第十六話(A.D.361)内戦回避
ユリアヌス軍は東方へと駆けた。
コンスタンティウス二世との決裂は最早決定的だった。
一応、当初はそれでも和解の糸口を探った。ユリアヌスはコンスタンティウスに対等な正帝としての承認を求めた。ローマ帝国を東西で分割統治しようと持ちかけたのだ。前例もある。広大な領土統治の手法として、合理的でもある。ユリアヌスは責任をもって、西側を治める。ゲルマンを侵入させない。そうすれば、東側もペルシャ対策に専念できるはずだ。主力兵士の引き渡しには応じられないが、それ以外の便宜は図る。それなら、ガリアの大衆も納得する。
対するコンスタンティウスの反応はなし――つまり、無視された。
と、同時にコンスタンティウスは東のペルシャと和平を結んだ。ペルシャもローマの内戦を期待して、これを了承したらしい。そして、背後を固めたコンスタンティウスは対ユリアヌス戦の準備を始めているという。
予想はしていたが、しかし、予想以上に迅速である。
ユリアヌスは自ら馬を走らせながら思う。
――王者だな。
つまり、戦略家である。どちらかと言えば、戦術家であるユリアヌスとは正反対だ。
――勝てるのか? 僕は?
ユリアヌスとコンスタンティウスが、各々一万を率いて会戦すれば、ユリアヌスは勝てる。その自信はある。極端な話、ユリアヌスが一万でコンスタンティウスが三万でも、何とかしてみせる。だが、コンスタンティウスが五万、十万と送り込んでくればどうなる?
そして、コンスタンティウスはそれをやれる。彼の政治力と東側の国力なら、十分に可能だ。繰り返すが、彼は暗愚ではない。いや『己の弱さを知る』という一点において、ユリアヌスを上回る(悪名高い猜疑心とて、君主に欠かせない警戒心と言えなくもないのだ。ユリアヌスも既に何も知らない十代の少年ではない。経験を重ねた為政者だ。それも理解できる)。だから、コンスタンティウスは用兵や戦術で競おうとは絶対にしない。大軍投入を躊躇わないだろう。
そのための戦力を十分に蓄える――蓄え終わるまでは、戦端を開く気はないらしい。
ならば、ユリアヌスはその前に勝負を決めなければならない。
一度決断すると、ユリアヌスとその旗下の動きは早い。
今のユリアヌス軍は将兵共に練達強靭だ。当然、その行軍は神速の域になる。
兵士達は山も森も河もものともせず、ただひたすらに東進する。同時に士官達は彼らの合流地点を適切に選択し、予め必要物資を終結させてもおく。後世日本でいう秀吉の中国大返しを想像してもらいたい。
また、ユリアヌス軍の強さも既に万人が知るところだ。前述の通り、野蛮人が戦わずして、平伏す程だ。コンスタンティウス派の将兵もこれに挑みたくはない。そもそも、これは権力者二人――それも従兄弟同士――の争いである。直属でもなければ、参戦する理由が乏しい。
そのため、コンスタンティウス派の動きは消極的だ。
ユリアヌスもユリアヌスでこういった者たちを攻めたくない。軍事的にも無用の事である。手を出すなと厳命し、東進を優先させた(おそらく、誰もがホッとしているはずだ)。
そんなわけで、ユリアヌス達は目立った抵抗もなく、東進を続けていた。
まさに無人の野を行くが如しである。
勿論、抵抗しようとする者もいた。例えば、ルリキアヌスという将軍がそれだ。
ところが、結局ルリキアヌスは抵抗できなかった。
ルリキアヌスはユリアヌス東進の報せを聞くなり、すぐ配下に集結を命じた。将軍としては当然の判断である。ところがルリキアヌスの配下が集結するよりも先に、ユリアヌスの軍団が襲来したのだ。将軍ルリキアヌスは錬度の差に慄いたが、事態はそれだけではない。市民が歓声を上げて、ユリアヌスの軍団を駐屯地に招き入れたのである。
要するに、ガリアでの成果がここでも功を奏したのだ。ユリアヌスの『善政』を期待して、若き英雄を喜んで迎える市民は少なくない。そして、ルリキアヌスはその犠牲者だったというわけである。
これで戦えと言う方が無理だ。
ルリキアヌスは戦う前に縄で縛られ、ユリアヌスの前に投げ出された。
「…………」
