第一話 平凡は、どうやら少し高くつくらしい
第一話 平凡は、どうやら少し高くつくらしい
六月の終わり。
朝から空気が重かった。
雨は降っていないのに、団地の廊下には湿ったコンクリートの匂いがこもっている。
夜のうちに降った雨が、壁や床や、古びた鉄の手すりの中にまで染み込んで、そのまま朝になっても抜けきっていないみたいだった。
私は洗面所の小さな鏡の前で、湿気に負けて少し跳ねた前髪を指で押さえた。
押さえても、すぐ戻る。
髪も、壁も、空気も、この季節は全部いうことを聞かない。
私の夢は、特別な人になることなんかじゃない。
世界を変えたい、とか、誰かに憧れられたい、とか。そういう大きな夢はない。
地方公務員になりたい。
毎月決まった日にお給料が入って、ボーナスもちゃんとあって、社会保険もちゃんとしていて、有給もあって。できれば、定時で帰れる仕事。
それで、お母さんに言うんだ。
もう無理して働かなくていいよ、って。
そのうち、普通にいい人と結婚して、普通に朝ごはんを食べて、どっちがお皿洗うかジャンケンなんかもして。
洗濯もして、普通にスーパーで安い方の卵を買って、普通に「今日ちょっと暑いね」なんて言いながら帰る。
そういう人生。
平凡で、地味で、誰にも褒められないけど、誰にも壊されない人生。
それが、私——白守結月の夢だった。
「結月、お弁当、卵焼き入れる?」
台所から聞こえた声に、私は歯ブラシをくわえたまま固まった。
「..お母さん」
「うん?」
「座っててって、言ったよね?」
「ん〜でも卵、今日までなのよ?」
「私が焼くって昨日言ったじゃん」
「でも、結月は学校もバイトもあるしぃ」
「もー、お母さんは看護師だけど、今は休職中の病人です。病人は、病人らしくしてください」
私が台所へ行くと、お母さんはエプロン姿でフライパンを持っていた。
白守日和。
私のお母さん。
三十六歳。
年齢の割に若く見えるせいか、よく姉妹だと間違われる。てかまぁ、実際若いんだけれども。
看護師として働いていたけれど、持病のせいで休職と復職を繰り返している。最近はまた体調が悪くて、仕事を休んでいる。
本人はいつも「ちょっとねぇ体が、自分のこと敵だと思っちゃう病気なのよ」と言う。
ちょっと、ではない。
敵だと思っているなら、さっさと仲直りしてほしい。
「お母さん、ちょっと顔色悪い」
「そうかしら? 今日はけっこう元気よ〜!」
「けっこう元気な人は、フライパンを持ったまま壁に寄りかからない」
「ありゃ、バレた?」
「バレるよ…まったく」
私はお母さんの手からフライパンを奪い、椅子を引いた。
「座って」
「はい」
「水、飲む!」
「はぁい」
「薬は?」
「……….あとで」
「いーま!」
「はぁ〜い」
お母さんは怒られた小学生みたいに肩をすくめて、卓上の籠から錠剤を取り出した。
こういうところがある。
人の世話は放っておけないのに、自分のことはすぐ後回しにする。
きっと看護師だった時もそうだったんだと思う。患者さんに「無理しないでくださいね」とか言いながら、自分が一番無理をしていたに違いない。
私は冷蔵庫を開けた。
卵が二個。
半分だけ残ったキャベツ。
昨日の味噌汁。
安売りで買った鶏むね肉を、小さく切って冷凍したもの。
冷蔵庫の中身を見るだけで、今月の家計が頭に浮かぶようになったのは、いつからだっただろう。
電気代。
薬代。
通院費。
学校の教材費。
お母さんが入院した時のための予備費。
私のバイト代が入る日。
お母さんの手当が入るかもしれない日。
数字が頭の中で勝手に並ぶ。
ちょっと、うんざりした気持ちになる。
高校一年生が朝から考えることでは、ないんじゃないかなって。
「結月」
お母さんが、小さく呼んだ。
「なに」
「ごめんねぇ」
卵を割る手が止まる。
私は、少しだけ強めに殻を割った。
「..何が」
「いろいろ」
「いろいろ禁止」
「禁止?」
「お母さんが謝ると、私が怒るから禁止」
「ん〜、でも」
「でも、も禁止」
お母さんは困ったように笑った。
「結月は厳しいなあ」
「ふん、公務員志望だからね」
「公務員志望って厳しいの?」
「安定を守る女は厳しいの!…たぶん」
そう言うと、お母さんはふふっと笑った。
よかった。
笑った。
それだけで、今日はまだ大丈夫だと思えた。
私たちが住んでいる団地は古い。
古い、という言葉で片づけるには、少しだけ生活に食い込みすぎている。
