聞こえてくる
配信者が女の名前を聞いたのは、仕事の合間だった。
「そういえば、この前○○さんとお会いして」
何気なく出てきた名前に、顔を上げた。
知っている。
少し前までなら、女本人から先に聞いていたような話だった。
「へえ。何してたん?」
「今度一緒にやることがあるみたいですよ。詳しくは聞いてないですけど」
「そうなんや」
自然に笑った。
女は昔から、一つ教えれば、そのまま受け取るだけでは終わらなかった。知らないことがあれば自分で調べ、そこで別のものを見つければ、いつの間にか教えた側の知らないところまで行っている。
今回も、その延長なのだろう。
ただ、相手の口にした「今度一緒にやる」という言葉だけが、妙に耳に残った。
指先で弄んでいたペンが止まった。
――いつ決まったんやろ。
聞こうかと思った。けれど、すぐに思い直した。
何でも自分に報告するような関係ではないし、そんな約束をしたこともない。
――せやけど、前やったら聞いてた気ぃするけどな。
止まっていたペンを置いた。
その頃には話題も別のものへ移っていた。
数日後。
また女の名前を聞いた。
今度は別の人間からだった。
「先生、あの人知ってますよね?」
「知ってるで」
「あの人、この前△△のところにいましたよ」
「へえ、そうなん」
初めて聞く話だった。
「なんか、いろいろやってますね」
「せやな」
それだけ答えた。
その夜、配信の準備をしている時になって、昼間に聞いた話を思い出した。
△△という名前は知っている。
直接会ったことはないが、何をしている人間なのかは分かる。
女がそこへ行ったこと自体に驚きはなかった。
機材を確認していた手が止まる。
――あの女やったら、行くやろな。
むしろ、納得できる。
引っ掛かっているのは、そこではない。
机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。
――知らんかったな。
女とのやり取りは残っている。
最後に連絡を取ったのも、それほど昔ではない。関係が途切れたわけではなく、会話そのものがなくなったわけでもない。
ただ、内容は少しずつ変わっていた。
以前は、女が知らない本や人のこと、聞き慣れない言葉や考え方について、よく質問が届いていた。
『先生、この人知ってます?』
『これってどういう意味ですか?』
『先生ならどう思います?』
そんな問いに答えることが多かった。
それが少しずつ減り、代わりに報告が増えた。
これをやった。
こうなった。
今度はこれをやる。
そして最近は、その報告さえ以前ほど届かなくなっている。
配信画面を開こうとして、マウスを持った手が止まった。
――せやからか。
女が何をしているのかを、本人ではなく他の人間から聞くことが増えた。
しばらく考えて。
小さく首を振った。
――いや。先に聞いてるんやないな。
今日の話もそうだった。
女はすでにその場所へ行っている。
何かを始めている。
それが別の人間へ伝わり、しばらくしてから自分のところへ届く。
――もう、終わったあとに聞いてるやん。
思わず笑った。
何を気にしているのか、自分でもよく分からなかった。
女が自分で動けるようになった。知っている人間も増え、相談できる相手も増えた。それなら、何でも一人の人間に聞く必要などない。
配信開始の時刻が近づいていた。
マイクの位置を直し、椅子へ座る。
――ええことやん。
画面に開始を知らせる表示が出る。
――ほんまに。
「こんばんは」
配信が始まった。
コメントを読み、笑い、流れていく話題に合わせて次の話をする。
始まってしまえば、女のことを考える時間はなかった。
終わったのは、それから数時間後だった。
配信を終了し、機材を片付ける。
照明を一つ消した時、机の上のスマートフォンが震えた。
反射的に画面を見る。
仕事の連絡だった。
内容を確認して短く返信し、スマートフォンを置こうとしたところで、手が止まった。
――なんや。
一瞬。
女かと思った。
その事実に気づいて、少し可笑しくなった。
――何を期待してんねん。別に今日、連絡するなんて言うてへんやろ。
スマートフォンを机へ置き、残っていた照明を消した。
部屋が暗くなる。
鞄を持ち、帰ろうとした時、またスマートフォンが震えた。
足が止まった。
暗い部屋の中で、画面だけが白く光っている。
すぐには手を伸ばさなかった。
数秒待ってからスマートフォンを取る。
別の通知だった。
画面を見たまま、息を吐いた。
――そらそうや。
通知を消した。
女から連絡が来なくなったわけではない。
嫌われたわけでもない。
何かが終わったわけでもない。
客観的に見れば、何もおかしなことはなかった。
それでも、スマートフォンを鞄へしまうまでに少し時間が掛かった。
――何も変わってへん。
そう思ってから。
なぜか、もう一度考えた。
――……ほんまに?
答えは出なかった。
部屋を出る。
扉を閉めると、誰もいなくなった部屋の明かりが完全に消えた。
その日、女からの連絡はなかった。