「…………」
二人の間にしばらくの沈黙が流れる。だが、先に動いたのはユリアヌスだ。
「……あー、ま、楽にして下さいな」
ユリアヌスが微苦笑と共にその縄を解くと、ルリキアヌスも露骨に安堵の溜め息をついた。
ルリキアヌスは己の義務に従っただけだ。ユリアヌスもこれを敬いこそすれ、恨む気はない。それでなくとも、ユリアヌスの寛容は有名だ。ここでルリキアヌスに危害を加える事はない。――それがわかっていても、やはり不安だったのだろう。
敗軍の将ルリキアヌスは脅えたまま、精一杯の虚勢を見せる。
「み、自ら先頭に立つなど、お、王者の振る舞いではありませんな」
正論だな――ともユリアヌスは思った。が、口に出したのは別の言葉だ。
「その台詞は汝の主君コンスタンティウスにとっておけばいい」
***
その夜、シャハラザードが率直に尋ねてきた。
「何故、斬らなかったのです?」
ユリアヌスは珍しく酒杯――といっても中身は薬酒――を傾けながら答える。
「必要がないからさ」
「賢君と敬うからこそ、苦言を呈します」
シャハラザードが『斬るべし』というのはあのルリキアヌスの首級ではない。ユリアヌスの中の迷いだと言う。
「これは必然の結果です。そもそも、コンスタンティウスがユリアヌス陛下をガリアの皇帝にした理由をお考え下さい」
「…………」
ユリアヌスが黙り込んだので、思わずトゥルートが口を挟む。
「そりゃ、あれだろ。対ゲルマン戦争遂行のため……」
「表向きは、そういうことになっているわね」
「表向きって……」
宦官勢力との暗闘を指しているのかと思ったが、そうでもないらしい。
「ユリアヌス陛下の実兄ガルス様をガリア皇帝にしなかったのは何故?」
「え?」
「六年前のユリアヌス陛下よりは、余程戦争向きだったはずよ」
「それは……」
トゥルートはガルスについてよく知らない。だが、断片的な伝聞を総括すると……ガルスは、トゥルートに似た……ユリアヌスと真逆の武人肌だったらしい。
そして、武人肌のガルスは任地先で暴政を振るい、結局、処刑された。
――……たしかにおかしい。
「あべこべなのよ。ガルス様は武人肌なのに内地で政治をやらされた。ユリアヌス陛下は文人肌なのに外地で戦争をやらされた。勿論、武人肌が戦争向きとは限らない。文人肌が政治向きとも限らない。でも、常識的に考えれば、逆にすると思わない?」
トゥルートには返す言葉がない。
「コンスタンティウスは決して暗愚でありません。むしろ聡明です。そうでなければ、政争を勝ち抜くことなどできません。世が世なら、彼は賢帝となれたでしょう」
ユリアヌスですら黙り込んだままだ。
「それ程、賢きコンスタンティウスが人間の向き不向きを知らぬわけがありません。そして、不向きな事をやらせれば、どうなるかも……実際、ガルス様は自滅されました」
そこで、トゥルートも気付く。
「最初から、失敗を口実に処刑するつもりだった……?」
「それは違う! 一個の人間にそこまで先を見通せるはずがない!」
ユリアヌスは叫ぶ。そして、弱弱しく続ける。
「……現に、僕はガリアで成功したじゃないか……」
「はい。コンスタンティウスにとって『想定外』の大成功だったでしょうね」
つまり、ほどほどの成功がよかったのだという。大成功を収めた時点でユリアヌスの命は危うかった。シャハラザードはそう主張した。
「だけど……」
そのユリアヌスの言葉を遮って、シャハラザードは物語る。
「東方でもユリアヌス様の評判は聞きました。キリスト教神学でも随分と高い成績をお残しになったそうですね」
ユリアヌスがガリアに派遣された理由は言うまでもなく複合的なものだ。
しかし、その一つに『キリスト教聖職者の手に負えなくなった』というのもある。後世日本では政争に負けた一族の子は寺院で仏教を習わされる。同じようにユリアヌスも教会で神学を習わされた。ところが、元々オタク気質だったユリアヌスにとって、これは水を得た魚だった。新旧聖書の悉くを通読し始めると『僕もっともっと勉強したい!』となったのだ。最初こそ、聖職者も神学書を次々読破するユリアヌスに喜んでいた。ところが、徐々に読ませる本がなくなっていった。結果、ユリアヌスは古代の哲学書や多神教の宗教書も読み始めるようになる。勿論ユリアヌスもそれですぐにキリスト教を軽んじはしない。ただし、根がオタク気質である。頭の中ではそれらの内容を比較検討せざるをえない。
