第三話 いい子でいなきゃ
「白守さん」
誰かに呼ばれて、目が覚めた。
最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
白い天井。
白いカーテン。
ピッ、ピッ、と鳴る音。
それでやっと、病院だと思い出す。
私はお母さんのベッドの端に額を預けたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
首が痛い。
肩も痛い。
口の中が乾いている。
最悪だ。
最近、最悪だ、ばっかり言ってる気がする。
「少し横になりますか?」
看護師さんが、気遣うように私を見ていた。
「あ、大丈夫です」
反射でそう答えた。
大丈夫じゃないのに。
全然、大丈夫じゃないのに。
でも、口が勝手に動く。
大丈夫です。
すみません。
ありがとうございます。
最近の私は、この三つだけで会話している気がする。
看護師さんは少し困ったように笑った。
「お母さんは、今朝も状態は安定しています。ただ、まだ意識は戻っていません」
「……はい」
安定。
その言葉は、きっと悪い言葉じゃない。
でも、いい言葉でもなかった。
お母さんは、まだ目を覚まさない。
ベッドの上で、眠ったまま。
酸素のチューブをつけて。
心電図の音だけを、律儀に鳴らし続けている。
「あとで、入院の書類について事務の者から説明がありますね」
「書類、ですか」
「はい。保険証や、限度額適用認定証のこともありますので」
げんどがく。
てきよう。
にんていしょう。
音だけ聞くと、呪文みたいだった。
私は頷いた。
わかったふりをした。
大人の人は、難しい言葉を普通の顔で言う。
普通の顔で言われると、わからない私の方が悪いみたいな気がする。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
また言った。
大丈夫です。
本当に便利な言葉だ。
言えば言うほど、自分の中身が薄くなっていく気がする。
そのあと、事務の人に呼ばれて、小さな部屋で説明を受けた。
入院申込書。
保証人。
保険証。
高額療養費。
診断書。
休職中の扱い。
……知らない言葉が、紙の上でずらっと並んでいる。
私は椅子に座って、ペンを握った。
字が少し震えた。
「お母様の保険証はお持ちですか?」
「あっ、はい。たぶんこれです」
「ありがとうございます。こちらはコピーを取らせていただきますね」
「はい」
「保証人欄は、後日でも大丈夫ですので」
保証人。
その言葉で、手が止まった。
保証してくれる、人。
なにを?
お母さんには誰がいるんだろう。
親戚とはほとんど連絡を取っていないらしい。
お父さんはいないし、私は未成年。
紙の上の空欄が、ずうっと大きく見えた。
「白守さん?」
「あ……すみません」
また、すみませんだ。
「こちらは、後日相談しても大丈夫ですか」
「もちろんです。急がなくて大丈夫ですよ」
急がなくて大丈夫。
そう言ってもらえるのはありがたい。
ありがたいのに、急がなくていいことなんて、別に一つもない気がした。
お母さんは目を覚まさないし、学校はある。
バイトもある。
家賃もある。
生活もある。
明日も、明後日もある。
大人になったら、こういうことが全部わかるようになるんだろうか。
それとも、大人もわからないまんま、わかった顔をしているのかな。
説明が終わる頃には、頭の中がわたあめみたいになっていた。
病室に戻ると、お母さんはやっぱり眠っていた。
ベッド脇の花瓶には、白い花がある。
昨日より少しだけ開いていた。
私は花を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……何も言わずに、花だけ置いていくの、なんでよ」
もちろん返事はない。
花も、お母さんも。
私は制服の袖を見た。
昨日の雨で少し濡れたまま乾いたせいか、布が変な形に固まっている。
「学校、行ってくるね」
お母さんに言った。
言わないと、行けない気がした。
「ちゃんと行くからね」
そう言ってから、自分で少し笑いそうになった。
ちゃんと。
ちゃんとって、何だろう。
ちゃんと学校に行く。
ちゃんとバイトに行く。
ちゃんと謝る。
ちゃんと笑う。
ちゃんと平気なふりをする。
ちゃんと、いい子でいる。
そうしたら、何かが戻ってくるんだろうか。
お母さんの目が覚めるんだろうか。
そんなはずないのに。
私、『そんなはずない』ばっかり考えてるなぁ。
学校に着くと、教室の空気は昨日より少しだけ柔らかかった。
柔らかい。
というより、ぬるい。
みんなが私を見ている。
でも、すぐに目をそらす。
見ていないふりをする。
見ていないふりをしながら、ちゃんと見ている。
そういう空気。
私が席に座ると、高瀬さんが近づいてきた。
今日は梶原さんと田宮さんも一緒だった。
「あ、白守さぁん」
高瀬さんは、昨日よりさらに優しい声を出した。
「お母さん、大丈夫?」
教室の何人かが、ちらっとこちらを見た。
私は少しだけ息を吸った。
「うん。今は落ち着いてる」
「そっか。よかったね」
よかったね。
何が。
お母さんはまだ起きてない。
でも、そんなことを言える空気ではなかった。
「昨日のこともさ、もう大丈夫だから」
高瀬さんが言う。
まるで、私を許してあげるみたいに。
「私も謝ったしさぁ、白守さんも謝ってくれたし。ね?」
「……うん」
「だから、もう変に気にしないでね? みんなも心配してたし」
梶原さんが小さく頷く。
「そうそう。白守さん、昨日からずっと暗いからさ、こっちまで気まずくなるっていうか」
田宮さんが、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「無理しないでねー。なんか急に怒ったりとか……クス」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
怒っていいのか、泣いていいのか、笑えばいいのか、わからない。
だから私は、結局いつもの顔をした。
「……ありがとう」
言った瞬間、自分の声が遠く聞こえた。
ありがとう。
何に?
