第二話 まだ、起きない
第二話 まだ、起きない
夜。
病室の簡易椅子に座ったまま、お母さんの呼吸の音を聞いていた。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴る心電図の音。
白いカーテン。
白い壁。
白いベッド。
その中で、お母さんの顔だけが、いつもよりずっと小さく見えた。
眠っているだけ。
看護師さんはそう言った。
今は落ち着いています、とも言った。
なのに、私は何度もお母さんの胸が上下しているか確認してしまう。
確認して、少し安心して。
でもまた不安になって、確認する。
その繰り返しだった。
ベッド脇の花瓶には、あの白い花が飾られている。
小さくて、清潔で、どこか祈りみたいな花。
なんて名前なんだろう。
ジャスミンに似ている。
でも、少し違う。
もっと深くて、湿った夜に溶けるような甘さ。
その匂いが、病室の冷えた空気に薄く混ざっていた。
あの男が持ってきたものだろうか。
黒い服。
濡れた鴉のような、黒い髪。
異質なほどの黒いコート。
六月の終わりに、コートを着ている男。
そして、あの目。
一瞬だけ白金色に光ったように見えた、あの目。
『……君が、結月か』
耳の奥に、低い声が残っている。
どうして私の名前を知っていたんだろう。
どうしてお母さんの病室にいたんだろう。
どうして、あんなに当然みたいな顔で、お母さんのそばに立っていたんだろう。
考えれば考えるほど、わからない。
わからないことが多すぎると、人間は逆に冷静になるらしい。
私はお母さんの手を握った。
いつもより少し冷たい。
小さい頃、いつも私の頬を包んでくれた、手。
「お母さん」
呼んでも、返事はない。
「起きたら、ちゃんと説明してよ」
自分でもわかっている。
お母さんが知っているとは限らない。
むしろ、お母さんのことだから、あんなに怪しい男のことも「いい人そうだったねぇ」くらいで済ませそうな気がする。
それが一番怖い。
お母さんは、とにかく人を疑うのが下手すぎる。
世界が百回くらい悪意を見せても、百一回目には「でも、寂しかったのかもしれないねぇ」とか言う人だ。
そんな人だから看護師になったのだろうし。
そんな人だから、私はこの人を守らなきゃいけないと思っている。
でも。
あの人は。
あの男は。
たぶん私が知っているどんな悪意とも違う。
悪意、なのかどうかもわからない。
怖い。
でも、ただ怖いだけではなかった。
人や動物に抱く恐れというよりは、暗い夜道や鬱蒼とした森に抱くような。
真夜中の海のような、畏れ。
あの人が病室を出ていったあと、別にお母さんは無事だった。
それどころか、看護師さんは「今は落ち着いています」と、何度も言ってくれた。
まるで、私の不安を少しずつ削るみたいに。
白い花の匂いがする。
私は花瓶を見た。
「……白い花をくれる人は、いい人?」
自分で言って、すぐに首を振る。
いや、違う。
そんな雑な判断基準があってたまるか。
でも、お母さんなら言いそうだった。
そんなことを考えながら、お母さんの手を握ったまま、ベッドの端に額を預けた。
冷たいシーツの匂い。
薬品の匂い。
白い花の、深い甘さ。
それらがゆっくり混ざって、いつの間にか私は眠っていた。
朝方になって、私は一度だけ家に戻った。
入院に必要な着替えや、充電器や、お母さんがいつも使っている薄いカーディガンを取りに行くためだった。
病院を出た瞬間、むわっとした湿気が体にまとわりつく。
冷房で冷えた肌に、六月の終わりの空気がべたっと貼りついた。
なんだっけ、この草の匂い。
外は、まだ朝なのにもう暑かった。
雨は降っていない。
でも空は灰色で、雲はずしりと重く、今にもまた降り出しそうだった。
団地の階段を上る足が、いつもより重い。
湿ったコンクリートの匂いが、朝になっても抜けていない。
踊り場の電灯は、相変わらず頼りなく点滅している。
ちか、ちか、と。
あの虫、いつからあそこにくっついてたっけ。
人が疲れている時に限って、こういう小さなものまで気になる。
鍵を回すと、いつものように少し引っかかった。
