表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

第一話 平凡は、どうやら少し高くつくらしい

第一話 平凡は、どうやら少し高くつくらしい


六月の終わり。


朝から空気が重かった。


雨は降っていないのに、団地の廊下には湿ったコンクリートの匂いがこもっている。


夜のうちに降った雨が、壁や床や、古びた鉄の手すりの中にまで染み込んで、そのまま朝になっても抜けきっていないみたいだった。


私は洗面所の小さな鏡の前で、湿気に負けて少し跳ねた前髪を指で押さえた。


押さえても、すぐ戻る。


髪も、壁も、空気も、この季節は全部いうことを聞かない。


私の夢は、特別な人になることなんかじゃない。


世界を変えたい、とか、誰かに憧れられたい、とか。そういう大きな夢はない。


地方公務員になりたい。


毎月決まった日にお給料が入って、ボーナスもちゃんとあって、社会保険もちゃんとしていて、有給もあって。できれば、定時で帰れる仕事。


それで、お母さんに言うんだ。


もう無理して働かなくていいよ、って。


そのうち、普通にいい人と結婚して、普通に朝ごはんを食べて、どっちがお皿洗うかジャンケンなんかもして。


洗濯もして、普通にスーパーで安い方の卵を買って、普通に「今日ちょっと暑いね」なんて言いながら帰る。


そういう人生。


平凡で、地味で、誰にも褒められないけど、誰にも壊されない人生。


それが、私——白守しろもり結月ゆづきの夢だった。


「結月、お弁当、卵焼き入れる?」


台所から聞こえた声に、私は歯ブラシをくわえたまま固まった。


「..お母さん」


「うん?」


「座っててって、言ったよね?」


「ん〜でも卵、今日までなのよ?」


「私が焼くって昨日言ったじゃん」


「でも、結月は学校もバイトもあるしぃ」


「もー、お母さんは看護師だけど、今は休職中の病人です。病人は、病人らしくしてください」


私が台所へ行くと、お母さんはエプロン姿でフライパンを持っていた。


白守しろもり日和ひより


私のお母さん。


三十六歳。


年齢の割に若く見えるせいか、よく姉妹だと間違われる。てかまぁ、実際若いんだけれども。


看護師として働いていたけれど、持病のせいで休職と復職を繰り返している。最近はまた体調が悪くて、仕事を休んでいる。


本人はいつも「ちょっとねぇ体が、自分のこと敵だと思っちゃう病気なのよ」と言う。


ちょっと、ではない。


敵だと思っているなら、さっさと仲直りしてほしい。


「お母さん、ちょっと顔色悪い」


「そうかしら? 今日はけっこう元気よ〜!」


「けっこう元気な人は、フライパンを持ったまま壁に寄りかからない」


「ありゃ、バレた?」


「バレるよ…まったく」


私はお母さんの手からフライパンを奪い、椅子を引いた。


「座って」


「はい」


「水、飲む!」


「はぁい」


「薬は?」


「……….あとで」


「いーま!」


「はぁ〜い」


お母さんは怒られた小学生みたいに肩をすくめて、卓上の籠から錠剤を取り出した。


こういうところがある。


人の世話は放っておけないのに、自分のことはすぐ後回しにする。


きっと看護師だった時もそうだったんだと思う。患者さんに「無理しないでくださいね」とか言いながら、自分が一番無理をしていたに違いない。


私は冷蔵庫を開けた。


卵が二個。


半分だけ残ったキャベツ。


昨日の味噌汁。


安売りで買った鶏むね肉を、小さく切って冷凍したもの。


冷蔵庫の中身を見るだけで、今月の家計が頭に浮かぶようになったのは、いつからだっただろう。


電気代。


薬代。


通院費。


学校の教材費。


お母さんが入院した時のための予備費。


私のバイト代が入る日。


お母さんの手当が入るかもしれない日。


数字が頭の中で勝手に並ぶ。


ちょっと、うんざりした気持ちになる。


高校一年生が朝から考えることでは、ないんじゃないかなって。


「結月」


お母さんが、小さく呼んだ。


「なに」


「ごめんねぇ」


卵を割る手が止まる。


私は、少しだけ強めに殻を割った。


「..何が」


「いろいろ」


「いろいろ禁止」


「禁止?」


「お母さんが謝ると、私が怒るから禁止」


「ん〜、でも」


「でも、も禁止」


お母さんは困ったように笑った。


「結月は厳しいなあ」


「ふん、公務員志望だからね」


「公務員志望って厳しいの?」


「安定を守る女は厳しいの!…たぶん」


そう言うと、お母さんはふふっと笑った。


よかった。


笑った。


それだけで、今日はまだ大丈夫だと思えた。


私たちが住んでいる団地は古い。


古い、という言葉で片づけるには、少しだけ生活に食い込みすぎている。


玄関の鉄の扉は、開け閉めするたびに、ぎい、と低く鳴る。鍵は一応かかるけれど、回す時に少し引っかかるから、急いでいる朝ほど焦る。


台所は狭い。二人で立つと、どちらかが必ず体を横にしないと通れない。まな板を置けば調理スペースはほとんどなくなるし、シンクの下は湿気の匂いがする。雨の日は特にひどい。


