1話:定時前退勤
俺の仕事は昼に終わる。
それでも、給料は規定通り満額出る。定時までの残り時間は、まるごと休憩だ。
朝の支度は五分もかからない。共用の井戸で顔を洗い、昨日買っておいた適当なパンを井戸水で流し込む。支給された服を着たら出勤だ。
俺の職場はこの街の役場。下宿から坂を下って十五分のところにある。
途中のパン屋の匂いでようやく目が覚めてくる。にぎわう街を眺めながら歩くのは、なかなか楽しい。それが異世界の街とくればなおさらだ。
前世の通勤は電車で四十分だった。朝のラッシュに巻き込まれて疲弊することもあれば、深夜に寝落ちして知らない街まで運ばれたこともある。
意外と楽なのだ。自分の足で歩くということは。
役場での俺の肩書きは臨時書記。やることは帳簿付けと書類の清書だ。
仕事の量は多い。真面目にやれば日暮れまでかかる。先輩の書記たちは、実際に日暮れまで仕事をしている。
まず言わせてほしい。この世界の事務仕事は地獄だ。
表計算がない。コピペもない。プリンターもない。そもそもパソコンも印刷技術も発明されてないから当然である。
あるのは羽根ペンとインク壺と、ざらざらした分厚い紙だけ。足し算には、玉の並んだ計算盤という板を使う。要は算盤だ。
書き損じたらどうなると思う?
そう、一枚まるごと書き直しだ。修正テープなんて文明の利器は存在しない。まあ、存在してても改竄ってことで使えないだろうけど。
ナイフで削って誤魔化す奴もいるにはいる。ただし監査で見つかると、普通に怒られる。前にいた先輩はそれで減給喰らってた。
しかもインクが乾くまで次の紙を重ねられない。乾く前に重ねると次の紙にインクが移って、二枚ともパーになる。
だから書記室では書き終えた紙が机いっぱいに並べられている。で、ある程度乾いたら紐に吊るされて最後の乾燥をするわけだ。洗濯物を干してるみたいで、見た目だけはちょっと可愛い。
前世の俺は総務課の人間だった。
月末になるたびExcelと睨めっこだ。関数が合わないだの、誰かが勝手にセルを結合しただの、それなりに文句も言っていた。
今ならわかる。あれは天国だった。セル結合の常習犯だった佐藤も含めて、全員天使だった。いや、やっぱり佐藤だけは許せないから悪魔認定しておこう。
……まあ、前世の話はいずれ。長くなるし、あんまり格好のいい話でもないんでね。
そんな地獄でも俺の仕事が昼に終わる理由は単純。俺にはちょうどいいギフトがあるからだ。
視界の端には、いつも半透明の入力欄がぼんやりと浮かんでいる。心の中で質問を打ち込むと、そこに文字で答えが返ってくるってわけ。
前世で毎日使っていた、あれだ。AIみたいなもん。
俺はこいつを「サポートさん」と呼んでいる。社内のヘルプデスクみたいな口調で喋るから、自然とそうなった。
こいつがいれば、計算も検算も一瞬で終わる。
ただし。昼に終わったことは誰にも言わない。
早く仕事を終わらせる奴には次の仕事が回ってくる。しかも、より面倒なやつが。前世で嫌というほど学んだことだ。
だから提出は定時の鐘が鳴ってから。これも鉄則である。
◇ ◇ ◇
月末の午前中、書記室は静かだ。
聞こえるのはペンが紙を擦る音と、計算盤の玉を弾く音。あとは誰かのため息くらいか。
俺の担当は今月分の市場税の集計。露店ごとの納税額を帳簿から拾って、区画ごとに合計を出す仕事だ。
普通にやれば丸一日。計算盤が苦手な奴なら丸二日はかかる。
俺は帳簿を開き、上から順に数字を目で追っていく。
《以下の数字を区画ごとに合計してください。東区画、三十二、十八、四十五……》
心の中で読み上げるだけでいい。口は動かさない。これ大事。
ちなみに、読み上げている間の俺は、眉間に皺を寄せて帳簿を睨んでいるように見える。つまり、真面目に働いているように見える。我ながら完璧な擬態である。
《東区画の合計は、銀貨三百十二枚と銅貨四十枚です。続いて西区画の計算を行いますか?》
《はい。あと検算もお願いします》
《承知しました。検算の結果、東区画の合計に誤りはありませんでした。ほかにお手伝いできることはございますか?》
いや、丁寧か。
毎回これなんだよな。《ほかにお手伝いできることはございますか》って。
特にございません。昼寝がしたいだけです。
そんなやりとりを繰り返すこと三十分。今月の市場税の集計は全部終わってしまった。
残るは清書だけ。これもサポートさんに書式を整えてもらえば、あとは写すだけで済む。インクが乾くのを待つ時間を含めても一時間ってところか。