がちゃ、と音がして、鉄の扉が開く。
「ただいま」
返事はなかった。
当たり前だ。
お母さんは病院にいる。
当たり前なのに、その当たり前じゃなさに喉の奥が、くっと詰まった。
台所には、昨日の朝のままの空気が残っていた。
卵焼きを作ろうとしていたフライパン。
乾ききっていない布巾。
お母さんが飲んだ薬の空き殻。
卓上の籠に、まだ何錠か残っている薬。
いつもの狭い台所。
二人で立つと、どちらかが横にならないと通れない台所。
なのに、今日はやけに広く見えた。
広いんじゃない。
お母さんがいないだけだ。
私は洗濯かごの横に座り込んだ。
「……無理しないでって、言ったのに」
声に出したら、涙が出そうになった。
だから私は立ち上がって、必要なものを鞄に詰めた。
下着。
タオル。
カーディガン。
スマホの充電器。
お母さんが寝る時につける、少しだけいい匂いのするハンドクリーム。
あと、文庫本。
お母さんは本を読む元気がない時でも、枕元に本があると安心する人だから。
泣いている時間がもったいない。
泣いても、着替えは勝手に鞄に入ってくれないし、洗濯物は乾かないし、お母さんの体調も良くならない。
こういう時だけ、私は自分がすごく嫌になる。
でも、そうでもしないと立っていられない。
バイト先に電話をした。
店長は、最初こそ「ああ、大変だね」と言った。
でもそのあと、少し間を置いてから、
「で、今日は来られる?」
と言った。
私はスマホを握りしめた。
「すみません。今日は、病院に行かないといけなくて」
「そっかぁ。いや、事情はわかるんだけどね。急に休まれると、こっちも困るんだよね」
「すみません」
「明日は?」
「明日は……学校のあとなら、行けます」
「じゃあ明日はお願いね。こういうの、続くとシフト考えなきゃいけなくなるから」
「はい。すみません」
通話が切れたあと、私はしばらくスマホを見ていた。
すみません。
何回言っただろう。
私が悪いわけじゃないのに。
いや、でもお店からしたら、急に休む人は困るか。
それはわかる。
わかるけど。
わかることと、平気なことは、全然違う。
学校へ行くかどうかは、少し迷った。
病院にいたい。
お母さんのそばを離れたくない。
でも、お母さんが目を覚ましたら、きっと言う。
「結月、学校は?」
その声が簡単に想像できた。
もし私が自分のために学校を休んだなんて知ったら、また謝られてしまうだろう。
お母さんだって。
お母さんだって、何も悪くないのに。
だから私は、制服に着替えた。
湿気で少し重くなったブラウスに袖を通す。
鎖骨まである髪をとかしながら、鏡を見ると、目が赤かった。
最悪だ。
でもまあ、昨日からずっと最悪ではあるので、今さらだった。
学校に着くと、昨日のことなんてなかったみたいに朝の空気が流れていた。
いや、違う。
なかったことにしたい人たちの空気、だった。
私の席の机には、今日は何もなかった。
消しゴムのカスも、落ちたプリントも、テグスもない。
逆に不気味だった。
席に座ると、後ろの方で小さく笑う声がした。
「うわ、来たんだ」
「メンタル強」
「昨日あんなキレてたのにね」
聞こえるような、聞こえないような声。
私は教科書を出した。
特に意味もなく、ページを開いた。
文字が頭に入らない。
昨日の放送。
職員室。
救急搬送。
白い病室。
黒いコート。
全部が、教科書の文字の上に重なって見えた。
「白守さん」
担任の先生が、朝のホームルームのあとに声をかけてきた。
「お母さん、大丈夫?」
「はい。今は落ち着いてます」
「そう。無理しないでね」
「ありがとうございます」
先生は少し安心したように頷いた。
それだけだった。
先生が悪いわけじゃない。
たぶん、本当に心配してくれている。
でも先生は、昨日のお弁当のことを知らない。
知っていても、たぶん何も変わらない。
私が「落としてしまって」と言ったから。
自分でそう言ったから。
自分で選んだ沈黙に、自分で首を絞められている。
昼休み。
私は購買で一番安いパンを買った。
薄い生地のジャムパン。
百十円。
お弁当を作る気にはなれなかったし、朝は何かを食べる余裕もなかった。
