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第十七話(A.D.362)唯一皇帝

 ユリアヌス達は何事もなく首都コンスタンティーノポリス(現イスタンブール)に入城した。

 同時に祭典が開かれた。勿論、ユリアヌスがローマの単独皇帝となった祭典である。

 飲めや歌えやの大騒ぎ――大衆とは現実的な生き物だ。これから始まるユリアヌスの統治に頭を悩ませている上層部とは違う。喰える時に喰い、寝れる時に寝る。そんな欲求に忠実だ。

 かくいうトゥルートも、そんな動物的な一人である。

 田舎(いなか)育ち故、人込みは嫌いだが、都会の飯は嫌いではない。

 とりわけ、酒場(ポピーナ)の飯は大好きだった。

「やっぱ、(うなぎ)蒲焼(かばや)きに限るなー」

 と、トゥルートが頬張っていると、動物的ではない女が一人、酒を飲んでいた。

「よお、シャハラザード。飲んでいるなー」

「飲んでるわよ。悪い?」

 ……少なくともシャハラザードの飲み方は悪い類だった。顔色も暗い。あの――トゥルートには胡散臭く思えた――滋味あふれる美貌と光輝なる魅力も、すっかり隠れてしまっている。

 トゥルートは肩を竦め、彼女の隣に腰を下ろす。

「結局、コンスタンティウス二世って何だったんだろうな? 何を考えているのか、最後までわからなかった」

 ま、あたしらはユリアヌス直属だったんだから、無理もないか――とトゥルートは続けられなかった。その前に

「専制君主よ」

 シャハラザードが明言したからだ。

「自分の真意を見せないのは専制君主の技術なのよ。民主的な、いわゆる元首との違いね」

 例えば、ユリアヌスは大量の著作を残している。演説でも饒舌だ。これは『元首』の特徴だという。元首は限定的ながら、民主的な過程を経て誕生している事が原因だという。つまり、自分の主義主張を明確にする事で、民衆にその賛否を間接的に問うているのだ。

「へー。てっきり、あれはユリアヌスがオタク野郎で子供っぽいからだと思ってった」

「……そういう側面もあるでしょうけどね」シャハラザードは苦笑しながら、酒杯を重ねる。「いずれにせよ、ユリアヌス様みたいな皇帝は今時珍しいわよ。最近のローマ帝国はどんどん東方的な君主制に近づいている。でも、ユリアヌス様には共和制への憧れがあるから。せめて元首制にまでは戻したいみたいね」

「けど、コンスタンティウス二世はその東方的な専制君主だったんだろう?」

「ええ、そうよ。『王権すなわち神権(デーン)神権(デーン)すなわち王権』と言いそうな程の東方(オリエント)かぶれね。ペルシャと戦争していながら、当人の本人はそのペルシャの専制君主とほとんど変わらない」

「……お前もしかして、東方やペルシャにいる【専制君主】とかいう生き物が嫌いなのか?」

「嫌いよ」

 シャハラザードはあっさり言った。トゥルートは驚いた。

「何で?」

「民の代表者ではなく、ヒトの超越者だからよ」

 シャハラザードのその言葉には強い殺気が宿っていた。

 元来、トゥルートには皮膚感覚で敵意や害意を読み取るところがある。だからこそ、衛士として重宝され、武人として大成しつつある。

 しかし、シャハラザードがこの場で殺意を抱く理由がない。端的に言って……

「意味が分からん」

「あなたにすれば、そうなるでしょうね」

 そう吐き捨て、シャハラザードはさらに酒杯を重ねる。

 トゥルートは眉を(ひそ)めた。

 後になって思えば、この頃のトゥルートは素朴な愛国者だったのだろう。民族的、宗教的に同胞であるはずのゲルマンは故郷と家族を踏み躙った。その一方で、一応の母国であるローマ帝国には、ユリアヌスの様な国家の代表者がいて、彼が復讐を果たしてくれた。そして、そのユリアヌス自身は国家というシステムのために尽力している。

 これで国家に好意を抱くなという方が無理だ。

 だから、シャハラザードが母国であるはずのペルシャを嫌っている事が理解できなかった。東方ペルシャ生まれなのだから、東方ペルシャが好きなはずと漠然と思っていた(五年前に『愛国心とかないですよ。仕事です仕事』と彼女自身が語っていたにも関わらず)。