玄関の鉄の扉は、開け閉めするたびに、ぎい、と低く鳴る。鍵は一応かかるけれど、回す時に少し引っかかるから、急いでいる朝ほど焦る。
台所は狭い。二人で立つと、どちらかが必ず体を横にしないと通れない。まな板を置けば調理スペースはほとんどなくなるし、シンクの下は湿気の匂いがする。雨の日は特にひどい。
窓際には、いつも薄く結露がつく。
冬はそこから冷気が染みて、夏は湿気がたまる。壁紙の端は少し浮いていて、見ないふりをしているけれど、角にはうっすら黒い点がある。
カビだ。
見つけるたびに拭く。でも、しばらくするとまた戻ってくる。
お風呂は狭い。
浴槽に入っても、足は伸ばせない。体育座りみたいな姿勢で湯に浸かるしかない。給湯器は気まぐれで、急にぬるくなったり、逆に熱くなったりする。
お母さんが体調を崩している日は、その温度の変化だけでもこほこほと、つらそうだった。
「今日はシャワーでいいよ」と、よくお母さんは言う。
でも私は知っている。
本当は、湯船に浸かった方が体が楽な日もあることを。
この団地にはエレベーターがない。
三階までの階段は、健康な人にはたいしたことがないのかもしれない。けれど、お母さんが病院から帰ってきた日には、その階段が山みたいに見える。
踊り場の電灯は、何週間も前から点滅している。
管理会社に連絡はした。
「順番に対応します」と言われた。
その順番は、どうせずっと来ない。
夜になると、隣の部屋のテレビの音が聞こえる。
上の階の子供の足音も聞こえる。
時々、どこかの部屋から怒鳴り声がする。
怖い、というより、疲れる。
眠る前くらい、静かにしてほしいとは思う。でも、その願いは壁の薄さに負ける。
ポストの扉は少し歪んでいて、チラシが無理やり差し込まれると開けづらくなる。
集合玄関の掲示板には、古い注意書きが色あせたまま貼られている。
《騒音に注意》
《ゴミ出しのルールを守りましょう》
《不審者を見かけたら管理会社へ》
注意書きだけは、ずっとそこにある。
でも、何かが良くなったことはあまりない。
それでも、ここが私たちの家だった。
家賃が安い。
学校にも、バイト先にも、病院にも、ぎりぎり通える。
だから文句は言わない。
文句を言ったところで、家賃は下がんないし、給湯器は機嫌を直してくれないし、階段にエレベーターがぼわんと生えてくれるわけでもない。
「いってきます」
玄関で靴を履くと、お母さんが台所から顔を出した。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「お母さんも、今日も絶対に無理とかしないでね」
「はぁい」
「洗濯もあとで私がやるから」
「えー?でも」
「でも禁止」
「……結月は厳しいなあ」
お母さんはまた同じことを言って、笑った。
私は扉を閉めた。
重たい鉄の音が、朝の廊下に響く。
こつこつと階段を下りながら、私はいつも思う。
いつか、お母さんをもっといい家に住ませたい。
雨の日に窓の下へタオルを置かなくていい家。
お風呂で足を伸ばせる家。
2人で一緒に、お風呂に入ってみたいなあ。
夜中に隣の怒鳴り声で目を覚まさない家。
階段を上るたびに、お母さんが息を切らさなくていい家。
それって、贅沢、なのかな。
でも今の私には、贅沢と同じくらい遠かった。
学校に着くと、朝の温かさはすぐに剥がれ落ちた。
教室の空気は、いつも少し冷たい。
本当に冷房が効いているとか、そういうことではない。
見られている。
見られて、値踏みされて、それから見なかったふりをされる。
そういう空気。
私の席の椅子には、誰かが置いた消しゴムのカスが山になっていた。
よくもまあ、毎回こんな溜められるなぁと、感心すらしてしまう。
机の中に入れていたはずのプリントは、床に落ちている。
鞄を置こうとすると、椅子の脚に引っかけてあった透明なテグスが指に触れた。
地味。
本当に、地味。
先生に言ったところで「誰がやったのかわからない」ってなるやつ。
プリントについた上履きの足跡を、消しゴムで消していく。
消しゴムが削れていくように、私の心も削れていく気がした。
毎日続けば、ちりもつもれば、なのだから。
私は黙ってテグスを外し、消しゴムのカスを、つもったちりを手で払った。
「白守さん、朝から掃除? えらーい」
後ろから声がした。
高瀬莉央。
小学校からの同級生。
高学年の頃から、私はこの子に目をつけられている。
理由は知ってる。
昔、高瀬さんが好きだった男の子が、私のことを好きだったから、とかなんとか。