袋を開けようとした時、高瀬さんが机の前に立った。
高瀬莉央。
昨日、私のお弁当をひっくり返した人。
「白守さん」
私は顔を上げた。
高瀬さんは、昨日より少しだけ表情を作っていた。
心配そうな顔。
でも目だけが笑っている。
「昨日さぁ、ごめんね?」
教室が静かになった気がした。
みんな聞いている。
「手、滑っちゃって。びっくりしたよね」
「……うん」
「でもさ」
高瀬さんは少し声を低くした。
「白守さんも、急に怒鳴るのはよくないと思う」
私はパンの袋を握った。
ぐしゃ、と小さく音が鳴る。
「みんな怖がってたよ?」
梶原さんが後ろで笑った。
「うん、めっちゃ気まず、みたいな」
田宮さんも小さく言う。
「白守さん、昨日ちょっと怖かった」
ああ。
なるほど、こうなるんだ。
私が怒ったことだけが残る。
お弁当を落とされたことも、お母さんを馬鹿にされたことも、全部なかったことになって。
私だけが、空気を乱した人になる。
「……ごめん」
口が勝手に動いた。
謝りたくなんかなかった。
非があるとも思っていなかった。
でも、謝らないと一日が終わらない気がした。
高瀬さんは満足そうに笑った。
「うん。いいよ」
いいよ、じゃない。
何がいいんだ。
何もよくない。
でも私はそれ以上、何も言わなかった。
パンの味は、ほとんどしなかった。
五時間目。
現代文の授業中、スマホが鳴る気がして何度も鞄を見た。
電源は切っていない。
本当は校則違反だ。
でも、病院から電話が来たらどうするの。
お母さんが目を覚ましたら。
お母さんの容体が変わったら。
私が授業中だから出られませんでした、なんて、そんなの。
そんなの絶対無理だ。
先生の声が遠くに聞こえる。
教科書のページをめくる音。
シャーペンの音。
誰かの小さな咳。
全部が遠い。
私は机の下で、親指をつつむように拳を握った。
病院へ向かう時と同じように。
小さい頃から親指を握りこむと、少しだけ落ち着く気がする。
雷が怖いときも、おばけが怖くてトイレに行けなくなった夜も。
それが、唯一の救いだった。
放課後になると、私は逃げるように学校を出た。
病院へ向かう道の途中で、雨が降り出した。
細い雨。
傘をさすほどではないけれど、無視すると制服がしっとり重くなる、嫌な雨。
六月の終わりの雨は、冷たくない。
ただ、まとわりつく。
病院に着く頃には、前髪がまた少し跳ねていた。
押さえてもきっと戻る。
エレベーターの鏡に映る、額にじっとりと汗をうかばせた自分は、昨日より少しだけ疲れて見えた。
いや、少しだけじゃないかもしれない。
でも疲れてる場合じゃない。
疲れてる場合じゃない、って思う時ほど疲れてる気がする。
ただ、しんどいっていうのかな。
病室のある階で降りる。
廊下は、昨日と同じように白かった。
白い壁。
白い床。
白い光。
外の雨も、学校の空気も、この廊下には入ってこない。
だから余計に、ここだけ世界から切り離されているみたいだった。
病室の扉を開ける。
「お母さん」
返事はなかった。
お母さんは、まだ眠っていた。
昨日と同じように。
呼吸器をつけて。
胸をゆっくり上下させて。
ピッ、ピッ、と、心電図の音だけが返事みたいに鳴っている。
「……まだ、起きないんだ」
言葉にすると、胸の奥が重くなった。
看護師さんに聞いたら、
「今は体を休めているところです」
と言われた。
それは、たぶん悪い意味ではない。
でも、いい意味かどうかもわからない。
わからない、わからない、ばっかりだ。
私は鞄を置いて、ベッド脇に座った。
そして、花瓶を見た。
白い花。
昨日より、少しだけ瑞々しい。
いや、違う。
花が変わっている。
昨日の花より、茎の切り口が新しい。
水も濁っていない。
花瓶の位置も、ほんの少しだけ変わっている。
「……また来たの?」
誰が。
わかってる。
あの黒いコートの男だ。
看護師さんを呼んで聞くべきか迷った。
でも、何て聞けばいいんだろう。
「昨日の不審者、今日も来ましたか?」
いや、無理。
そもそも病院が通しているなら、何かしら理由があるのかもしれない。
親族?