さて、ここからが本当の仕事である。
俺は机の上の書類を慎重に積み直した。
ポイントは山の高さと角度だ。高すぎると崩れて大変なことになる。低すぎると仕事をしてないことがバレる。
書記室の入口から見たとき、俺の頭がちょうど半分隠れる高さ。これがベスト。
この積み方にたどり着くまで、実は三ヶ月かかっている。サポートさんに相談したら「業務効率化のご相談でしたら喜んで」と言われたので、頼らせてもらった。嘘はついていないぞ……たぶん。
昼寝の前に、念のため確認しておく。
《今日の事務長の見回りは何時ごろになりそう?》
《過去の傾向から、本日は午後になる可能性が高いと考えられます》
過去の見回りデータから予想までしてくれる。できたサポートさんである。
そして、見回りデータをせっせとサポートさんに食わせてた過去の俺、グッジョブ。
書類の山の陰で、俺は頬杖をついて目を閉じた。昼休みまであと二時間。勝ち確だ。
◇ ◇ ◇
……どれくらい経っただろう。
廊下の方から床板を踏み鳴らす重い足音が聞こえてきた。まずい。この役場でこんな足音を立てる人は一人しかいない。
見回りは午後のはずだろ。なんで午前中に来るんだよ。
「おう、やってるか!」
書記室の扉が勢いよく開いた。先輩たちが一斉に背筋を伸ばす。俺も伸ばす。寝起きの首がぐきっと鳴った。
「テオ! 市場税はどうなってる?」
「いっ、今ちょうど……検算中です」
「そうか! 月末の締めが近いからな、早めに頼むぞ!」
声をかけただけで用件は済んだらしい。足音は隣の部屋へと遠ざかっていった。
心臓に悪い。あと、涎が垂れていないか心配である。
幸い、書類の山は崩れていなかった。三ヶ月の研究は無駄じゃなかったわけだ。
《……サポートさん? 事務長が午前中に見回りに来たんだけど》
《申し訳ございません。本日は例外的なケースだったようです。ほかにお手伝いできることはございますか?》
いや、丁寧か。本日二回目。
とりあえず昼までに清書を終わらせよう。午後はもう来ない……と思いたい。
◇ ◇ ◇
空が茜色に染まる頃、街の中央にある教会の鐘が鳴る。つまりは定時だ。
「事務長。市場税の集計、終わりました」
「おお! 早いな、テオ!」
「いえ、ギリギリでしたよ。今日は一日、数字しか見てません」
「そうかそうか。どれ……」
事務長は受け取った帳簿を上から下まで眺める。眺めるだけだ。
「ほう。合ってるな!」
「はい」
「……合ってるよな?」
「検算もしてあります」
「なら良し! ご苦労だった!」
この声のでかいおっさんが、グラント事務長。役場を束ねる俺の上司である。五十を過ぎても声はよく通るし、腹も立派だ。そして数字にはびっくりするほど弱い。
事務方のトップとしてそれはどうなんだと、正直思わなくもない。だが俺にとってはこれ以上ない上司なんだよな。
中身を細かく見ないから、仕事の速さがバレない。おまけに俺が作った書類は事務長の名前で上に出される。つまり手柄は全部あっちのもの。普通なら腹が立つところだろう。
でも俺にしてみれば、目立つ役を代わりに引き受けてくれるありがたい人なのだ。おかげで俺はいつまでも、真面目だけど普通の臨時書記でいられる。
「テオ、お前も正書記の試験を受けたらどうだ? 真面目にやってるじゃないか」
「いやあ、俺の頭じゃ無理ですって」
「そんなことはないと思うがなあ」
「無理です。本当に。今日も一日中、頭から湯気が出てましたから」
「ガッハッハ! そうか、湯気か!」
頭から出ていたのはたぶん寝汗の湯気だ。
役場を出ると、街はもう夕飯の匂いがしていた。仕事は午前中に終わり、午後は丸々休憩。それで給料はきっちり満額出る。これを悠々自適と言わずして、なんと言うのか。
さて、いつもの酒場で一杯やって帰りますか。
店は大通りから市場へ抜ける途中の路地にある。役場から歩いて数分。味は普通だが、立地は最高だ。
肴が塩っ辛いジャーキーで、酒が温いエールだったとしても、酒は酒。一気に飲み干せば、一日の疲れなんて吹き飛ぶ。
……そんなに疲れてないけど。
下宿への帰り道、パン屋に寄る。親父さんが余ったパンを格安で譲ってくれる。これが明日の朝飯ってわけ。
最後は坂を上る。これが今日一番の力仕事だ。ほろ酔いのいい気分で歩くから全く苦にならない。
これからもずっとこの生活が続きますように。
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