒りではなかった。
「私は数字で国を動かし、豊かにしようとしてきた。だが……目の前の、お前たち若者一人の狂気すら、言葉で止めてやれなかった。お前たちに、私の声は届いていなかったのだな。私のしてきたことは、すべて無駄だったのか……」
冷徹な数字で国家を見つめたリアリスト(現実主義者)と、目の前の兵士たちの痛みに耐えかねて大義に殉じた原理主義者。
交わることのなかった二人の未練が、赤坂の寝室を絶対零度の結界に変えていく。
3
「国家の根幹を揺るがした大逆の因縁か。これ以上の思想の暴走は、現世の歴史の座標を狂わせる!」
雪の吹き込む寝室に、無数の白い式神が舞い降りた。安倍美晴が冷徹な眼差しで印を結ぶ。
「テロリストの狂信も、偉人の無力感も、すべては過ぎ去った歴史の理の範疇だ。両者とも、罪と罰の記憶の中に一括で封印する!」
「カカッ! 経済の神様と、それをハチの巣にした暗殺者の怨念が、一つの算盤に凝縮されてるじゃねえか!」
闇を裂いて現れた蘆屋道徹が、狂ったように笑いながら呪術の網を広げた。
「一国の株価も為替も思い通りに暴落させられる、極上の『狂信のエネルギー』だ。美晴ちゃんに消させるくらいなら、俺が丸ごと喰らってやるよ!」
秩序による消去と、異端による強奪。二つの術が衝突し、安藤の持つ拳銃の引き金が、再び引かれようとした。
「やめて――ッ!!」
その術の火線の中に、リリが飛び込んだ。かつて戦国時代のシステムに抗った生霊の霊圧が、赤坂の雪夜を激しく震撼させる。
「国のためとか、歴史の理とか、そんな言葉で片付けないで! 二人とも、本当は相手を憎んでなんかいない! 歴史の教科書が勝手に、二人を『被害者』と『悪人』に分けただけじゃない!」
リリは安藤輝三の前に走り込み、彼の凍りついた軍服の袖を、血の滲む両手で強く掴んだ。
「もう自分を責めないで、安藤さん! あなたが部下たちのために、村の人たちのために泣いていたこと……このおじいちゃんは、最初から全部分かっているから!」
「な、んだと……? 私のような逆賊の痛みが、分かるはずが……」
「分かるよ! だって、このおじいちゃんの一喝は、怒ってるんじゃない……あなたたちのあまりの未熟さと哀れさに、お父さんみたいに胸を痛めてるんだもん!」
リリの涙ながらの叫びが、安藤を縛っていた黒い霧(逆賊の記号)を、バリバリと引きちぎっていった。
「――安藤大尉。高橋先生」
吹雪の奥から、九条湊が静歩で歩み出た。彼は血痕と銃口の傷が残る算盤を、壊れるほどの力で握り締めていた。
「二人が命をかけて足掻いた、その『未完の願い』の先を見てくれ。ダイブする――!」
4
湊の双眸から放たれた遺品感応の光が、二人の魂の奥底へと、凄まじい濁流となって逆流した。
それは、流された血の果てに訪れた、遠い未来の日本の姿だった。
昭和の激動と戦争の惨禍を通り抜けたその先に――二人が命をかけて守ろうとし、変えようとしたその国が、どうなったのかという記憶。
画面が切り替わるように、二人の脳裏に現代の光景が流れ込む。
飢えのために子供が売られることもなく、東北の農村も、東京の街並みも、すべての若者たちが温かいご飯を食べて、笑顔で日常を謳歌している平和な経済大国の姿。
是清が命がけで算盤を弾いて築いた財政の基礎と、安藤たちが命を捨ててまで「変えねばならない」と叫んだその凄絶なエネルギーの双方が、巡り巡って、現代の当たり前のような豊かさ(果実)を結んでいた。
さらに湊は、現代の歴史研究の光を安藤の魂に流し込む。
『安藤輝三は、単なる冷酷な狂信者ではない。部下と農民を誰よりも愛し、それゆえに国宝を手にかけねばならなかった、最も苦悩した悲劇の軍人である』
歴史のラベル(逆賊)の裏にある、彼の純粋な人間性を理解し、その悲劇に涙している現代の人々の「理解の光」。
「ああ……」
安藤大尉の目から、狂気と自責の光が完全に消え去った。拳銃が手からこぼれ落ち、雪の中に埋もれていく。
「我々の流した血の向こうに……あんなに、あんなに温かい日本が遺ったのか……。先生、私は……間違っていましたが、無駄ではなかったのですね……」
高橋是清はゆっくりと立ち上がり、パジャマの胸の血を光の粒子へと変えながら、だるまのような大きな手で、安藤の肩を優しく叩いた。
「よく足掻いたな、馬鹿者」
是清の顔に、歴史の教科書にあるような「だるま宰相」の記号としての笑顔ではない、一人の優しい好々爺としての、本物の柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「数字を操る私にも、お前たちの純粋すぎる情念の計算だけはできなかった。……だが、もういい。数字の計算も、大義の苦悩も終わりだ。さあ、一緒に温かい飯でも食いに行こう」
「……はい。高橋先生……っ!」
リアリストの絶望も、原理主義者の大逆も、すべてが春の雪解けのように融けていく。二人は静かに肩を並べ、赤坂の吹雪が消え去った、まばゆい春の陽だまりの中へと歩み去っていった。
5
「チッ、またこれだ。熱苦しいねえ、まったく」
道徹が肩をすくめ、闇の中へと消えていく。美晴もまた、静かに戻りつつある『遺品閣』の帳場の空気を一瞥し、何も言わずに去っていった。
カウンターの上に置かれた古い算盤。
外枠に刻まれていた歪な銃口の凹み傷は、まるで最初からなかったかのように滑らかな木肌へと戻り、血痕も綺麗に消え去っていた。ただ、長年使い込まれた美しい飴色の輝きだけが、そこにあった。
リリは包帯の巻かれた自分の手で、算盤の珠をそっと弾いた。
「パチ、パチ」と、心地よい木の音が帳場に響く。
「数字って冷たいものだと思ってたし、銃って怖いものだと思ってたけど……。誰かを守りたかった心は、どっちも同じくらい、あったかかったんだね」
リリは少し大人びた優しい笑顔を湊に向けた。
「ああ。どんなに冷たい歴史の雪でも、その裏にある個人の想いまで凍りつかせることはできない。俺たちがそれを、繋いでいけばいい」
湊は新しく淹れ直したほうじ茶の湯呑みをリリの前に置いた。温かい湯気が、二人の間を優しく満たしていく。リリは嬉しそうに湯呑みを両手で包み込み、その温もりを噛み締めるのだった。