知人?
お母さんの昔の患者さん?
それとも。
私は、昨日の男の目を思い出した。
黒いはずの瞳が、ほんの一瞬だけ白金色に光ったように見えた。
暗闇の奥で、細く、冷たく、こちらの内側まで切り開くような光。
あれは、何だったんだろう。
見間違い?
疲れていたから?
泣きすぎたから?
そう思いたい。
でも、思えない。
私はお母さんの手を握った。
「今日ね」
声が小さくなる。
「学校、行ったよ」
お母さんは答えない。
「高瀬さんが、謝ってきた。手が滑ったんだって」
笑おうとした。
無理だった。
「それでね、私も謝った」
口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「私が、急に怒鳴って怖かったって。みんな怖がってたって」
お母さんの指は、動かない。
「お母さんならさ、なんて言うかなぁ…」
たぶん。
『結月、よく我慢したね』
って言ってくれる。
それから、
『でも、結月の心も大事にしてね』
って言う。
わかる。
わかるのに。
今、聞きたい。
今、言ってほしい。
「……頑張ったよね、私」
声が震えた。
「たぶん、頑張っ…たよ」
胃が、迫り上がって喉に詰まってくるようだった。
これ以上言葉を吐き出せば、また泣いてしまう気がした。
もちろん、返事はない。
白い花の匂いがする。
深くて、甘い。
雨の夜に、ひっそり開いたみたいな匂い。
あの男がまた来たのだとしたら。
この花を替えていったのだとしたら。
どうして。
どうして、お母さんのことを知っているんだろう。
どうして、私の名前を知っているの。
どうして、何も言わずに花をくれるんだろう。
まるで、助けるみたいなことをするの。
助ける?
今、私はそう思ったのだろうか。
違う。
べつに、助けられてなんかいない。
お母さんは目を覚ましていない。
学校は何も変わっていない。
私は今日も謝った。
バイト先には明日行かなきゃいけない。
家の給湯器は、きっと今日も機嫌が悪い。
踊り場の電灯も点滅したまま。
何も変わっていない。
なのに、白い花だけが新しくなっている。
それが、怖かった。
怖いのに、少しだけ、ほっとしてしまう自分もいた。
お母さんに向けられている善意。
自分以外の誰かが、お母さんを気にかけてくれているという事実。
それに、少しだけ安心してしまった。
最悪だ。
知らない男が母の病室に出入りしているかもしれないのに。
そんなことで少し安心するなんて。
「お母さん」
私はお母さんの手を、両手で包んだ。
「早く起きて」
それだけ言うつもりだった。
でも、言葉は勝手に続いた。
「起きて、怒ってよ」
「私がちゃんと食べてないとか、寝てないとか、学校で無理してるとか」
「そういうの、怒ってよ」
「いつもみたいに、結月は厳しいなあって笑ってよ」
喉の奥が熱くなる。
でも、不思議と涙は出なかった。
昨日、出すぎたのかもしれない。
人間の涙にも、在庫ってあるんだろうか。
あったら困る。
まだまだ使いそうなのに。
スマホが震えた。
病院からではない。
画面には、クラスのグループ通知が出ていた。
普段はほとんど見ない。
見ると疲れるから。
でも、目に入ってしまった。
『白守さん、今日元気なかったね』
『昨日のこと反省してるんじゃね?』
『てか高瀬やさしすぎ』
『莉央ちゃん謝ってあげたのえら爆笑』
『あれはね笑』
指先が冷たくなった。
心臓が、変な音を立てた気がした。
通知はすぐに消えた。
でも文字は頭に残った。
高瀬やさしすぎ。
謝ってあげた。
反省してるんじゃね?
私はスマホを伏せた。
お母さんの手を握る。
強く握りすぎないように、気をつけながら。
「頑張らなきゃ」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「耐えなきゃ」
お母さんが起きた時に、心配させちゃだめだから。
私が、ちゃんとしてなきゃ。
お母さんの娘なんだから。
お母さんが守ってきたものを、私が壊しちゃだめだから。
でも。
私は顔を伏せた。
「でも、もう」
声が、ほとんど息になった。
「ちょっとだけ、限界かもなー……」
ピッ、ピッ、と心電図の音だけが、白い病室に響いていた。
お母さんは、まだ起きない。