たったそれだけ。
本当に、それだけ。
でも高瀬さんにとっては、それで十分だった。
高瀬さんの家は、ちょっとしたお金持ちだ。
新しいスマホを持っていて、服も髪もいつもきれいで、動画投稿アプリでは少しだけフォロワーがいる。
本人は「ただの日常だよ〜」とか言うけれど、クラスの何人かは彼女を小さな有名人みたいに扱っている。
その輪の中心にいるのが、彼女だった。
「貧乏だと、掃除も得意になるのかな」
隣で笑ったのは、梶原芽衣。
声が大きい。
悪口を冗談っぽく言う才能がある。
「えーやめなよ、聞こえるじゃん。掃除のバイトもしてるんじゃない?だから上手なんでしょ」
そう言いながら笑っているのが、三人目の田宮葵。
一番おとなしく見えて、一番人の痛いところを探すのがうまい。
私は振り返らなかった。
振り返ると、顔に出てしまう。
怒っていることがバレる。
バレたら、あの子たちは嬉しそうにする。
「白守さん、今日もバイトなの〜?」
梶原さんが机に肘をつきながら言った。
「よく働くよね。高校生なのに」
「偉いっていうか、かわいそう」
高瀬さんが、わざとらしく眉を下げる。
「でも仕方ないか。お父さん、いないんだもんね〜」
胸の奥が、すうっと冷えた。
教室の中で、その言葉だけがやけに大きく響いた気がした。
「お母さんもさぁ、体弱いし。白守さんが稼がないと、生活できないんでしょ?」
何人かが、聞こえないふりをした。
先生はまだ来ていない。
誰も止めない。
止めないけれど、みんな聞いている。
私はノートを開いた。
「心配してくれてありがとう」
声は、思ったより普通に出た。
三人の笑いが一瞬だけ止まる。
私はシャープペンを取り出す。
勝ったわけじゃない。
ただ、負けないようにしただけ。
三時間目の途中、先生が進路希望調査の紙を配った。
第一志望。
私は迷わず書いた。
地方公務員。
理由の欄で少し止まる。
安定しているから。
母を安心させたいから。
普通に暮らしたいから。
どれも本当だけど、どれを書いても笑われそうだった。
結局、私は一番無難な言葉を書いた。
地域に貢献したいから。
嘘ではない。
たぶん。
「え、白守さん、こーむいん?」
横から梶原さんが覗き込んできた。
「夢なさすぎない?」
高瀬さんが笑う。
「ていうか似合う。窓口でずっと暗い顔してそう」
田宮さんが小さく言った。
「会ったらきまず」
クラスの何人かが笑った。
私は紙を裏返した。
「夢、あるよ」
自分でも驚くくらい、すぐに返していた。
「定時退勤」
一瞬、周りが黙った。
それから、また冷たい笑い声。
でも今度は、少しだけ種類が違った。
あの子たちを笑わせたかったわけじゃない。
けれど、泣きそうになるよりはましだった。
昼休み。
私は購買に行かなかった。
お弁当箱を開ける。
卵焼き。
キャベツの炒め物。
小さく切った鶏むね肉。
ご飯にはふりかけをかけた。
十分だ。
ちゃんと、おいしい。
お母さんが朝、少しだけ無理をして作ってくれたお弁当だ。
私がフライパンを取り上げた後も、お母さんはどうしても一品だけ入れたいと言って、キャベツを炒めてくれた。
「結月、学校でちゃんと食べるんだよ」
そう言って笑った。
だから私は、最初の一口を大事に食べようと思った。
思っていた。
横から、スマホを持った高瀬さんが近づいてきた。
「ねえ、白守さん」
嫌な予感がした。
「それさ、自分で作ったの?」
「……お母さんが」
「へえ」
高瀬さんは、弁当を覗き込んだ。
「なんか、地味」
周りの数人が笑う。
「うちの犬のごはんの方が彩りあるかも〜」
梶原さんが言った。
田宮さんがスマホを向ける。
「やめて」
私は思わず言った。
声が少し強かった。
高瀬さんの目が、細くなる。
「え何? 急に怖いんだけど」
「撮らないで」
「撮ってないよ。自意識過剰じゃね?」
「それ、お母さんが作ってくれたやつだから」
言った瞬間、しまったと思った。
高瀬さんの顔に、笑みが浮かんだ。
見つけた、という顔だった。
「へえー、おかーさんが」
彼女は私の弁当箱に指をかけた。
「病気なのに?」
次の瞬間。
弁当箱が、ひっくり返った。
音は、やけに軽かった。
蓋が床に跳ねて、ご飯が散る。
卵焼きが転がる。
キャベツが床に貼りつく。
鶏肉が、誰かの上履きのそばで止まった。
教室が一瞬だけ静かになった。
大好きなお母さんが作ってくれたものだった。
今日、いつもより顔色が悪かったのに。
