細すぎる糸
それからしばらくして、配信者はまた女の名前を聞いた。
もう驚かなかった。
最近では、仕事の途中や誰かとの雑談の中で、不意にその名前が出てくることが珍しくなくなっていた。
「そういえば、○○さんと一緒に仕事してるみたいですね」
その名前を聞いた瞬間、持っていたカップが止まった。
「○○さん?」
「はい。ご存じですか?」
「知ってるで。会ったことはないけどな」
よく知っている名前だった。
同じ世界にいる人間なら、一度くらい耳にしたことがあるだろう。何をしているのかも知っているし、過去の仕事もいくつか見たことがある。
「へえ。あの人と仕事してんねや」
「みたいですよ。この前、直接話したって言ってました」
「直接?」
「はい」
そこで会話は別の話題へ移った。
配信者もそれ以上は聞かなかった。
その日の夜。
配信前の準備をしながら、昼間に聞いた名前をもう一度思い出した。
知らない世界の人間ではない。
まったく手の届かない相手でもない。
自分からなら、まず一人いる。
その人に聞けば、おそらく別の人間を紹介してもらえる。
そこから、もう一人。
うまくいけば、その先で本人まで届くかもしれない。
頭の中で人の顔を辿っているうちに、マウスを動かしていた手が止まった。
――二人……いや、三人か。
届かないわけではない。
時間を掛ければ、話をするところまで行けるかもしれない。
その程度の距離だった。
――でも、あの女。
昼間に聞いた言葉を思い出す。
『この前、直接話したって言ってました』
先生は椅子の背にもたれた。
――もう、そこにおるんや。
妙な感覚だった。
女が遠くへ行ったというだけなら、もっと単純だったかもしれない。
自分の知らない業界へ行った。
自分には理解できないことを始めた。
それなら、最初から別の世界だと思える。
けれど違う名前を知っている。
何をしている人間なのかも分かる。
自分からでも、辿れば届く。
ただ、その間にいる人間の数が違った。
配信者は机の上のスマートフォンを手に取った。
女との連絡先を開く。
そこに名前はある。
押せば、今でも直接届く。
関係が切れたわけではない。
――切れてへん。
画面を見たまま、親指を止める。
――せやのに、なんでこんな遠いんやろ。
しばらくして、連絡先を閉じた。
その時、別の通知が入った。
仕事関係のメッセージだった。
内容を読むと、そこにも一人の名前が書かれていた。
知っている人間だった。
その名前から、別の人間を思い出す。
そこからさらに、もう一人。
いつもなら何とも思わない。
人と人のつながりなど、そんなものだった。
直接知っている人間もいれば、誰かを介して知る人間もいる。必要なら紹介してもらい、その先でまた別の人間と出会う。
女も、以前はそうだった。
誰かの名前を知る。
その人間へ近づく方法を探す。
分からなければ聞く。
自分にも、何度も聞いてきた。
ところが今は、その途中がない。
少なくとも、自分から見える範囲では。
気づいた時には、女はもうその人間と話している。
あるいは、その先へ行っている。
配信者はスマートフォンを机へ置いた。
――そら、聞いてこんわな。
初めて、その言葉が自然に出た。
聞く必要がない。女にはもう、自分以外の道がある。
それも、一つではない。
自分からなら何人かを辿らなければ届かない場所へ、もっと近いところから伸びている道がある。
それだけのことだった。
配信開始まで、まだ少し時間があった。
配信者は椅子から立ち、飲み物を取りに行った。
戻ってくる途中で、机の上のスマートフォンが目に入る。
女の連絡先は、そこにある。
何も切れていない。
話そうと思えば話せる。
聞こうと思えば、近況だって聞ける。
けれど、そこでふと考えた。
――俺から、今あの女に何渡せるんやろ。
足が止まった。
本なら知っている。
話せることもある。
紹介できる人間だっている。
何もなくなったわけではない。
――あるやろ。
そう思った。
――まだ、いくらでもある。
それも嘘ではなかった。
配信者が持っているものの価値がなくなったわけではない。
ただ。
昼間に聞いた名前が、また頭に浮かんだ。
自分なら、二人か三人を辿る。
女は。
もう直接話している。
配信者は椅子へ戻った。
配信画面を開く。
開始時刻が近づいている。
マイクを確認しながら、何気なく指先でケーブルをなぞった。
細い。
一本だけなら、簡単に指へ引っ掛かるほどの太さしかない。
配信者は、その指を離した。
――糸が切れたんやない。
画面に開始を知らせる表示が出る。
――こっちの糸が、細すぎるんや。
「こんばんは」
いつもの声で、配信を始めた。




