第二十四話 『偽りの断頭台、あるいは愛された悪女』
1
生身の身体を取り戻してから数ヶ月。
骨董店『遺品閣』の帳場に流れる時間は、かつて幽霊だった頃の頼りなさとは違い、確かな質量を伴ってリリの五感に染み込んでいた。
「お待たせ、湊。今日のは少しだけ、熱めに淹れてみたよ」
「ああ、ありがとう」
着古した和シャツを纏った九条湊は、帳場の奥で静かに本を読んでいた目を上げ、リリが差し出した湯呑みを受け取った。
ふわりと広がるほうじ茶の香ばしい匂い。その穏やかな日常の空気を裂くように、店の古い引き戸がガタガタと音を立てて開いた。
入ってきたのは、ヨーロッパの古美術を専門に扱う初老のコレクターだった。その顔はひどく青ざめ、目の下には濃い隈が刻まれている。彼は抱えていた小さな桐箱を、まるで呪われた爆弾でも置くかのように震える手でカウンターへ滑らせた。
「九条さん……これを、引き取ってくれないか。手に入れてからというもの、毎晩、耳元で『金属が鋭く擦れ合う音』が聞こえるんだ。それと、生臭い血の匂いが……」
コレクターが去った後、帳場に残された桐箱の蓋を、湊が静かに開けた。
中に納められていたのは、手のひらサイズの銀の手鏡だった。
銀の表面はどす黒く煤け、裏面には美しい薔薇の彫刻が施されている。だが、その優美な意匠を引き裂くように、刃物で無理やり抉ったような深い傷跡が斜めに走っていた。
いや、よく見ると、その抉れた薔薇のすぐ横に、爪か鋭利な石で必死に削り取られたような、極めて小さな二つのイニシャルが並んでいた。
――『M.T』、そして『M.A』。
「……悲しい傷」
リリが吸い寄せられるように手鏡を見つめ、そっと指先を伸ばした。それと同時に、湊もまた鏡の縁に手をかける。
二人の指先が、同時に銀の手鏡に触れた。
――パチン。
空間が、ガラスが爆ぜるような鋭い音を立てて弾けた。
2
「――っ!?」
リリは激しい眩暈に襲われ、呼吸を詰まらせた。
ほうじ茶の匂いは一瞬で消え失せ、代わりに鼻腔を突いたのは、硝煙と、土埃と、目を剥くような強烈な人間の『血と憎悪』の臭気だった。
耳を聾するほどの怒号が、全方位から降ってくる。
「赤字夫人を殺せ!」「国を滅ぼした悪女に天罰を!」
何千、何万というフランス民衆の幻影が、押し寄せる波のように周囲を埋め尽くしていた。『遺品閣』の店内は歪に引き裂かれ、前方は1793年のパリ・革命広場――血塗られた処刑台がそびえ立つ断頭台の幻影へと変貌していた。
だが、霊障空間の異様さはそれだけではなかった。リリたちの足元から背後にかけては、窓一つない冷たく湿った石壁――『タンプル塔』の幽閉部屋の幻影が、歪に融合していたのである。手鏡に宿る母娘の未練が、時空を超えて二つの絶望を同時に具現化させていた。
その歪んだ空間の、二つの極に、二人のゴースト(迷霊)が佇んでいた。
処刑台の直下にいるのは、白髪になり、惨めな囚人服を着せられながらも、毅然と背筋を伸ばした一人の女性――マリー・アントワネット。彼女の瞳は、一切の光を失った虚無そのものだった。
一方、冷たい石壁の隅には、深い喪服に身を包み、膝を抱えて床を見つめる少女がいた。マリー・アントワネットの長女、マリー・テレーズ。
母と娘。二人の間を遮るように、地面からはどす黒い鉄の鎖が蛇のように這い回り、巨大な壁を形作っていた。その鎖の随所には、血で汚れた裁判の『偽証の書類』がびっしりとこびりついている。
「お母様……ごめんなさい、私はあの紙に……署名をしてしまいました……っ」
喪服の少女、テレーズが顔を覆って泣き崩れた。革命政府に脅され、母を告発する残酷な嘘の書類にサインをさせられた自責の念が、彼女の魂を数百年経った今もなお、タンプル塔の闇に縛り付けている。
だが、マリー・アントワネットは、娘の方を振り返ろうとはしなかった。その身体から溢れ出る黒い薔薇の棘が、彼女自身の魂をズタズタに切り裂いていく。
「近づいてはだめ、テレーズ……」マリーは乾いた声で呟いた。「私を憎みなさい、その方がお前は楽になれる。……世界が私を悪女と呼ぶなら、私は喜んでその仮面を被りましょう。だけど、お前の口からまで『悪女の娘』なんて言葉を聞きたくなかった。私は世界中から呪われた怪物。誰も、本当の私なんて見てくれない。私に触れば、お前まで泥にまみれてしまう……!」