 もっと言えば、その【専制君主】とかいう生き物も、ユリアヌスと同じ皇帝だと聞いて、

 ――なら、ペルシャや東方の【専制君主】とかいう生き物も、ユリアヌスみたいな生き物に違いない。

 と、思っていた。

『理屈っぽくて、延々喋り続けて、書物を握って寝台の上で悶えるキモい奴。けど、こいつに従えば、戦争に勝てるし、税金も安くなるから、皆が祭り上げる』

 そんなユリアヌスを平均的な皇帝だと思っていたのだ。

 話が噛み合わなくなるわけだ。

 そして、シャハラザードはさらにさらに酒杯を重ねる。

「……てか、お前、飲み過ぎなんじゃ?」

「うるさいわねー。これが飲まずにはいられますかっての!」

 シャハラザードの碧い瞳は既に潤んでいた。

「わたし、あれだけ(あお)ったのよ? 煽って煽って煽って……この(ざま)よ?」

「……まー、コンスタンティウス二世の引き立て役だったな。あれ以来、ユリアヌスも『先帝陛下』『先帝陛下』と尊び始めたし」

 勿論、ユリアヌスの態度には政治的意義も強いはずだ。つまり、自分がコンスタンティウス二世の正当後継者でもある事を内外に示す喧伝だ。

 ……しかし、本来それを真っ先に指摘するはずのシャハラザードはただ嘆くばかりだった。

「あぁ。もう嫌ぁ。絶対、軽蔑されたぁー。佞臣街道(ねいしんかいどう)まっしぐらー。好感度下がりまくりー」

「そう言うなよ。別に罷免された訳じゃないだろ。それにユリアヌスへの明確な害意があった宦官の首魁の……えーと、エウセビウスだっけ? そいつですらお咎めなしなんだし」

「お咎めなしっていうか、関わりたくないって感じだけどね……」

 実際、この後エウセビウスが幾つかの不正で告発されるが、ユリアヌスは『多忙だから』と、その裁判に臨席すらしなかった。ユリアヌスが多忙なのは事実だ。が、仮に暇だったとしても、エウセビウスの処罰に関わったとは思えない。……潔癖なユリアヌスからすれば、讒言で人を陥れるエウセビウスはこの世で最も嫌いな人種だ。さらに被害者は自分だ。八つ裂きにしても足らぬだろう。しかし同時に、自分が最高権力者になり、その復讐を遂行できる立場になれば、『いや、皇帝たる者が私的な恨みにかられて、いいものだろうか? そんな事よりも、まずは国家と市民のために(以下略)』とでも考えるのだろう。

 キリスト教についても同じだ。

 ユリアヌスはキリスト教徒ではない。既にユリアヌスはそれを隠す事もなかった。しかし、皇帝ユリアヌス個人がキリスト教徒でないからといって、キリスト教徒を迫害する公私混同は、ユリアヌス自身が許さないだろう。

 勿論、その逆もまた然りなのだが……。

「あいつ、頭でっかちだからなー」

「あの人、頭でっかちだもんねー」

 皇帝側近の娘二人は、ユリアヌスをそう評した。

「で、ここに来たのはその皇帝陛下の指示なのかしら?」

「……」

 トゥルートは口籠った。実際その通りなのだ。

 シャハラザードを慰めに行って欲しい――というユリアヌスの頼みがあったからだ。

「あはは……、ユリアヌス様ったら、本当にお優しいわよねえ。そのお優しい皇帝陛下に道を誤らせた馬鹿女にも、ちゃんと気づかいをなさるんだから」

 そして、シャハラザードはさらに杯を重ねる。明らかによくない飲み方だった。

「そりゃあ、エウセビウスも罪を問われないわ……って、よくよく考えれば、わたしのやった事はエウセビウスと同じ? じゃあ、エウセビウスを処罰しなかったのって、わたしの責任を問わないために……?」

「そう言うなって。最終的に決断を下すのはユリアヌスの仕事。あたしもお前も所詮は(こま)さ。責任を負う必要はない」

「ひっく。でもわたし、凄い独断専行していたんだよ。今だから言うけどね、正帝推戴の時、ユリアヌス様の許しもなく反対者の口を……」

「あーあー、聞こえなーい!」

 トゥルートは慌てて耳を塞いだ。シャハラザードはそれをジト目で睨みつける。

 ――ユリアヌス……あたしには無理だ。こんな酔っ払いをどう『慰めろ』というんだ?