窓際には、いつも薄く結露がつく。


冬はそこから冷気が染みて、夏は湿気がたまる。壁紙の端は少し浮いていて、見ないふりをしているけれど、角にはうっすら黒い点がある。


カビだ。


見つけるたびに拭く。でも、しばらくするとまた戻ってくる。


お風呂は狭い。


浴槽に入っても、足は伸ばせない。体育座りみたいな姿勢で湯に浸かるしかない。給湯器は気まぐれで、急にぬるくなったり、逆に熱くなったりする。


お母さんが体調を崩している日は、その温度の変化だけでもこほこほと、つらそうだった。


「今日はシャワーでいいよ」と、よくお母さんは言う。


でも私は知っている。


本当は、湯船に浸かった方が体が楽な日もあることを。


この団地にはエレベーターがない。


三階までの階段は、健康な人にはたいしたことがないのかもしれない。けれど、お母さんが病院から帰ってきた日には、その階段が山みたいに見える。


踊り場の電灯は、何週間も前から点滅している。


管理会社に連絡はした。


「順番に対応します」と言われた。


その順番は、どうせずっと来ない。


夜になると、隣の部屋のテレビの音が聞こえる。


上の階の子供の足音も聞こえる。


時々、どこかの部屋から怒鳴り声がする。


怖い、というより、疲れる。


眠る前くらい、静かにしてほしいとは思う。でも、その願いは壁の薄さに負ける。


ポストの扉は少し歪んでいて、チラシが無理やり差し込まれると開けづらくなる。


集合玄関の掲示板には、古い注意書きが色あせたまま貼られている。


《騒音に注意》


《ゴミ出しのルールを守りましょう》


《不審者を見かけたら管理会社へ》


注意書きだけは、ずっとそこにある。


でも、何かが良くなったことはあまりない。


それでも、ここが私たちの家だった。


家賃が安い。


学校にも、バイト先にも、病院にも、ぎりぎり通える。


だから文句は言わない。


文句を言ったところで、家賃は下がんないし、給湯器は機嫌を直してくれないし、階段にエレベーターがぼわんと生えてくれるわけでもない。


「いってきます」


玄関で靴を履くと、お母さんが台所から顔を出した。


「いってらっしゃい。気をつけてね」


「お母さんも、今日も絶対に無理とかしないでね」


「はぁい」


「洗濯もあとで私がやるから」


「えー?でも」


「でも禁止」


「……結月は厳しいなあ」


お母さんはまた同じことを言って、笑った。


私は扉を閉めた。


重たい鉄の音が、朝の廊下に響く。


こつこつと階段を下りながら、私はいつも思う。


いつか、お母さんをもっといい家に住ませたい。


雨の日に窓の下へタオルを置かなくていい家。


お風呂で足を伸ばせる家。


2人で一緒に、お風呂に入ってみたいなあ。


夜中に隣の怒鳴り声で目を覚まさない家。


階段を上るたびに、お母さんが息を切らさなくていい家。


それって、贅沢、なのかな。


でも今の私には、贅沢と同じくらい遠かった。


学校に着くと、朝の温かさはすぐに剥がれ落ちた。


教室の空気は、いつも少し冷たい。


本当に冷房が効いているとか、そういうことではない。


見られている。


見られて、値踏みされて、それから見なかったふりをされる。


そういう空気。


私の席の椅子には、誰かが置いた消しゴムのカスが山になっていた。


よくもまあ、毎回こんな溜められるなぁと、感心すらしてしまう。


机の中に入れていたはずのプリントは、床に落ちている。


鞄を置こうとすると、椅子の脚に引っかけてあった透明なテグスが指に触れた。


地味。


本当に、地味。


先生に言ったところで「誰がやったのかわからない」ってなるやつ。


プリントについた上履きの足跡を、消しゴムで消していく。


消しゴムが削れていくように、私の心も削れていく気がした。


毎日続けば、ちりもつもれば、なのだから。


私は黙ってテグスを外し、消しゴムのカスを、つもったちりを手で払った。


「白守さん、朝から掃除? えらーい」


後ろから声がした。


高瀬たかせ莉央りお


小学校からの同級生。


高学年の頃から、私はこの子に目をつけられている。


理由は知ってる。


昔、高瀬さんが好きだった男の子が、私のことを好きだったから、とかなんとか。