何に対して?
高瀬さんは満足そうに微笑んだ。
「うん、うん」
その笑顔を見て、思った。
この人は、たぶん本当に自分が優しいと思っている。
謝ってあげた。
心配してあげた。
仲直りしてあげた。
そういう箱の中に、私を押し込めている。
その箱に入らない私は、わがままで、空気を読めなくて、面倒な人になる。
私は机の下で、親指を握った。
強く。
強く。
ホームルームのあと、担任の先生に進路希望の紙を出すように言われた。
そういえば、今日までだったな。
すっかり忘れてた。
進路希望……。
第一希望、地方公務員。
第二希望、事務職。
第三希望……未定。
昨日までは、その文字が少しだけ先の未来みたいに見えていた。
今は、紙の上に並んだ、現実離れした場所みたいだった。
スポーツ選手だか、宇宙飛行士だか、みたいな。
先生は私の紙を見て、少しだけ頷いた。
「白守さんは、やっぱり公務員志望なんだね」
「はい」
「安定しているし、いいと思う。ただ、家庭の事情があるのはわかるけど、欠席や遅刻が増えると内申にも響くからね」
悪気がないのはわかる。
先生は、たぶん本当にアドバイスをしている。
でも、その言葉は、ちゃんと刺さった。
内申。
欠席。
遅刻。
評価。
平凡になるためには、平凡じゃないくらい、ちゃんとしていないといけないらしい。
「はい。気をつけます」
「無理はしすぎないようにね」
「はい。ありがとうございます」
まただ。
大丈夫です。
すみません。
ありがとうございます。
私は職員室を出たあと、廊下の窓の前で少しだけ立ち止まった。
外はコンクリートみたいな灰色だった。
雨が降る前の、重たい空。
雲が低い。
校庭の隅の雑草が、湿った風に揺れている。
なんだっけ、この匂い。
病院を出た時にも思った。
草の匂い。
雨の前の匂い。
少し腐った土の匂い。
そういうものが混ざっている。
鼻の奥に残る。
私は目を閉じた。
一秒だけ。
一秒だけ休もうと思った。
でも、チャイムが鳴った。
休んでないで、早く出ろってことかな。
放課後、私は病院ではなく、バイト先へ向かった。
昨日、明日は行けます、と言ってしまったから。
言ってしまった。
……いや、変か。
自分で言ったのに。
お店のバックヤードで制服に着替えると、鏡に映った顔がひどかった。
目の下が少し暗い。
唇も乾いている。
でも、髪だけは結んだ。
ちゃんとした人に見えるように。
店長が入ってきて、私を見た。
「顔色悪いけどぉ、大丈夫?」
「あ、はい……大丈夫です」
自分でも笑いそうになる。
本日何回目の大丈夫です、だろう。
「そっかぁ。じゃあさ今日、ちょっと延ばせる? ラスト前まで人足んなくてさぁ」
「……はい」
言ってから、喉の奥がきゅっとなった。
病院に行きたい。
お母さんのそばにいたい。
でも、ここで断ったら、また迷惑をかける。
シフトを考え直すって言われた。
バイト代が減ったら困る。
お母さんの入院費もある。
家賃もある。
食費もある。
だから。
「……大丈夫、です」
私はもう一度言った。
店長は安心したように頷いた。
「いやぁ〜助かるよ」
助かる。
どうやら私が助けているらしい。
誰かを助ける余裕なんて、どこにもないのに。
バイト中、注文を一つ聞き間違えた。
正確には、客が言い間違えたのだと思う。
でも、レジに立っていたのは私だった。
「さっき、ホットって言ったんだけど」
「申し訳ありません。すぐお作り直しします」
「いや、あのさ、時間ないんだよね」
「申し訳ありません」
「ちゃんと注文くらい聞いててよ」
「申し訳ありません」
頭を下げる。
何度も。
何度も。
お辞儀をするたび、胃のあたりが薄くなっていく気がした。
すみません。
すみません。
すみません。
今日だけで、私は何回自分の心に蓋をしたんだろう。
休憩時間に、バックヤードで半分だけ残っていたおにぎりを食べた。
昨日買ったやつ。
ごはんが少し硬くなってる。
でも捨てるのはもったいないし。