 そんな風にトゥルートが主命を嘆いていると、シャハラザードは結論を出してくれた。


「じゃあ、トゥルート姉さま……わたしを慰めて! 女の子的な意味で!」

「いや、離れろっ!!」


   ***


「疑心暗鬼だったのは僕の方だったのか?」

 ユリアヌスは単独皇帝の玉座で書類と向き合いながら自問していた。


 コンスタンティウスの立場になれば、当然、あり得た選択だった。何しろ、あの時点でコンスタンティウスは四十五歳だ。この時代としては既に初老であり、最早血気盛んな齢ではない。

 ――ユリアヌスと戦って、仮に勝てたとしても、その後どうする?

 という程度は考えないはずがない。

 自分で言うのもなんだが、ユリアヌス軍は戦術規模では無敵なのだ。かつてのハンニバルと同じだ。戦略的に封じ込めるのに成功しても、国土は荒れ果てる。その荒れ果てたローマに、東方からペルシャ帝国が襲いかかってくれば、ひとたまりもない。おまけにガリアをはじめとするローマ帝国西方はコンスタンティウスを恨む。昔から色々あって、コンスタンティウスはローマ帝国西方に評判がよくないのだ。ユリアヌスを西方派遣したのも、それを考慮した上の人気取りでもあった。しかし、そのユリアヌスを殺せば、事態の収拾はますます困難になる。

 コンスタンティウスが二十歳の頃――ユリアヌスの父が殺された頃――も、これと似た状況だった。その混乱をコンスタンティウスは何十年もかけて何とか収拾したのだ。ユリアヌスを殺すという事は、五十近くにもなって、その成果を自らぶち壊すという事だ。

 ――そんな事をするくらいなら、いっそユリアヌスを後継者(カエサル)にしてしまえばいい。

 というのは当然あり得る(元々『副帝(カエサル)』とはそのための地位である)。

 それに考えてみろ。繰り返すが、コンスタンティウスは四十五歳だ。ユリアヌスと違って、女に不自由する青春を送ったわけでもない。むしろ、宦官は次から次へと女を進めてきた。にもかかわらず、これまで子供がいないとなれば、コンスタンティウス自身の生殖能力に問題があると考える他ない。最愛のエウセビア亡き後、彼女を裏切って、子作りに励んだところで、上手くいくはずもない。いや万が一、子ができたとして、その子が成人するまで、誰が帝国を支える? それこそ、ユリアヌスでもなければ、不可能だ。

 ならば、最初から、ユリアヌスに帝位を譲れば、話が早い。

 ――唯一、問題があれば、それはユリアヌスの猜疑(さいぎ)憎悪(ぞうお)だ。

 ユリアヌスを後継者にし、ユリアヌスに権力を譲った途端、ユリアヌスが猜疑と憎悪の(とりこ)となり、コンスタンティウスは殺されるかもしれない。

 ――「だが、ユリアヌスは理性と寛容を重んじると聞く。ならば、無益な殺生は好むまい。親族殺しの件とて、証拠があるわけでもない。それにユリアヌスも既に(よわい)三十だ。ガリアで為政者としての経験も積んだ。ならば、このコンスタンティウスの立場もわかるだろう」

「先帝陛下、それは間違いですよ!」

 ユリアヌスは思わず叫んでいた。

「このフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの理性と寛容など、所詮は張りぼてに過ぎません。確たる証拠もない親族殺しの噂を真に受け、猜疑と憎悪の虜となりました。三十年の人生からも、ガリアでの経験からも、まるで学ぶ事がありませんでした! 先帝陛下の立場を、何一つわかろうとしませんでした!」

 叫び終えてから、気付く。今の独白を誰かに聞かれたら恥ずかしいどころではない。無職で引きこもりだった頃の癖がまだ治らない。そんな醜聞だけで済めば良いが……。

「…………」

 しかし、玉座の周囲に人影はなかった。人払いをしたわけでもない。元々ユリアヌスは質素倹約を地で行く。だから、不要不急の官僚は解雇しているのだ。ガリアの田舎ならともかく、コンスタンティーノポリスの宮殿でこれをやると、自然と周囲は閑散となる。