その結果、後のアイザック・アシモフのように
『Properly read, the Bible is the most potent force for atheism ever conceived』
『きちんと読めば、聖書は無神論のための想像しうる最も強い根拠となる』
という境地に近づいてしまったのだ。
(余談だが、このアシモフのようなユリアヌスの苦闘は、後にエドワード・ギボンによって、名作『ローマ帝国衰亡史』にまとめられ、アシモフは傑作『ファウンデーション』を執筆する。筆者はここに歴史における【円環の理】を髣髴とせざるを得ない)
キリスト教聖職者達も恐ろしくなったらしい。
――「今はまだいい。所詮は子供である。ユリアヌスはあらゆる意味で未熟なオタク少年に過ぎない。しかし、いずれは成熟する。年齢を重ね、経験を積み、バランス感覚を具えた時、この少年を教会の理で縛れるのか? 逆に、ユリアヌスは聡明なる改革者として、キリスト教を内側から侵食していくのでは?」
と、聖職者は正帝コンスタンティウスへ婉曲にではあるが、泣きついたのだ。ユリアヌスが背教者と誹謗されながらも、清教徒と賞賛されもするのはこの辺りの事情にもよる。
「結局、ユリアヌス様は一代の傑物。凡夫の下風に立たれる器ではありません。ユリアヌス様自身が望んでコンスタンティウスの器に納まろうとしたところで、その器を壊してしま……」
「もういい、黙れ! 貴様の佞言は不愉快なんだよ!」
ユリアヌスは酒杯を机に叩きつける。
「今更、僕の行いを正当化しても無駄だ! どの道、もう殺すか殺されるかしかないんだ!」
「……具体的には?」
「当初の計画通りだよ。コンスタンティウスが兵力を集め終わる前にカタをつける。向こうの戦力が整いきれば、こちらが負ける。だが、その前ならこちらが勝つ。王者ではなく、勇者として戦えばいい……!」
ユリアヌスはそう言って酒杯を飲み干す。荒々しく男らしい所作だ。益荒男ぶりといってもいい。
かつてのトゥルートなら、こんな男を好んだだろう。いや、ユリアヌスにこういった所作を望んだ頃もあった。しかし、実際にこんなユリアヌスを目にすると、痛々しいとしか思えない。
逆にシャハラザードは満足げに、ユリアヌスの杯に酒を注ぐ。その頬を赤く染め、その股を明らかにもじもじとさせている。両手が空いていれば、弄っていたに違いない。……これ程、殺したくなった女は初めてだった。
だが、その時だ。伝令兵が駆け込んでくる。
「コンスタンティウス様の遺書が公開されました!」
***
「遺書……だと?」
ユリアヌスは酒杯を落とした。
遺書と言う事はコンスタンティウスが死んだと言う事になる。
たしかにコンスタンティウスは病気がちらしい。だが、コンスタンティウスは高齢だ。病の一つや二つ、むしろ自然だと思っていた。
――いや、高齢なのだから、いつ死んでもおかしくないのか?
よく考えれば、ユリアヌスがほぼ無血で東進を続けられた事自体がおかしい。今までこれはコンスタンティウスの大戦略の結果と考えてきた。繰り返すが、戦術や用兵ではユリアヌスが上回っている。だから、細々とした局地戦はあえて避けているだけだと。が、単にコンスタンティウスが病で臥せっており、まともな指示を出せなかったと考える事もできる。
シャハラザードも顔面蒼白だった。全ての前提が崩れたと言わんばかりだ。
「ど、どういう事なの?」
「はい。先帝コンスタンティウス様は病の末に、自らの死期を御悟りになられ、この遺書を認められました。――皇帝として、最後の義務を果たすために」
「最後の……義務?」
「後継者の任命です。……先帝陛下は予定通り帝位をユリアヌス様へお譲りする――と」
こうして、ローマの内戦は回避された。