薬を飲んで、少し座って、それでも私のために作ってくれたものだった。
私の中で、何かが切れた。
「……何してるの」
声が震えていた。
高瀬さんは肩をすくめた。
「ごめんごめん、手が滑ったぁ」
「嘘つかないで」
教室がざわつく。
自分でもわかった。
私は今、いつもより大きな声を出している。
「謝って」
高瀬さんの顔から笑みが消えた。
「は?」
「お母さんに謝って」
「なんで私が、あんたのお母さんに謝るの」
「謝って」
「えてかなに、気まず」
高瀬さんは私を睨んだ。
「片親で苦労してますアピール?みたいなの?そういうのさ重いんだけど」
頬が熱くなった。
怒りで。
悔しさで。
泣きそうだった。
でも泣かなかった。
「お母さんを、馬鹿にしないで」
それだけ言った。
言ってしまった。
教室の空気が変わった。
高瀬さんの顔が、明らかに歪んだ。
自分が人前で言い返されたことが、信じられないという顔だった。
「……へえ」
彼女は低く笑った。
「白守さんって、そーゆー感じなんだ」
その後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
床に落ちたお弁当は、私が拾った。
先生は「どうしたの」と聞いたけれど、私は「落としてしまって」と答えた。
高瀬さんたちは、先生の前で心配そうな顔をしていた。
「白守さん、大丈夫ぅ?」
その声が、耳に残って離れなかった。
放課後。
放送で呼ばれた。
「1年C組の白守さん。白守結月さん。至急職員室へお越しください」
その放送を聞いた瞬間、頭の先から血の気が引いた気がした。
早歩きで向かう職員室への廊下は、いつもより長く感じた。
先生は電話の横に立っていた。
「落ち着いて聞いてね」
その前置きだけで、落ち着けるわけがない。
「お母様が、救急搬送されたそうです」
音が消えた。
職員室のざわめきも、廊下を走る生徒の声も、全部遠くなった。
「意識はあるそうだけど、病院に来てほしいって」
顔の皮膚の感覚がなくなっていった気がした。
頭がどんどん重くなって、立っていられるのがやっとのような。
私は頷いた。
頷いたつもりだった。
実際に首が動いたかはわからない。
先生が病院名を書いたメモを渡してくれた。
知っている病院だった。
お母さんが通院しているところ。
何度も行ったことがある場所。
なのに、今日はまるで知らない場所へ向かうみたいに怖かった。
財布の中身を思い出す。
バス代。
タクシー代。
今日のバイトを休む連絡。
店長に謝らなきゃ。
そんなことを一瞬でも考えた自分が嫌だった。
お母さんが、救急搬送されたのに。
お金のことが、最初に頭をよぎった。
最低だと思った。
でも、それが私の日常だった。
病院へ着くまで、私はずっと親指を握りしめていた。
普通でいい。
何もいらない。
もう、公務員じゃなくてもいい。
定時退勤も、安定も、結婚も、全部いらない。
だから。
だから、お母さんだけは連れてかないで。
今まで堪えていた涙がとめどなく溢れていく。
目の前が見えないほどに。
病院の廊下は白かった。
外は六月の終わりの、湿った夕方だった。
制服の背中には、汗が薄く貼りついている。雨上がりのぬるい風が肌にまとわりついて、病院に入ってからも、その不快な湿気がまだ体のどこかに残っていた。
けれど、病院の中は冷房が効いていた。
白い壁。
白い床。
白い光。
外の蒸し暑さから切り離されたみたいな、冷たく整った空間。
受付で名前を告げると、看護師さんが一瞬だけ表情を変えた。
同情。
それから、言葉を選ぶ顔。
私はその顔が嫌いだった。
「こちらです」
案内された病室の前で、看護師さんは足を止めた。
「今は落ち着いています」
「母は」
「眠っています」
その言葉に、少しだけ息が戻る。
眠っている。
生きている。
それだけで、膝から力が抜けそうだった。
けれど病室の扉が少し開いているのを見て、私は固まった。
中が、暗い。
カーテンが閉め切られている。
夕方でもないのに、部屋の奥だけまるで夜みたいだった。
私は扉に手をかけた。
「お母さ——」
声が途中で止まった。
病室の中に、男がいた。
黒い服。
濡れた鴉のような、黒い髪。
長い髪が、肩から背中へまっすぐ落ちている。
そして、異質なほどの黒いコート。
六月の終わりの、湿った暑さがまだ肌にまとわりつく季節だった。
病院の中は冷房が効いているとはいえ、それでもコートを着るような気温ではない。
なんで、この時期にコートを……?