「……もう一つ、問題をあげれば、僕と先帝陛下の政策志向が真逆という事か」

 ユリアヌスは自嘲し苦笑しながらも、皇帝としての勅令を再び書き続ける。

 やっている事はガリアと同じだ。

 不要不急の官僚だけでなく、奢侈遊惰な贅沢も遠ざける。キリスト教徒などへの優遇を改め、税制を簡素にし、庶民への負担を和らげる。質実剛健だった時代への原点回帰だ。そのために元老院を強化し、多神教徒による自治ネットワークを構築する、これによって、キリスト教徒官僚が抜けた穴を補う。

 だが、しかし……

「ガリア程の成果は上がらないかもしれないな……」

 と、ユリアヌスは知らず知らずの内に自嘲していた。

 東方(オリエント)ではキリスト教の力が西方(オクシデント)よりも遥かに強いというだけではない。

 ユリアヌスとて、己の欠点をわかっている。つまり、自ら現場に出ないと気が済まないのだ。コンスタンティウス達のように後方で踏ん反り返って命令する事ができない。前線の将軍なら、現場に出るのもいいだろう。だからこそ愛されもする。だが、皇帝としてはどうか?

 上司が『自分がやった方が早いし、上手くいくから』と部下に仕事を任せなければ、部下が育つはずもない。とりわけ、組織の規模が大きくなれば、その上司がどれだけ有能であっても、部下なしでは手が回らなくなる。

 いや、それでも、基本田舎だったガリアでは上手く行ったのだ。規模も小さかった。地方の中小企業社長なら、自らスパナを振るう姿も尊敬される。実際有能ならば、なおの事。けれど、東方(オリエント)皇帝――大都会の大企業の社長がそれではまずい。繰り返すが、自覚がないわけでもない。

 次のように指摘もされている。

『ユリアヌスは落ち着きがない子供だ。一個人としても政治家としても、コンスタンティウス達にあった腰の重さがない。だから、性急に結果を求める。あるいは些細な批判を気にする。政治など、誰がどうやっても、結果が出るまでは時間がかかり、誹謗中傷の餌食になるものだ。幼い頃から、帝王教育を受けていたコンスタンティウス達はそれを十分に理解していた。が、ユリアヌスはその教育を受けていないから……』

 正鵠を得ている。実際、この手の分析はユリアヌスに批判的な者達からは少ない。むしろ、サルスティウス達の様にユリアヌスへ必死に協力してくれる者達からの諫言にこそ多い。

 ――当然だ。これらはすべて僕の長所の裏返しなのだから。

 しかし、人間簡単には変われない。成功体験があれば尚の事。そして、経験を重ねる時間も……。

 いやそれでも、後世の目で見れば――。

 ユリアヌスはまだ幸せだったのかもしれない。ユリアヌスの質実を重んじる政策は都会的な東方人には大不評だった(ガリアのような田舎ではやはり好評だった)が、その結果、ローマ帝国は専制に移行して初めて税金を安くする事が出来た。皇帝自らが質素倹約に努めるというどうしようもない力技で成果を上げられたのだ。商品経済が発達した後世ではまずあり得ない話だったろう。

 とはいえ、この時のユリアヌスにそれを知る由もない。黙々と政務に励むのみである。

 しばらくして、

「髪が伸びたな」

 ぽつりとユリアヌスは呟いた。

 今まで忙しさにかまけて切らずに束ねていたが、やはり、仕事の邪魔になる。文化的にも、ガリアや西方では許された。しかし、ローマや東方では男子の長髪は好まれないだろう。

 ユリアヌスは呼び鈴を鳴らす。そして、駆け付けた奴隷に

「髪を切るから、理髪師を呼んでくれ。確か、皇帝専用の理髪師がいたはずだから」

 と、端的に告げた、

 すると、ぞろぞろと行列を成して男たちが入ってきた。

 一瞬、『反乱?』『暗殺?』という単語が脳裏に浮かんだが、どうも様子が違う。

 ローマ皇帝暗殺と言えば、親衛隊というのがお約束だ。が、入ってきた連中の風貌はむしろ貴族のそれだった。それも悪い意味での貴族だ。全員が太っており、一見して、兵士としては役に立たないと断定できる。既にユリアヌスは歴戦の勇者だ。この手の眼力には自信がある。同時に、そんなユリアヌスの命を狙う者が、こんな連中に反乱や暗殺を任せようとは思うまい。