それは綺麗事だけではない、これ以上愛する娘に幻滅されたくないという、母親としての痛切な自己保身と恐怖の吐露だった。
激しいドラムロールが鳴り響き、処刑台のギロチンの巨刃が、マリーの頭上でガタガタと音を立てて持ち上がる。
3
「くだらぬ歴史の残滓が。現世の理をこれ以上歪めさせるか!」
背後から放たれた鋭い声とともに、無数の白い紙式神が空間を乱舞した。安倍晴明の末裔、安倍美晴である。パリの断頭台と化した『遺品閣』から噴出した規格外の霊圧を察知し、彼女は冷徹な眼差しで印を結び、マリー親子ごと空間を強制封印せんとする。「世界の秩序において、彼女は『悲劇の悪女』として正しく処理され、静かに眠るべきだ。肥大化した国家レベルの怨念を現世に解き放つわけにはいかない!」
「ハッ、相変わらずお固いねえ、美晴ちゃん!」
狂気を含んだ笑い声とともに、どす黒い呪術の霧が式神の光を遮った。美晴と同じく異変を嗅ぎつけた蘆屋道徹が、不敵な笑みを浮かべて闇から現れる。「これほど世界中で『悪女』として消費され、何百年分も蓄積された極上の怨念、そう簡単に消させないって。この母娘の呪いのカクテル、俺の呪具の最良の燃料として、丸ごといただくわ!」
秩序による消去と、異端による利用。水と油の術が衝突し、霊障空間の暴走は加速する。ギロチンの刃を吊るす縄が、今にも千切れんばかりに軋んだ。
「やめて――二人とも、やめて!!」
その衝突のド真ん中に、一人の少女が割って入った。リリだった。生身の身体から、かつて要石とされかけた戦国高辻の姫君としての、圧倒的な霊圧が開放される。美晴の光と道徹の闇を、彼女は文字通りその華奢な身体でこじ開けた。
「二人とも、この人の何を見ているの!? 歴史의 記号でも、呪いの道具でもない! この状況のどこが『正しい歴史の理』なの!?」
リリの脳裏に、かつて自分を逃がすために命を削って結界を張ってくれた実母・江と、義母・お初の姿が鮮烈によみがえっていた。「この人は……マリーさんは、ただ夫を愛し、子供を守りたかっただけの一人の母親で、一人の人間だったはずだよ!」
リリは振り返り、地面にトゲのように突き刺さる黒い鎖――『偽証の書類』へと突き進んだ。
「そんなの嘘よ! あなたがどんな風に世界に罵られても、この子があなたの腕の中で笑っていた記憶まで、誰かが作ったお話のわけがない!」
ガチリ、と素手で黒い鎖を掴み取る。
――熱い。いや、冷たすぎて皮膚が爆ぜるような激痛。
バリバリと音を立てて魂を焼く呪詛が、リリの『生身の掌』を猛烈に焦がしていく。かつて幽霊だった頃の、すり抜けるだけの虚無ではない。肉が焼け、爆ぜ、そこからドクドクと流れ出す本物の鮮血の熱さ。それが、いま自分が「生きている」という何よりの証拠だった。痛みに視界が白む。それでも、リリの指先は微塵も緩まない。浅井の、高辻の、数多の母たちから受け継いだ命の重みを乗せて、彼女はその因縁の鎖を――力任せに引きちぎった。
「行きなさい、テレーズ! お母さんの手を、もう二度と離しちゃだめ!」
リリの気高き叫びが、テレーズの凍りついた心を打ち砕いた。
「――お母様!!」
テレーズが泣きながら走り出し、マリー・アントワネットの胸へと飛び込んだ。娘を恐る恐る、だが引き裂かれるような強さで抱きしめるマリー。
――その瞬間、世界から音が消えた。
ガタン!! と最悪の金属音が響き、頭上からギロチンの巨大な刃が、抱き合う二人を目がけて垂直に自由落下する。
リリがちぎり取った鎖の残骸を激突させ、ほんのコンマ数秒、摩擦で刃の速度を鈍らせる。だが、歴史の惨劇という巨大な重力は止まらない。容赦なく肉薄した巨刃の先端が、マリーの白い首筋に――ついに触れた。
ピシ、と皮膚が裂け、細い一筋の鮮血が静かに滴り落ちる。絶対的な絶望の、そのコンマ一秒前。
「湊――!!」
「わかっている」
ずっと静観していた九条湊の眼光が、鋭く跳ね上がった。湊は手元に残された銀の手鏡を、壊れるほどの力で握り締める。その双眸に、浅井と九条の血脈の共鳴による、凄まじい遺品感応の光が宿った。
