第二十三話:『虚飾を剥いだ純白の簪――花魁若紫、浄閑寺に眠る名』
御船千鶴子が遺した千里眼の狂乱。それが去った後も、骨董店『遺品閣』の帳場には、胸を圧迫するような、ひりついた残響が居座り続けていた。
湊とリリを繋ぐ浅井の血脈。美晴が秘める、リリへの誰の手にも渡したくないほどの不格好な愛おしさ。道徹が自覚させられた、過酷な運命に抗う少女を眺めていたいという歪んだ執着――。
それぞれが口にせぬまま心の底に沈めていた「本音」を容赦なく剥き出しにされた四人の間には、硝子細工を踏みつけるような、危うい沈黙と距離感が生まれていた。
何より、リリの心を苛んでいたのは、千鶴子の辿った悲劇そのものだった。
(普通じゃない私は……いつかこの世界に正体がバレたら、居場所をなくして潰されちゃうのかな……)
お茶を淹れるリリの指先は微かに震え、その瞳からは、現代の日常に生きる喜びを見出したばかりの輝きが消え失せていた。湊もまた、その孤独に明確な正解を出すことができず、ただ静かに湯飲みを見つめることしかできなかった。
そんな重苦しい空気の中、カラン、と戸の音が響く。
入ってきたのは、吉原の古道具を熱心に収集しているというコレクターだった。彼が差し出したのは、一本の煤けた木彫りの簪だった。装飾としての珊瑚も金も使われていない、およそ大見世の花魁には不釣り合いなほど素朴な一品。だが、その簪の細い柄の裏側には、吉原随一の格式を誇る「角海老」の紋が刻まれ、そのさらに奥に、爪の先ほどのごく小さな文字で、直接手で彫り込んだような『信子』という本名が記されていた。
張り詰めた帳場の中、差し出されたその簪に、リリが吸い寄せられるように触れた。湊がそれを止めようと上から手を重ねた――瞬間。
ゴォォォッ!! と、骨董店を揺るがすような血の暴風が吹き荒れた。
むせ返るような白粉の匂い、遊女たちの張り付いた笑い声、 Kew 狂ったように掻き鳴らされる三味線の地鳴り。一瞬にして『遺品閣』は消失し、彼らは明治の吉原、三大老舗の一つと謳われた「角海老楼」の絢爛豪華な地獄座敷へと引きずり込まれていた。
「いやだ……いやだ! なぜ私なの……!? あと五日……あと五日で、私は『信子』に戻れたのに……っ!」
空間の中央に現れたのは、絢爛な衣装を纏いながらも、その胸元から夥しい鮮血を流した花魁――「若紫」の迷霊だった。否、彼女が叫んでいるのは、花魁としての名ではない。自らの真の名前、勝田信子としての狂乱の怨嗟だった。
「怨霊の類ですね……! 道徹、左右から挟みますよ!」
美晴が即座に数珠を掲げて神道の防壁を展開し、道徹もまた呪符から黒い糸を伸ばす。
だが、信子の放つ霊障は、これまでのどの迷霊とも質が違っていた。彼女の身体から溢れ出た赤黒い霧は、一切の狙いを定めず、ただ空間にいる者すべてを等しく切り裂こうと無差別に牙を剥いたのだ。
「お前たちの事情など知るか! なぜ私だけが殺されなければならなかった! 関係のない他人の悪意のせいで、私のすべてが奪われたんだ……! お前たちもみんな、私の死の『とばっちり』にしてやる!!」
ガガガガンッ! と美晴の防壁が悲鳴を上げる。千鶴子の一件以来、互いの情念を意識するあまり連携の乱れていた二人の陰陽師は、この因果を無視した「理不尽な無差別の暴力」の前に、術の展開が遅れて防戦一方へと追い詰められていく。道徹が苦々しく舌打ちをし、美晴の額に焦りの汗がにじむ。
「くそっ……! 二人とも、持ち堪えてくれ!」
湊は、血の嵐に肌を焼かれそうになりながらも、机の上に転がった簪を素手で強く掴み取った。極限の〈遺品感応〉。脳裏に流れ込んできたのは、明治三十六年八月二十四日、角海老楼で起きたあまりにも残酷な真実の記憶だった。
――勝田信子、享年二十二。彼女は武家としての高い気品と知性を持ち、吉原の頂点に立ちながらも、決して心までは売らなかった。幾多の富豪や名士からの身請け話をすべて断り続け、ただ一人、売られる前の自由だった頃の恋人である貧しい簪職人の青年・新吉との純愛を貫いていた。青年は血の滲むような思いで金を工面し、ついに角海老楼との身請けの交渉を取り付けたのだ。
あと五日。あと五日で、この籠から出て、一人の普通の人間、普通の女性である「勝田信子」に戻ってあの人と生きられる。その幸せの絶頂の夜、事件は起きた。
隣の座敷で、別の遊女に無理心中を断られて怒り狂った「全く見ず知らずの客」が、小刀を手に廊下へ飛び出してきたのだ。男は自暴自棄の狂乱のまま、たまたま廊下を通りかかり、恋人からの手紙を愛おしそうに眺めていた信子の首筋を、ただ「そこにいたから」というだけの理由で切り裂いた。
加害者との間に、怨みも、因果も、何一つない。百パーセントの、純粋な巻き添えの死。
『新吉、新吉ぃ!! いやだ、私は、私はまだ死ねない……! あと五日なのに……っ!』
普通の幸せに、あと一歩で指先が触れるはずだった少女が、他人の悪意によって一瞬で暗闇へ突き落とされた、宇宙のような絶望。
浅井の血脈を通じて、信子の最期の叫びが、リリの魂へとダイレクトに突き刺さった。
「あ……、うあぁ……っ!」
リリは自分の胸をかきむしり、その場に崩れ落ちた。「普通の人になれないかもしれない」と怯えていたリリの前に突きつけられたのは、「あと五日で普通の人になれるはずだったのに、理不尽に壊された」命の姿。世界の冷酷さが、リリの心を完全に圧潰しようとしていた。
「ハハッ、お嬢様がた、このままじゃ本当にあの世へ巻き添えだねえ!」
道徹の黒怨の糸が引きちぎられ、赤黒い血の刃が、動揺して動けない美晴と道徹、そして湊の首筋へと容赦なく迫る。
その絶望の光景を目撃した瞬間――リリの脳裏で、何かが決定的に弾けた。
(いやだ。ここでみんなが死んじゃうなんて、そんなの、絶対にいやだ!)