そう思った瞬間、男の視線がこちらへ滑った。
じろり、と。
ただ、そこに立っているだけなのに、病室の空気を、影を、闇を支配していた。
まるでそこにいるのが当然みたいに。
眠っているお母さんのそばに、静かに。
見知らぬ影、いや、人。おそらく、男。
なのに、なぜか「不審者」と呼ぶには綺麗すぎる気がした。
まるで、夜を人の形にしたみたいだった。
黒いコートの裾が、薄暗い床に影を引いている。
その影が、病室の白さを少しずつ侵食しているように見えた。
ベッドのそばには、白い花が生けられていた。
病室の白よりも、さらに静かな白。
花びらは小さく、清潔で、どこか祈りに似ている。
ふわりと、甘い香りがした。
ジャスミンに似た匂い。
私は乾いた喉を、かろうじて鳴らした。
「……だれ、ですか」
その瞬間。
黒いはずの瞳が、ほんの一瞬だけ、白金色に光った気がした。
光というより、刃だった。
暗闇の奥で、細く、冷たく、こちらの内側まで切り開くような光。
私は息が止まった。
逃げたい。
でも目をそらせない。
「…………あぁ」
男は低い声で呟いた。
その声は、驚くほど静かだった。
怖いほど落ち着いていて、耳に触れた瞬間、胸の奥の震えまで撫でられるようだった。
「君が、結月か」
「! ……どうして、私の名前を……?」
男は答えなかった。
問いに興味がない、というより、答える必要を感じていないようだった。
眠るお母さんのそばを離れ、ゆっくりと病室の出口へ、こちらへ向かう。
足音は小さい。
けれど、一歩ごとに、部屋の暗さが動いた気がした。
私は追いかけるべきだった。
誰なのか聞くべきだった。
母に、何をしたのか問い詰めるべきだった。
なのに、まるで体が油粘土になってしまったかのように、動かなくなった。
手のひらは汗をかき、冷たくなっていった。
男は扉の前で一度だけ足を止めた。
横顔だけが、廊下の光に淡く浮かぶ。
「……君の願う平凡は、少し、高くつく」
「えっ」
男は答えなかった。
ただ、フッと小さく笑った。
それは楽しそうというより、すべて知った上で何かを飲み込んだような、静かな笑いだった。
コツ、コツ、と革靴の音だけが遠ざかっていく。
そのあとに、ふわりと、またジャスミンの香りがした。
私はしばらく、病室の入口に立ち尽くしていた。
お母さんは呼吸器をつけて眠っている。
胸が、ゆっくり上下しながら、ピッ、ピッと心電図の音がようやく聞こえてきた。
生きている。
それだけで泣きそうになったのに、涙は出なかった。
代わりに、さっきの男の声が耳の奥に残っていた。
平凡は、少し高くつく。
私の夢。
地味で、普通で、誰にも褒められないけど、誰にも壊されない人生。
その値段を、そのときの私はまだ知らなかった。
ただその日から。
私の平凡は、少しずつ、知らない男の黒い影に、覆われ始めていった────
書き溜めていたものを、手直ししてあげていきます。