たったそれだけ。


本当に、それだけ。


でも高瀬さんにとっては、それで十分だった。


高瀬さんの家は、ちょっとしたお金持ちだ。


新しいスマホを持っていて、服も髪もいつもきれいで、動画投稿アプリでは少しだけフォロワーがいる。


本人は「ただの日常だよ〜」とか言うけれど、クラスの何人かは彼女を小さな有名人みたいに扱っている。


その輪の中心にいるのが、彼女だった。


「貧乏だと、掃除も得意になるのかな」


隣で笑ったのは、梶原かじわら芽衣めい


声が大きい。


悪口を冗談っぽく言う才能がある。


「えーやめなよ、聞こえるじゃん。掃除のバイトもしてるんじゃない?だから上手なんでしょ」


そう言いながら笑っているのが、三人目の田宮たみやあおい


一番おとなしく見えて、一番人の痛いところを探すのがうまい。


私は振り返らなかった。


振り返ると、顔に出てしまう。


怒っていることがバレる。


バレたら、あの子たちは嬉しそうにする。


「白守さん、今日もバイトなの〜?」


梶原さんが机に肘をつきながら言った。


「よく働くよね。高校生なのに」


「偉いっていうか、かわいそう」


高瀬さんが、わざとらしく眉を下げる。


「でも仕方ないか。お父さん、いないんだもんね〜」


胸の奥が、すうっと冷えた。


教室の中で、その言葉だけがやけに大きく響いた気がした。


「お母さんもさぁ、体弱いし。白守さんが稼がないと、生活できないんでしょ?」


何人かが、聞こえないふりをした。


先生はまだ来ていない。


誰も止めない。


止めないけれど、みんな聞いている。


私はノートを開いた。


「心配してくれてありがとう」


声は、思ったより普通に出た。


三人の笑いが一瞬だけ止まる。


私はシャープペンを取り出す。


勝ったわけじゃない。


ただ、負けないようにしただけ。


三時間目の途中、先生が進路希望調査の紙を配った。


第一志望。


私は迷わず書いた。


地方公務員。


理由の欄で少し止まる。


安定しているから。


母を安心させたいから。


普通に暮らしたいから。


どれも本当だけど、どれを書いても笑われそうだった。


結局、私は一番無難な言葉を書いた。


地域に貢献したいから。


嘘ではない。


たぶん。


「え、白守さん、こーむいん?」


横から梶原さんが覗き込んできた。


「夢なさすぎない?」


高瀬さんが笑う。


「ていうか似合う。窓口でずっと暗い顔してそう」


田宮さんが小さく言った。


「会ったらきまず」


クラスの何人かが笑った。


私は紙を裏返した。


「夢、あるよ」


自分でも驚くくらい、すぐに返していた。


「定時退勤」


一瞬、周りが黙った。


それから、また冷たい笑い声。


でも今度は、少しだけ種類が違った。


あの子たちを笑わせたかったわけじゃない。


けれど、泣きそうになるよりはましだった。


昼休み。


私は購買に行かなかった。


お弁当箱を開ける。


卵焼き。


キャベツの炒め物。


小さく切った鶏むね肉。


ご飯にはふりかけをかけた。


十分だ。


ちゃんと、おいしい。


お母さんが朝、少しだけ無理をして作ってくれたお弁当だ。


私がフライパンを取り上げた後も、お母さんはどうしても一品だけ入れたいと言って、キャベツを炒めてくれた。


「結月、学校でちゃんと食べるんだよ」


そう言って笑った。


だから私は、最初の一口を大事に食べようと思った。


思っていた。


横から、スマホを持った高瀬さんが近づいてきた。


「ねえ、白守さん」


嫌な予感がした。


「それさ、自分で作ったの?」


「……お母さんが」


「へえ」


高瀬さんは、弁当を覗き込んだ。


「なんか、地味」


周りの数人が笑う。


「うちの犬のごはんの方が彩りあるかも〜」


梶原さんが言った。


田宮さんがスマホを向ける。


「やめて」


私は思わず言った。


声が少し強かった。


高瀬さんの目が、細くなる。


「え何? 急に怖いんだけど」


「撮らないで」


「撮ってないよ。自意識過剰じゃね?」


「それ、お母さんが作ってくれたやつだから」


言った瞬間、しまったと思った。


