後編①家族
ジェシカが身ごもった年の冬は、例年より雪が多かった。
アルディアの石畳には白い雪が厚く積もり、《薬草亭》の窓辺には湯気が立っている。
顔色の悪いジェシカがソファで横になっている。
「つわり、おさまった?」
コートを脱ぎながらマークが小声で聞く。
「うん、やっと」
ジェシカは苦笑した。
産み月までまだまだ遠いはず。それでも他の人よりだいぶおなかが大きい。
つわりも終わらない。けれど不思議と辛くなかった。
眠れない夜も。苦しい朝も。それも含めて全部が愛おしかった。
「どっちかねぇ」
「うちは女系だし女の子かしら?でもマークのところは2人とも男よね」
「きっとどっちでもかわいいよ」
ジェシカのおなかをなでながらマークが言う。
そんな穏やかな日々の一方で、ルーンベック村では、別の時間が流れていた。
―――――
ジャスミンとグレンは、ジェシカが村を去った半年ほど後に結婚した。
盛大な式ではなかったが、村長の家との結びつきは村にとって重要だったため、多くの人が祝福した。
ベンもどこか安心したようだった。
――これで大丈夫だ。店は続いていく。
そう信じたかった。
だが現実は、思っていたよりずっと厳しかった。
「今日はこれだけか……」
店のカウンターで、ベンがため息をつく。
机の上に並ぶのは、わずかな魔石と牙。以前ジェシカが一人で持ち帰っていた量にも届かない。
ベンは確かに迷宮に戻れた。しかし、二年間の空白は大きかった。体力も感覚もだいぶ落ちている。ジャスミンとグレンが結婚するまでの半年で取り戻せると思っていたが、体は全然思い通りに動いてくれない。以前のようになるには、休んでいた以上の時間がかかるだろう。
それにグレンは探索者としての経験が浅い。また、突出した実力があるわけではない。ジェシカたちと一緒に迷宮に潜っていればもっと強くなっていたかもしれないが「ジェシカが迷宮に潜るなら自分は店の方を切り盛りするよ」と言って、結局ジャスミンと戯れ合っていただけだった。
だから当然、ベンとグレンは全く噛み合わなかった。
「そっち見てろって言っただろ!」
「親父さんが突っ込みすぎなんだよ!」
大きな怪我はないものの小さな怪我は増え、収穫は少ない。
店の商品も、徐々に質が落ちてると言われるようになってしまった。
迷宮でも家でも口論が増え、家の空気も少しずつ荒れていく。
「これだけしか稼げなかったの?」
ジャスミンは苛立ちを隠さなくなった。
「そんなこと言ったってなぁ……」
「店の商品も減ってるし!」
「俺だって頑張ってる!おまえも薬草とか取りにいって来いよ!」
グレンも声を荒げる。ベンは黙り込む。
食卓には重い沈黙が落ちた。
ジュディーはそんな家に耐えられなくなっていた。
ジェシカがいた頃も貧しかったけど、まだよかった。迷宮での稼ぎが少ない時はみんなで薬草採取をした。ジェシカは文句も愚痴も言わなかったし、家はいつも明るく和やかな空気だった。
だから、自分もかつての姉のように、迷宮に潜ってみたが、魔物に遭遇したら足が震え、体が動かず、まったく役に立てなかった。薬草採取に行っても、量も、質も、ジェシカのようにはいかない。
いなくなって、ようやく、みんな気づき始めていた。
今までどれだけジェシカに頼っていたのかを。
店も、家も、ジェシカが支えていた。
―――――
ある春の日、ジュディーは小さな荷物を抱え、アルディアへ向かう馬車に乗った。
マークの両親が、ジュディーだけにこっそり教えてくれたジェシカの居場所。くれたアルディアまでの旅賃。
家族には「隣町へ出稼ぎに行く」とだけ告げた。本当の行き先を知られたくなかった。
