第2話 鋼刃の谷の朝
掌に残る冷たい感触が、目を覚まさせた。
ナイレンは寝床の上で瞼を開けた。天井の梁は薄明かりに輪郭を浮かべている。彼は布団を剥ぎ、素足で石床に立った。冷気が足の裏を刺す。
窓辺に歩み寄り、外を覗いた。鋼刃の谷はまだ深い藍色に包まれている。工房の輪郭が、ぼんやりと闇から立ち上がっている。
彼は上着を羽織り、扉を開けた。朝の鋭い空気が顔を撫でる。
まずは家の周囲だ。彼はゆっくりと歩き出した。目は地面を舐めるように動く。不自然な足跡はないか。魔力の乱れは感じられないか。
工房の正面に回った。重厚な鉄製の扉は、昨夜と同じように閉じている。彼は取っ手に手をかけた。魔力ロックが微かに振動し、「正常」の信号を送ってくる。彼は一息吐いた。
次は外壁沿いだ。石積みの壁に沿って、ゆっくりと歩を進める。彼の手が、ところどころ壁に触れる。煉瓦の隙間。魔力導管の継ぎ目。全てが整ったままだった。
ふと、視界の端が揺れた。彼の足が止まる。壁の根元に、小さな光るものが落ちている。
彼はしゃがみ込んだ。指でそれを拾い上げた。それは小さな、硝子のような破片だ。魔石の欠片ではない。朝露に濡れた、壊れた虫の羽のようだ。
彼はそれを掌の上で転がした。特に魔力は感じられない。どこからか風で飛んできたものだろう。彼は軽く息を吹きかけ、羽を地面に落とした。
再び歩き出す。工房の裏手へ回る。ここは山肌に近い。岩肌から細い水が滴り落ち、小さな水たまりを作っている。
水たまりの縁に、足跡があった。
ナイレンの目が細くなる。それは小さな、三本指の爪痕のような跡だ。辺境に棲む岩トカゲのものだ。新鮮ではない。一晩以上は経っている。
彼はその跡を見つめ、ゆっくりとうなずいた。普段通りの痕跡だ。
「異常、なし」
声は低く、朝の静寂に消える。彼は工房の扉に向き直った。今日も一日が始まる。
魔導炉の点火リストがデスクの上で待っていた。だがナイレンは手を伸ばさない。
胸の裏側で心臓が打ちつける。昨夜の巡回で見つけたもの。あの紋様の破片。魔力の残滓が、今も皮膚の下で脈打つ。
彼は指を動かした。代わりに引き出しを開ける。羊皮紙の束が現れた。取引記録。同盟都市との契約書。辺境を跨ぐ商隊の明細。
リストの上に手が置かれる。指先が冷たい。机の上の魔力計は静寂を保つ。
「……今日はこっちだ」
声はデスクに吸い込まれる。
一枚、また一枚。書類が選別されていく。彼の視線は文字列を切り取る。国外ルート。非公式な経路。王都の目が届かない場所。
手が止まった。一枚の契約書に、赤いインクの印。ヴァルハラ商工会との独占条項。これが表に出れば、工房の命脈が握られる。
息が深くなる。吐く息が白く曇る。
彼はその一枚を脇に滑らせた。隠蔽リストの第一行目に、インクが滲む。
理由は一つ。査察官の影が、谷の入口に立つ前に。守るべきものを、透明な箱に閉じておくため。
背筋に疲労が鉛のように沈む。昨日から続く重さ。それでも指は動く。次は交易品目録。魔導兵装の部品リスト。辺境の町との修理契約。
また一枚が選ばれる。指の震えが、紙を歪ませる。
手のひらに汗が滲む。彼は書類を置く。机の上に広がるのは、生産ラインの設計図だ。
「ミーラ」
呼び声が工房に響く。
少女が駆け寄る。彼女の目が設計図を見つめる。
「今日の予定は?」
「変更だ。ラインの調整から始める」
ナイレンの指が図面の一箇所を指す。
「ここ。検品工程を二段階化する」
「え? でも、これだと効率が…」
「構わない」
声が硬い。ナイレンの目は図面に釘付けだ。心臓が肋骨を内側から叩く。鼓動が耳元で鳴る。
「査察が入った時、あらゆる工程を説明できなければならない」
彼は息を吸う。肺の底が冷たい。
「部品の供給元も記録せよ。全てだ」
「……はい」
ミーラの声が小さく揺れる。彼女も何かを感じ取っている。
ナイレンは立ち上がる。足首が重い。生産ラインへと歩み出す。
ライン沿いの装置に触れる。指先で魔力導管の温度を確かめる。平熱だ。だが、彼の皮膚は冷たい。
「稼働中の魔力炉は、一時停止の手順を明確に」
「停止?」
「そうだ。安全基準を満たすための停止だ」
彼は記録板を取る。ペン先が震える。
理由は言葉にできない。王都の新法令が、独立技師の首を絞める可能性。その匂いが、書類の隙間から漂う。
「次は完成品の保管区域だ」
彼は奥の扉へ向かう。鍵を回す音が、工房に鋭く響く。