 いや、もっと言えば、

 ――(みにく)い。

 というのがユリアヌスの正直な感想だった

 分厚い脂肪が金銀で飾り立てた豪奢な衣服をまとっている。

 ――少なくとも、ガリアやゲルマンにこんな奴らはいなかったな。

「ええと、僕は理髪師を呼んだんだよ。徴税官を呼んだわけではないんだけど……」

 ちなみにこの時代の徴税官は金持ちの代名詞だった。

「ですから、我らが理髪師です」

「ざっと三十人はいそうなんだけど?」

「はい。ちょうど三十人でございます」

「全員が理髪師?」

「はい。正確には私の助手を務める者たちです」

「ええと、僕は僕一人の髪を切ってもらいたいだけなんだよ。それもちょっと伸び過ぎたから切ってもらいたいだけだよ。別に髪型にこだわりがあるわけでもない。……なのに、三十人も必要なの?」

「左様でございます」

 ユリアヌスは呆れた。

 髪型にこだわる者がいてもいい。その者が自分の稼ぎをつぎ込んで理髪師を何人雇おうとも自由だ。しかし、公金で雇われる身となれば、話は別だ。また、官僚機構から、無駄を完全に省けるとも思わない。だから、『皇帝専用の理髪師』と聞いた時点で猛烈に眉を顰めつつも、安全対策の側面もあると考え、納得してきた。

 ――しかし、三十人は()らないだろう! まして、理髪師が金銀で己を飾る理由は何だ?!

 これが全部血税で養われているのだ。いや、それが君主の楽しみになっていれば、まだしも救いがある。だが、ユリアヌスに(おそらく、先帝コンスタンティウスにも)髪型にこだわる趣味はない。

 ……要するに、自己保存の原則に従って、官僚機構が肥大化した結果でしかない。

 今この瞬間にも、辺境防備の最前線では飢えや寒さに耐えながら、戦っている兵士がいる。彼らのために、どうにか経費を捻出せねばならない。ユリアヌスはそう常々語ってきたのに!

 ところが、その理髪師は理髪師で、ユリアヌスのみすぼらしい姿に驚いたらしい。

「ユリアヌス陛下は《背教者》と呼ばれる割に、まるでキリスト教修道士のようですなあ」

「……演説でも布告でも、僕は繰り返し述べているんだけど」ユリアヌスは軽く嘆いた。実際、断片的にとはいえ、現代日本にまで伝わる程、ユリアヌスは同じことを繰り返し述べている。「とはいえ、伝わっていないのなら、もう一度言おう」

 ユリアヌスはキリスト教徒に『保護』されて育ったのだから、キリスト教徒に似るのは当然である。とはいえ、信仰を宣言したわけでもない自分をキリスト教徒などと言っては、本物のキリスト教徒に失礼である。また、清貧の美徳はキリスト教の専売特許ではない。むしろ、ストア派哲学者のような(ストイックな)生き方が清貧の由来である。ストア派哲学者でもある皇帝マルクス・アウレリウスの振る舞いを善きキリスト教徒のようだという者もいるが、これは順番が逆だ。善きキリスト教徒がその善性故に、ストア派哲学者の振る舞いに(なら)ったとみるべきだ。そして、自分もまた善き人間でありたい故、哲人皇帝マルクス・アウレリウスの振る舞いに倣っている。その点で、両者が似てくるのは自然な事ではある。

 そして――

「僕はキリスト教徒ではない。それでも、キリスト教徒の説く理想自体は素晴らしいと思う。だから、僕もそれを成し遂げたいと思う。ただし、それはキリスト教徒が語るような、死んだ後に訪れるという来世でない。今、ここで、人が生きている現世で成し遂げたい」

 ――信仰ではなく、理性で。神の力ではなく、人の手で。

 ――社会というイージスの盾で、技術というパルパーの鎌で。

 ユリアヌスはゆらりと立ち上がる。

「だから、僕は皇帝権力をそのために使う。……具体的には財政再建が急務であり、『必要な処置』は覚悟しているはずだよね?」

 言い知れぬ恐怖に駆られたのだろう。理髪師は怯えながら言った。

「し、失礼ながら、陛下は西方の野蛮人に毒されたのでは……? せ、先帝陛下ならば……」

「黙れっ!」

 クノドマルをはじめとする『野蛮人』は確かに敵だった。しかし、彼らもまた生きるために戦っていたに過ぎない。そして、あの老将は同胞のために身を投げ出した。それをこんな男にとやかく言われる筋合いはない。

 ましてや、先帝コンスタンティウス二世陛下については……!