「普通の人になれるかなんて、そんなの……もうどうでもいい!!」
リリは涙を振り払い、凄絶な咆哮とともに、湊たちの前に真っ直ぐに立ち塞がった。
彼女の身体から、かつてないほど純粋で、かつてないほど強大な霊力が爆発的に噴き出す。これまで夕闇に透けて消えそうだった彼女の輪郭が、いまや世界そのものを白く塗りつぶすほどの圧倒的な密度を持って輝いていた。それは他人の評価に怯える受動的な少女の力ではなく、自らの意思で大切な存在を守ろうとする、真に自立した「個」の輝きだった。
「異分子だって、何百年前の化け物だって構わない! あと五日を、必死に『勝田信子』として生きようとしたこの人の想いを、ただの不運な巻き添えの死で終わらせてたまるか――っ!!」
ドンッ!! と、リリの放った純白の霊圧が、因果なき角海老の不信の結界を、内側から木っ端微塵に粉砕した。
信子の迷霊が、リリの圧倒的な光に目を剥く。
「お前は……お前たちは、なぜ私を拒まない……!」
「信子さん。あなたは、ただ不運に巻き込まれて消えた『記号』なんかじゃない」
湊はボロボロになりながらも立ち上がり、信子の真ん前まで歩み寄ると、その簪を掲げて〈遺品感応〉の力を最大出力で逆流させた。
湊が彼女の魂へ還したのは、彼女の死後、廃人のようになりながらも一生他の女性を愛さず、ただひたすらに、生涯で何千本、何万本と彫り続けた簪のすべての裏側に『信子』の名前を刻み続け、彼女の生きた証を守り抜いた新吉の、狂おしいほどの純愛の記憶。
そして現代の三ノ輪・浄閑寺において、彼女の気高き生涯が『若紫塚』として今なお人々に優しく守られ、語り継がれている歴史の光だった。
「あなたは角海老の若紫という商品じゃない。あの男の人生のすべてにおいて、唯一無二の『勝田信子』という、誇り高き一人の人間だったんだ」
脳裏に溢れ出す、最愛の男の、生涯を懸けた不変の情念。
『信子、お前は俺の妻だ。たとえ何百年経とうが、それだけは変わらない』
「あぁ……」
信子の瞳から、溢れる血の代わりに、清らかな本物の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
その瞬間、彼女の身体を縛り、狂わせていた血まみれの花魁の衣装が、一瞬にして剥がれ落ちた。そこに出現したのは、武家の娘らしい凛とした気品を宿し、髪を素朴に結った、ただの、驚くほど美しい二十二歳の少女「勝田信子」の素顔だった。
「私は……ちゃんと、信子として愛されていたんだね……。新吉、待たせてごめんね」
信子は、空間の向こうから優しく両手を広げて現れた、恋人の幻影へと駆け寄り、その胸に飛び込んだ。吉原の重い大門の幻影が静かに開き、二人は今度こそ、普通の恋人同士として、晴れやかな光の中へと旅立っていった。
光が収まり、視界がいつもの『遺品閣』の帳場へと戻る。
ガラスケースの上には、煤けた一本の木彫りの簪だけが、その役割を終えて静かに横たわっていた。
「……ふぅ、危ないところでしたねえ。お嬢様がたの痴話喧嘩に巻き込まれるのは、もう御免ですよ」
道徹がいつもの調子で軽口を叩きながら、ふっと破顔した。
「無礼者。誰が痴話喧嘩ですか」
美晴は少し赤面してそっぽを向いたが、その表情からは、千鶴子の一件で生じていた強張りが完全に消え去っていた。
「湊さん、美晴ちゃん、道徹さん」
リリは、驚くほど力強く、そしてこの上なく晴れやかな笑顔で三人を見つめた。その瞳には、普通への執着も、未来への消えない不安も、もう微塵も残っていなかった。
「私、みんなが私をどう思っていても、世界が私をどう見つめていても……私が、みんなを信じる。みんなが私を助けてくれた時の温かさは、絶対に偽物なんかじゃないから。私は私の意思で、みんなと一緒に、この現代にいるよ」
千鶴子の遺した呪いの鏡を、信子の理不尽な死を通じて撥ね退けたリリ。
彼女の淹れた温かいほうじ茶の湯気が、四人の絆を今度こそ本物の調和へと導くように、静かに、優しく帳場を包み込んでいくのだった。
(第二十三話 了)