食べながらスマホを見た。
病院からの連絡はない。
よかった。
そう思ったあと、すぐに考える。
よかった、でいいのかな。
連絡がないということは、急変していないということ。
でも、目を覚ましたわけでもないということ。
よかった。
よくない。
ぐるぐる、どっちなのかわかんない。
画面の上に、クラスのグループ通知が流れた。
見なければよかった。
でも、見てしまった。
『白守さん今日も暗くね?』
『まあ家庭大変なんでしょ』
『莉央ちゃんが気遣ってたのに反応うっす』
『ああいうの逆に困るよね』
『腫れ物感やば』
腫れ物。
私のことだ。
指が止まる。
おにぎりの海苔が、少し湿って指についた。
なんでこんなところだけ、やけにはっきり見えるんだろう。
『てかさ』
田宮さんのアイコンだった。
『家庭環境を盾にする人っているよね』
息が止まった。
直接名前は出ていない。
でも、誰のことかはわかる。
わかるように書いてある。
すぐに既読が増えた。
スタンプがついた。
笑っている猫のスタンプ。
泣き笑いの顔。
私はスマホの画面を消した。
食べかけのおにぎりを見た。
急に、喉を通らなくなった。
喉の奥の管を、きゅうううと握りしめられているような感覚。
胃がひっくり返っちゃうんじゃないか。
でも捨てるのはもったいない。
だから、水で流し込んだ。
味なんてしなかった。
バイトが終わった頃、外はまた雨だった。
本降りではない。
でも細かい雨が、しとしとと降っている。
傘を差しても、横から入ってくるような雨。
私は病院へ向かった。
本当は、足が痛かった。
ローファーの中が少し湿っていて、靴下まで気持ち悪い。
駅前の道路に、車のライトがにじんでいる。
赤。
白。
黄色。
雨の夜は、街の全部がぼやける。
私も、いっそ。
どこかに消えてわかんなくなっちゃいたかった。
病室に着いた時、消灯時間はすでに近かった。
廊下は昼間より静かで、白さが少し青く見えた。
夜の病院は、昼よりも病院っぽい。
人の気配が薄くて、機械の音だけが残る。
扉をそっと開ける。
「お母さん」
返事はない。
わかっていた。
お母さんは、まだ眠っていた。
昨日と同じように。
朝と同じように。
いや、たぶん。
少しも変わっていないように見える。
私はベッド脇に座って、お母さんの手を握る。
少しひんやりしてる。
でも、生きている手だ。
それだけで、私はまた少し安心してしまう。
花瓶を見た。
白い花は、綺麗なままだった。
深くて、甘い匂い。
雨の夜に、ひっそり開いたみたいな匂い。
私はその花を見て、少しだけ腹が立った。
……花なんかいいからさあ。
お母さんを起こしてよ。
そう思ってしまった。
すぐに、自己嫌悪が来た。
花は悪くなんかない。
持ってきた人も、たぶん、悪いことをしているわけじゃない。
むしろ、お母さんを気にかけてくれているのかもしれない。
なのに私は、何に怒ればいいのかわからなくて、花にまで腹を立てそうになった。
「……ごめん」
誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。
お母さんに。
花に。
知らない黒いコートの男に。
それとも、私に。
「今日ね、バイト行ったよ」
私はお母さんの手に話しかける。
「ちゃんと行った」
ちゃんと。
またその言葉だ。
「学校も行った。進路の紙も出した。先生に、遅刻とか欠席とか増えると内申に響くって言われたんだよね」
返事はない。
「だから、ちゃんとしなきゃって思った」
言ってから、少し笑った。
「ずっと思ってるけどね」
お母さんは眠っている。
眠っているお母さんの顔は、いつもより幼く見える。
三十六歳なのに。
私の母なのに。
時々、姉妹みたいと言われるくらい若く見える人。
でも今は、若いというより、ただ弱く見えた。
私はお母さんの手を、少しだけ強く握った。
「いい子でいなきゃーって、思うの」
声が小さくなる。
