第5話 三つの影
羊皮紙の上で、二つの筆跡が月明かりに晒される。
ナイレンは王都からの公式文書と、古い備忘録の切れ端を並べた。
指先が「リュカス・ヴァイル」の署名を撫でる。次に備忘録の走り書きへ移る。
角度。跳ね。途切れ癖。
胃が硬直する。完全な一致だ。
背筋に電流が走る。
「……監査の三年前からか」
声が低く軋む。喉が焼ける。
彼は書類を置き、両手で机を押さえる。冷たい木材が震えを伝える。
思考が逆戻りする。最初の技術質問。親しげな助言。突然の追放裁定。
点が線となり、網となる。
鼓動が耳朶で暴れる。呼吸が浅く速い。
彼は強いて目を見開く。過去を見るな。今を見よ。
新たな羊皮紙を引き寄せる。ペンを握る。手の震えがペン先に伝わる。
最初の一文字が滲む。
「集中……」
自分に喝を入れる。首筋の汗が冷たい。
ペンを走らせる。「証拠物件 No.1」。
日付、筆跡特徴、発見場所。客観的事実だけを列記する。
手が次第に落ち着く。呼吸が深くなる。
システムエンジニアとしての勘が、感情を押しのける。
照合済みの書類をまとめる。一つに束ね、紐で括る。
「敵性資料」とラベルを貼る手に迷いはない。
鍵付き抽斗へ収める。鍵を回す金属音が、静寂を切り裂く。
これで証拠は保全された。
守るべきものはここにある。過去ではない。
彼は顎を引く。視線が冷徹に冴え渡る。
「来い。リュカス」
囁きは闇に吸い込まれた。
古い備忘録の裏側に、別の筆跡が浮かび上がった。王都の書式とは違う。
ナイレンの指が、その文字の上で止まる。胸が一瞬、締め付けられる。
角度。強弱。無意識の癖。
「二つ……ある」
吐息が白く濁る。胃が冷たく固まる。
一つはリュカス。もう一つは、未知のものだ。
彼は書類を引き寄せる。月明かりを遮るように、体を屈める。
二つの筆跡が交差する箇所を、目が貪る。
鼓動が耳朶で鳴る。血の音だ。
背筋に冷汗が伝う。
照合作業を始める。一枚。また一枚。
呼吸が浅く、速い。
見つからない。未知の筆跡は、この工房の記録にはない。
彼の唇が乾く。喉が軋む。
「外部の者か」
呟きが闇に落ちる。脅威が二重になった。
机の縁を握る手の関節が白くなる。
「計画変更だ」
声には力がない。しかし目は研ぎ澄まされる。
防壁は、四層では足りない。五層、六層が必要だ。
彼は新しい羊皮紙を広げる。ペンを握る。手の震えがペン先に伝わる。
最初の線が滲む。
「第五層:未知の脅威への対応」
思考が速まる。頭の中で設計図が展開する。
魔導紋の擬装層。検知回避機構。
共同体の集会場は、朝食の匂いと鉛のような沈黙で満ちていた。
ナイレンは入口で足を止めた。背中に冷たい汗が伝う。
「集まってくれ」
声は低く、岩を削るようだった。メンバーの顔が一斉に向く。
鍛冶屋のグレン、採掘班のラガ、農耕担当の老女エイダ。全員の目に疑問が浮かぶ。
ナイレンは机の上に、二枚の羊皮紙を広げた。
「王国が査察を要求してきた」
ざわめきが起きる。ラガが立ち上がろうとした。
「そして、これだ」
ナイレンの指が、署名の「R」の跳ね上げ部分を叩いた。音は乾いていた。
「監査部門の長官は、リュカス・ヴァイルだ」
グレンの息が止まった。彼だけが、ナイレンの過去を詳しく知っていた。
「あの……学友か?」
「今は違う」
ナイレンは首を振った。喉が渇いていた。
「偵察は彼の指示だ。筆跡が一致した」
エイダの手が、木のテーブルを掴んだ。節くれだった指が白くなる。
「ここの土地は?我々の生活は?」
「狙いは技術だ。古代魔道具の量産体系」
ナイレンの言葉は、包丁のように冷たく鋭い。
「工房を守れなければ、共同体も消える」
ラガが拳を机に置いた。
「戦うのか?王国と?」
「戦いは、もう始まっている」
ナイレンは資料をめくった。目は血走っていない。氷のように澄んでいた。
「彼らは法と規則で縛りに来る。ならば、法と技術で縛り返す」
中古の旋盤に、本来ない部位があった。
ナイレンが分解した駆動部の奥、支持軸受の陰に、小型の魔導結晶基板が密かに組み込まれていた。埃が積もっている。だが、結線は新品の輝きを保つ。
彼の手が止まった。
心臓が一瞬、高く跳ねる。肺の底が冷たくなる。吸い込んだ油の匂いが、喉に突き刺さる。
基板を慎重に引き抜く。
指先が微かに震える。それを押し殺す。結線パターンを視界に焼き付ける。
データ送信用の魔導回路。
動作には不要だ。座標を送信する位置情報系。外部との双方向通信が可能な構成。
「……偵察か」
声は機械整備室の金属壁に吸われた。自分だけに聞こえる呟きだ。
購入経路を辿る。
共同体の技術者が王都の闇市から仕入れた。安価だった。あまりに安価だった。
罠だ。
結論は即座に下った。胃が冷たい塊になる。背筋に汗が走る。
基板の魔力痕を解析する。
《解析修理》が視界に青い輪郭を描く。最後に魔力が流れたのは、三日前。工房に搬入された翌日だ。
外部と通信した痕跡。
ナイレンの顎が締まる。歯を食いしばる。こめかみの血管が脈打つ。
彼は基板を分解工具で慎重にはがす。
動作を殺す。結晶を砕く。破片を溶鉱炉の残り火の中へ放り込んだ。
青い炎が一瞬、揺らぐ。
焦げる臭いが立ち上る。胸の鼓動が、やや落ち着く。
「一つずつ潰すしかない」
低い声が、再び金属に吸い込まれた。