「ダイブしろ――『真実』の光を、過去へ逆流させろ!!」
4
落下する断頭台の刃が、彼女たちの首を完全に断ち切るよりも速く、湊が引き出した『未来の記憶』が、二人の迷霊の脳裏へと凄まじい濁流となって逆流した。物理的な破壊力が、未来の「解釈」という概念によって激しく上書きされていく。
それは、彼女たちが恐れていた「悪女として消費される未来」ではなかった。数百年後の現代。歴史の闇が暴かれ、多くの人々が彼女の真実の姿を知る光景だった。
『彼女は贅沢に溺れただけの王妃ではない。過酷な運命の中で、最期まで誇り高く、子供たちを愛し抜いた気高き母親だった』
現代の教科書や、歴史家たち、そして無数の人々が、マリー・アントワネットの「一人の女性としての品格」に涙し、リスペクトを捧げている温かい光。さらに湊は、テレーズの魂の奥底、彼女が後年「氷の王妃」と冷徹さを罵られながらも、生涯肌身離さず持ち歩いていた秘密の遺品の記憶を呼び覚ます。
それは、母マリーが処刑前夜、幽閉部屋で秘密裏に自らの指をピンで刺し、その血でハンカチに刻み込んだ、隠されたメッセージだった。
――『あなたを愛しています(Je t'aime)』。
「ああ……」
マリー・アントワネットの虚無だった瞳に、大粒の涙が溢れ出た。世界中の憎悪の叫びが、現代の人々の「理解」という名の優しい光によって、みるみるかき消されていく。
「私は……ただの悪女として消えるのではなかったのね……。お前を、愛し抜いた母親として、遺されることができたのね……」
「お母様……ずっと、ずっと大好きでした……!」
二人が強く抱き合った瞬間、首筋に深く食い込もうとしていたギロチンの刃は、彼女たちの身体に触れた途端、眩い光の粒子となって粉々に砕け散った。首筋の傷も、光に溶けるようにして消え去っていく。
彼女たちの身を苛んでいた黒い薔薇の棘は、瞬く間に純白の薔薇へと姿を変え、満開の吹雪となって革命広場を白く染め上げていく。
タンプル塔の石壁も、怒号を上げる群衆も消えていく。その光の真ん中で、マリーとテレーズは、かつてヴェルサイユの庭園で過ごした時のように、何のラベルも貼られていない「ただの幸福な母と娘」の笑顔を交わし、静かに現世から旅立っていった。
5
「――ふぅ」
道徹が退屈そうに髪を掻き回し、呪具を懐に仕舞い込んだ。
「あーあ、せっかくの極上怨念が、ただの『お母さんの涙』になっちまった。リリちゃんには敵わねえなぁ」
美晴は静かに式神を収め、じっと自分の手のひらを見つめていた。リリの言葉と、あの圧倒的な救済の光。それは陰陽師としての「正しい歴史の理」による封印では決して到達し得ない奇跡だった。
「……私の術では、彼女たちを『救う』ことはできなかった。現世への影響がないのなら、今回はそれでいい」
美晴はどこか安堵したような、しかし自身の敗北を静かに認めた目を残し、不器用な視線をリリの手元へ向けた後、素気無く店を出て行った。
静寂が戻った『遺品閣』の帳場。
カウンターの上に置かれた銀の手鏡は、煤が綺麗に落ち、かつての美しい輝きを取り戻していた。斜めに走っていた深い刃物傷は消え去り、裏面の薔薇の彫刻の横には、ただ優しく『M.T』と『M.A』の文字が寄り添っている。
リリは、包帯を巻いた手でその手鏡を持ち上げ、鏡面を覗き込んだ。
そこには、少しだけ晴れやかな顔で微笑むリリと、その後ろでいつものように静かに佇む湊の姿が、鮮明に映し出されていた。
「ねえ、湊」
リリは手鏡を見つめたまま、少し大人びた声音で呟いた。
「マリーさんも、テレーズちゃんも、本当の姿を見つけてもらえた。……私自身の本当の足跡も、いつか未来の誰かが、優しく見つけてくれるかな」
かつてシステムの所有物として消えかけた初姫。だが今の彼女には、自分の足で現在を生きる人間の芯があった。
「ああ。俺がずっと見ているし、未来の誰かも必ず見つける」
湊は静かにそう言って、新しく淹れ直すために湯呑みを手に取った。リリは嬉しそうに、その少し不器用な店主の後ろ姿に微笑みかけるのだった。