「お母さんが起きた時にね、ちゃんとしてたよって言えるように」
学校も行ったよ。
バイトも行ったよ。
書類も聞いたよ。
ちゃんと、謝ったよ。
怒らなかったよ。
頑張ってさ、泣かなかったよ。
だから安心してね。
そう言えるように、って。
「……でもさ」
喉の奥が、また熱くなる。
「いい子って、何なんだろうね」
お母さんは答えない。
答えてほしかった。
お母さんなら、きっと変なことを言う。
「いい子って、無理してる子のことじゃないよ〜」とか。
「結月は結月だから、そのままでいいのよ」とか。
そういう、恥ずかしいくらい優しいことを、普通の顔で言う。
私はそれを聞いて、「もー、お母さんは甘いんだから」って言う。
言うはずだった。
なのに、言えない。
スマホが震えた。
どうせまた、クラスの通知。
見ない。
見ない。
見ない方がいい。
そう思いながら、指が動いた。
画面には、さっきとは別の通知があった。
高瀬さんの投稿。
名前は出ていない。
でも、わかる。
『謝ったのにずっと被害者ムーブされるのきつ』
その下に、梶原さんのコメント。
『優しさ通じない人いるよね笑』
田宮さん。
『家庭の事情あるなら何してもいいってわけじゃないしね』
胸の奥が、すっと冷えた。
血の気が引く、というのは、たぶんこういう感じだ。
手足の先だけが冷たい。
病室は冷房が効いている。
でも、それとは違う冷たさ。
私はスマホを伏せた。
画面を見ないように。
でも文字は消えない。
頭の内側に張りついたまま、何度も流れる。
被害者ムーブ。
優しさ通じない。
家庭の事情。
「……おかあ、さん」
声がかすれた。
「私、もう、どうしたらいいんだろ」
ピッ、ピッ。
心電図の音だけが返事をする。
一定の音。
やさしくも、冷たくもない音。
ただ、そこにある音。
お母さんが生きてる証。
私はしばらくお母さんのそばに居た。
消灯時間を過ぎる前に、看護師さんに声をかけられた。
「今日は帰れそうですか?」
「あ、はい。帰ります」
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
本当は帰りたくなかった。
でも、帰らないといけない。
明日も学校がある。
明日もバイトがある。
家の洗濯物もある。
お母さんが起きた時に、生活がぐちゃぐちゃになっていたら、きっとまた謝られてしまう。
それだけは、嫌だった。
病院を出ると、雨はまだ降っていた。
細くて柔らかい雨。
夜の雨。
街灯の下で、白く光って見える雨。
私は傘を開いた。
ビニール傘に、ぽつぽつと音がする。
歩道に出る。
病院の前の道路は、昼よりずっと静かだった。
タクシーが一台、ゆっくり通り過ぎる。
その向こうに、黒い車が停まっていた。
やけに静かな車だった。
雨に濡れて、車体が街灯を鈍く映している。
後部座席の窓は反射していて、中は見えない。
私は足を止めた。
別に、珍しい車ではない。
病院の前に車が停まっていることくらい、普通にある。
普通。
普通のはずなのに。
ふわっと、白い花の匂いがした。
ジャスミン……じゃない。
でも、それに似た、もっと深くて甘い匂い。
私は傘の柄を握りしめた。
見られているって、そう思った。
誰に、とは言えない。
車の中に人がいるかどうかもわからない。
ただ、そう思った。
怖い。
怖いはずなのに。
その時だけ、背中に当たる雨が、少しだけ冷たくなくなった気がした。
黒い車は、しばらくそこにあった。
私が歩き出しても、追ってはこなかった。
ただ、そこにあった。
夜の一部みたいに。
私は振り返らずに歩いた。
いい子でいなきゃ。
ちゃんとしてなきゃ。
耐えなきゃ。
そう思うたびに、胸の奥が少しずつ詰まっていく。
でも、止まれない。
だって、お母さんはまだ起きない。
私が止まるわけにはいかない。
雨の音が、傘の上でずっと鳴っていた。
傘の上で、
たっ。
たっ。
たっ。
と、雨が鳴る。
まるで誰かが小さく数を数えているみたいに。