もし知られたら、きっと止められる。
あるいは、「ジェシカに実家を援助するように言え」と言われるだろう。
それが嫌だった。
アルディアに着いた時、ジュディーはひどく緊張していた。
ジェシカが家を出たあのとき、自分は何もできなかった。
《薬草亭》の前で何度も深呼吸する。
扉を開けると、薬草の香りが広がった。
「いらっしゃ――あれ?」
ジェシカが目を丸くする。
大きなお腹を抱えた姉を見た瞬間、ジュディーは泣きそうになった。
「お姉ちゃん……」
「ジュディー!?」
次の瞬間、ジェシカはぱっと顔を明るくした。
「ちょうどよかった!!」
「……え?」
「今お腹重くて動くの大変だったの!」
ジェシカは本当に嬉しそうだった。
「洗濯とか子守りとかどうしようって思ってたんだよね!お給料出すから手伝って!」
ジュディーは呆然とする。責められるかもしれない。迷惑かもしれない。そう思っていた。
なのに。
「ほら、入って!寒かったでしょ!」
ジェシカは昔と変わらない笑顔でジュディーの手を引いた。
ジュディーはその場で泣いた。
マークもエルザも、ジュディーをやさしく受け入れてくれた。
「妹さんかい。似てるねぇ」
エルザが笑う。
「よろしくお願いします……!」
緊張するジュディーに、マークは温かい茶を差し出した。
「ここでは気楽にしてていいよ。ジェシカのこと、助けてやってほしいんだ」
その言葉に、ジュディーはまた泣きそうになった。
マークは両親から家の話を聞いていたようで、ジュディーがジェシカのようにならないためにあの旅賃を用意したのだと、あとでこっそり教えてくれた。
ジェシカは積極的にジュディーを街の人に紹介した。
「妹のジュディーよ!」
「今うちのこと手伝ってくれてるの!」
近所の住人、市場の人、探索者仲間、街の婦人会。
アルディアの人々は気さくで、ジュディーを歓迎した。
ルーンベックではいつも家の空気を読んでいたジュディーも、少しずつ笑うようになる。
―――――
やがてジェシカは無事に双子の赤ん坊を産んだ。
マークは泣いた。ジュディーも泣いた。
エルザは「やかましいねぇ」と言いながら目を赤くしていた。
ジュディーは慣れない手つきで赤ん坊を抱き、毎日姉とともに奮闘した。
「首!首大丈夫!?」
「大丈夫だって」
「怖いぃ……!」
そんな日々が続くうちに、ジュディーも街に馴染んでいった。
そしてジェシカの子育てが落ち着き始めた頃、ジュディーは南区画の食堂で働き始めた。
店主夫婦は優しく、賄いも美味しかった。特に店主の息子、アルフがよく気にかけてくれた。
「重いの持つよ」
「ありがとう」
「今日忙しかったよなー」
最初はただの同僚だった。けれど少しずつ距離が縮まる。閉店後、一緒に片付けをする時間が楽しくなる。
ジュディーが笑う回数も増えた。
ある日、ジェシカがにやにやしながら聞く。
「ジュディー、最近楽しそうだね?」
「えっ!?べ、別に!」
「ふーん?」
ジュディーは真っ赤になった。
―――――
一方、ルーンベック村では、ジャスミンとグレンの喧嘩が絶えなくなっていた。
「なんでこんな生活なのよ!」
「仕方ないだろ!」
「ジェシカならもっと稼げてたのに!」
その言葉に、グレンが怒鳴る。
「だったら俺じゃなくてほかのやつと結婚すればよかっただろ!」
言ってから、二人とも黙った。
ベンは酒を飲む量が増えていた。
誰も幸せじゃなかった。
結局、グレンは耐えきれず実家へ戻った。
ジャスミンは泣きながらベンに叫ぶ。
「こんなはずじゃなかったのに!」
ベンも同じことを思っていた。
きっと3人とも、同じことを思っていた。
だが、もう遅かった。