 いずれにせよ、今のユリアヌスは気弱な学者志望の少年ではない。

 血風と汚泥の中を這いずり回ってきた男の狂気を内に宿している。


「陛下、こちらで切り捨てましょうか?」

 トゥルートの冷たい声が、熱くなった耳に届いた。


「……いや、いい。自分でやる」

 ユリアヌスは()いていた剣を手に取り、その刃で己の後ろ髪を切り捨てる。

「これで用件は済んだ」

 理髪師は雰囲気の急転に目を白黒させていたが、とりあえず一息をついた。

 だが、ユリアヌスが告げる。

「なお、理髪師諸君の給料は来月から三十分の一にする。単純計算で残り二十九人は解雇(クビ)だ。今から、再就職先を探しておくように」

「なっ」

「以上だ。勅命である。下がれ」

 理髪師たちは一瞬反発を顔に出したものの、目の前の皇帝が今や戦場育ちも同然という事を思い出したらしい。逃げるかのようにその場を立ち去った。

 結果、ユリアヌスはトゥルートと二人きりになる。

「まさか、君に止められる日が来るとはね」

 苦悩と疲労で自制が危なくなっている。ユリアヌスも認めざるをえず、頭を抱えた。

 トゥルートは黙って傍に付き添ってくれる。

 だが、数分の後、気付いた。

「あれ? 君の交代の時間まではまだ余裕があるのにどうして?」

「いや、酔っ払った阿婆擦れ(あばずれ)女から逃げて来て……」

「はあ?」

 ユリアヌスは首を傾げた。

「いいから、気にするな!」

 トゥルートは何故か顔を真っ赤にして怒鳴る。

「わかったよ」ユリアヌスにはこういう顔のトゥルートへ逆らえた(ためし)がない。「それで、あの理髪師達はどうする?」

「どうするって?」

解雇(クビ)にされて僕を恨んでいるだろう。ここは後顧の憂いを断つために、馘首(クビ)にすべき――という進言をいつもしてくれる忠臣が今日は静かだと思わない?」

「……ユリアヌス、お前……」

「彼女は忠臣だよ。それは間違いない。悪いのは忠臣を使いこなせなかった僕だ。……勿論、彼女が僕に愛想を尽かして、立ち去ったなら、仕方がない。今だって、どう進言されようとも受け容れる気はないんだし。……でも、いないと僕は困るんだよ」


「ユリアヌス様のいじわる」

 シャハラザードはそう言って、柱の陰から姿を現した。


 そして、ユリアヌスは声音を変える。

「僕は先帝陛下の意思を継ぐ」

 ユリアヌスはいつもの三人の中で明言する。

「今、ローマ帝国は北部メソポタミアを完全に喪失している。これは僕の責任だ。アミダ陥落直後なら、領土回復もそう難しくはなかったはずだからね」

 元々、そのためこそ、先帝コンスタンティウスがユリアヌスから兵士を取り上げようとしたのだ。

「だから、僕はペルシャ帝国首都クテシフォンを落とす」

 ペルシャ帝国首都クテシフォン――それは現在のイラク首都バグダードの南東、チグリス川東岸を指す。

 クテシフォンの維持は難しいだろう。が、一時でも占領できれば、東方国境防衛線を再構築する事は出来る。

「実際、先帝陛下の軍事計画の中には、これと全く同じ構想があった。当然だね。今までにも何度か繰り返されてきた手法なんだから。……繰り返すが、実行されなかったのは僕の責任だ。僕が西方で独立したから、先帝陛下は北部メソポタミアの喪失を放置せざるをえなかった」

「…………」

「…………」

「だから、僕は先帝陛下の意思を継ぐ。僕がペルシャ帝国首都クテシフォンを落とす」

 ユリアヌスは同じ言葉を繰り返した。

「それが僕の、単独皇帝としての最初の義務だ」


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