高瀬さんの顔に、笑みが浮かんだ。


見つけた、という顔だった。


「へえー、おかーさんが」


彼女は私の弁当箱に指をかけた。


「病気なのに?」


次の瞬間。


弁当箱が、ひっくり返った。


音は、やけに軽かった。


蓋が床に跳ねて、ご飯が散る。


卵焼きが転がる。


キャベツが床に貼りつく。


鶏肉が、誰かの上履きのそばで止まった。


教室が一瞬だけ静かになった。


大好きなお母さんが作ってくれたものだった。


今日、いつもより顔色が悪かったのに。


薬を飲んで、少し座って、それでも私のために作ってくれたものだった。


私の中で、何かが切れた。


「……何してるの」


声が震えていた。


高瀬さんは肩をすくめた。


「ごめんごめん、手が滑ったぁ」


「嘘つかないで」


教室がざわつく。


自分でもわかった。


私は今、いつもより大きな声を出している。


「謝って」


高瀬さんの顔から笑みが消えた。


「は?」


「お母さんに謝って」


「なんで私が、あんたのお母さんに謝るの」


「謝って」


「えてかなに、気まず」


高瀬さんは私を睨んだ。


「片親で苦労してますアピール?みたいなの?そういうのさ重いんだけど」


頬が熱くなった。


怒りで。


悔しさで。


泣きそうだった。


でも泣かなかった。


「お母さんを、馬鹿にしないで」


それだけ言った。


言ってしまった。


教室の空気が変わった。


高瀬さんの顔が、明らかに歪んだ。


自分が人前で言い返されたことが、信じられないという顔だった。


「……へえ」


彼女は低く笑った。


「白守さんって、そーゆー感じなんだ」


その後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


床に落ちたお弁当は、私が拾った。


先生は「どうしたの」と聞いたけれど、私は「落としてしまって」と答えた。


高瀬さんたちは、先生の前で心配そうな顔をしていた。


「白守さん、大丈夫ぅ?」


その声が、耳に残って離れなかった。


放課後。


放送で呼ばれた。


「1年C組の白守さん。白守結月さん。至急職員室へお越しください」


その放送を聞いた瞬間、頭の先から血の気が引いた気がした。


早歩きで向かう職員室への廊下は、いつもより長く感じた。


先生は電話の横に立っていた。


「落ち着いて聞いてね」


その前置きだけで、落ち着けるわけがない。


「お母様が、救急搬送されたそうです」


音が消えた。


職員室のざわめきも、廊下を走る生徒の声も、全部遠くなった。


「意識はあるそうだけど、病院に来てほしいって」


顔の皮膚の感覚がなくなっていった気がした。


頭がどんどん重くなって、立っていられるのがやっとのような。


私は頷いた。


頷いたつもりだった。


実際に首が動いたかはわからない。


先生が病院名を書いたメモを渡してくれた。


知っている病院だった。


お母さんが通院しているところ。


何度も行ったことがある場所。


なのに、今日はまるで知らない場所へ向かうみたいに怖かった。


財布の中身を思い出す。


バス代。


タクシー代。


今日のバイトを休む連絡。


店長に謝らなきゃ。


そんなことを一瞬でも考えた自分が嫌だった。


お母さんが、救急搬送されたのに。


お金のことが、最初に頭をよぎった。


最低だと思った。


でも、それが私の日常だった。


病院へ着くまで、私はずっと親指を握りしめていた。


普通でいい。


何もいらない。


もう、公務員じゃなくてもいい。


定時退勤も、安定も、結婚も、全部いらない。


だから。


だから、お母さんだけは連れてかないで。


今まで堪えていた涙がとめどなく溢れていく。


目の前が見えないほどに。


病院の廊下は白かった。


外は六月の終わりの、湿った夕方だった。


制服の背中には、汗が薄く貼りついている。雨上がりのぬるい風が肌にまとわりついて、病院に入ってからも、その不快な湿気がまだ体のどこかに残っていた。


けれど、病院の中は冷房が効いていた。


白い壁。


白い床。


白い光。


外の蒸し暑さから切り離されたみたいな、冷たく整った空間。


