第1話 魔石の破片
魔導解析スペースの机の上で、一塊の魔力残滓が微かに光っていた。
ナイレンは整備記録を点検していた。防壁システムの回路図を脇に置き、魔力供給ステーションから回収した廃棄物の山を解析していた。彼の指が黒ずんだ魔石の破片をつまみ上げた。
破片の断面は硝子のように滑らかだった。上級品だ。魔力の抜け殻だが、純度の高さが手に冷たい重みとして残る。彼はルーペを手に取り、破片の縁を覗き込んだ。
刻まれた紋様が視界に飛び込んだ。交差する三本の槍。槍先には月桂樹の葉が絡みついている。
ナイレンの手が止まった。胸の内側で脈が一瞬、速く響いた。
「……リュカス」
その名が零れた。声は工房の静寂に吸い込まれた。彼は破片を掌に転がした。角が皮膚に食い込む。
かつての学友が、胸に誇示していた紋章。あの傲慢な笑顔が、一瞬、脳裏を過ぎった。王都の魔法学院。石畳の廊下。リュカス・ヴァイルが仲間を従え、輝く眼差しで未来を語っていた。
今、この破片は辺境の工房にある。なぜ。誰が運んだ。
ナイレンは廃棄物の山を見下ろした。これらは商人から買い取った魔力枯渇品の残骸だ。鋼刃の谷には流れてこない品物だ。
彼は破片を机に置いた。立ち上がると、足元が少し重い。寒気が背筋を這った。窓の外は深い闇だ。
工房の防壁は完璧に動作している。だが、この小さな破片は、別の壁を越えてきた。
ナイレンは記録デスクに歩み寄った。新しい羊皮紙を広げる。ペン先が震えていないか、自分に言い聞かせた。
彼は破片をルーペの下に固定し、魔力痕跡の解析を始めた。紋様の彫りの深さ。魔力経路の侵食パターン。一つ一つ、記録していく。
作業は進む。しかし、頭の片隅で別の計算が回り続けている。王都との距離。監視の可能性。旧友の現在地。
彼は吐息を漏らした。温かい息が、冷えた室内で白くぼやけた。
「もう、関係ない」
彼は呟いた。だが、手は破片から離れない。解析は続く。紋様を見つめる目は、ややかすんでいた。
かつての自分が、どこかに閉じ込められている気がした。
作業台の魔石破片は、まだ微かに温かみを帯びていた。
ナイレンは解析記録の羊皮紙を捲った。最後の行まで墨が滲んでいる。彼はペンを置き、眼頭を指で押した。視界の端がちくちくと疼く。
机の上の魔石が、闇の中で淡い青白い痕を残している。三本の槍の紋様は、見つめ続けると歪んで見えた。
彼はゆっくりと背筋を伸ばした。関節が軋む。工房の空気は、深夜の冷たさで張り詰めている。
立ち上がると、足元が軽く浮く。疲労が一気に足首にまとわりついた。窓の外は漆黒で、自分の影だけが壁に揺れている。
ナイレンは作業灯の魔石を指で弾いた。光がぱったりと消える。闇が一瞬で工房を飲み込んだ。
彼は暗闇の中を歩き出す。通路の向こうに、住居部分の戸口が見える。手を伸ばし、取っ手を回す。
冷たい金属が掌に伝わる。
部屋に入ると、狭い寝床が目に入る。彼は上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。布団の上に腰を下ろす。身体の重さが、粗いシーツに沈む。
天井を見上げる。梁の影がぼんやりと浮かんでいる。頭の中では、まだ紋様の線が走馬灯のように巡る。
彼は目を閉じた。瞼の裏側に、王都の魔法学院のガラス窓がちらついた。陽光がきらめく廊下。嘲笑うような金髪の横顔。
ナイレンは深く息を吸い込んだ。辺境の土の匂いが鼻腔を満たす。鋼刃の谷の、錆びた鉄と乾いた岩の匂いだ。
彼はその匂いに意識を集中させた。胸の奥で蠢いていた古い痛みを、押し流すように。
「ここにいる」
声は寝室の静寂に溶けた。彼は繰り返すように呟いた。
「ここが、今だ」
身体を横たえると、布団が冷たい。彼は少し丸まった。膝を胸に近づける。
遠くで、谷風が唸る音が聞こえる。防壁システムが微かに唸りを立て、魔力の脈動を伝えてくる。自分が構築した秩序の音だ。
彼はその音に耳を澄ませた。思考が少しずつ、緩んでいく。紋様の記憶も、かつての声も、闇の深みに散っていく。
呼吸が深く、長くなる。
眠気が、ゆっくりと暗闇から這い上がってきた。それに身を任せて、ナイレン・フォードは深い休息へと沈んでいった。
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