受付で名前を告げると、看護師さんが一瞬だけ表情を変えた。


同情。


それから、言葉を選ぶ顔。


私はその顔が嫌いだった。


「こちらです」


案内された病室の前で、看護師さんは足を止めた。


「今は落ち着いています」


「母は」


「眠っています」


その言葉に、少しだけ息が戻る。


眠っている。


生きている。


それだけで、膝から力が抜けそうだった。


けれど病室の扉が少し開いているのを見て、私は固まった。


中が、暗い。


カーテンが閉め切られている。


夕方でもないのに、部屋の奥だけまるで夜みたいだった。


私は扉に手をかけた。


「お母さ——」


声が途中で止まった。


病室の中に、男がいた。


黒い服。


濡れた鴉のような、黒い髪。


長い髪が、肩から背中へまっすぐ落ちている。


そして、異質なほどの黒いコート。


六月の終わりの、湿った暑さがまだ肌にまとわりつく季節だった。


病院の中は冷房が効いているとはいえ、それでもコートを着るような気温ではない。


なんで、この時期にコートを……?


そう思った瞬間、男の視線がこちらへ滑った。


じろり、と。


ただ、そこに立っているだけなのに、病室の空気を、影を、闇を支配していた。


まるでそこにいるのが当然みたいに。


眠っているお母さんのそばに、静かに。


見知らぬ影、いや、人。おそらく、男。


なのに、なぜか「不審者」と呼ぶには綺麗すぎる気がした。


まるで、夜を人の形にしたみたいだった。


黒いコートの裾が、薄暗い床に影を引いている。


その影が、病室の白さを少しずつ侵食しているように見えた。


ベッドのそばには、白い花が生けられていた。


病室の白よりも、さらに静かな白。


花びらは小さく、清潔で、どこか祈りに似ている。


ふわりと、甘い香りがした。


ジャスミンに似た匂い。


私は乾いた喉を、かろうじて鳴らした。


「……だれ、ですか」


その瞬間。


黒いはずの瞳が、ほんの一瞬だけ、白金色に光った気がした。


光というより、刃だった。


暗闇の奥で、細く、冷たく、こちらの内側まで切り開くような光。


私は息が止まった。


逃げたい。


でも目をそらせない。


「…………あぁ」


男は低い声で呟いた。


その声は、驚くほど静かだった。


怖いほど落ち着いていて、耳に触れた瞬間、胸の奥の震えまで撫でられるようだった。


「君が、結月か」


「! ……どうして、私の名前を……?」


男は答えなかった。


問いに興味がない、というより、答える必要を感じていないようだった。


眠るお母さんのそばを離れ、ゆっくりと病室の出口へ、こちらへ向かう。


足音は小さい。


けれど、一歩ごとに、部屋の暗さが動いた気がした。


私は追いかけるべきだった。


誰なのか聞くべきだった。


母に、何をしたのか問い詰めるべきだった。


なのに、まるで体が油粘土になってしまったかのように、動かなくなった。


手のひらは汗をかき、冷たくなっていった。


男は扉の前で一度だけ足を止めた。


横顔だけが、廊下の光に淡く浮かぶ。


「……君の願う平凡は、少し、高くつく」


「えっ」


男は答えなかった。


ただ、フッと小さく笑った。


それは楽しそうというより、すべて知った上で何かを飲み込んだような、静かな笑いだった。


コツ、コツ、と革靴の音だけが遠ざかっていく。


そのあとに、ふわりと、またジャスミンの香りがした。


私はしばらく、病室の入口に立ち尽くしていた。


お母さんは呼吸器をつけて眠っている。


胸が、ゆっくり上下しながら、ピッ、ピッと心電図の音がようやく聞こえてきた。


生きている。


それだけで泣きそうになったのに、涙は出なかった。


代わりに、さっきの男の声が耳の奥に残っていた。


平凡は、少し高くつく。


私の夢。


地味で、普通で、誰にも褒められないけど、誰にも壊されない人生。


その値段を、そのときの私はまだ知らなかった。


ただその日から。


私の平凡は、少しずつ、知らない男の黒い影に、覆われ始めていった────

書き溜めていたものを、手直ししてあげていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