巣の中
誘われた集まりは、先日の発表会とはまるで違う場所だった。
壇上もなければ決められた席もなく、ホテルの一室に用意された丸いテーブルの間を、人が自由に行き来している。窓際には料理と飲み物が並び、三十人ほどの参加者がグラスや皿を手に、それぞれ小さな輪を作って話していた。
女は、先日の発表会で声を掛けてきた男と一緒に会場へ入った。
「こっちです。紹介したい人がいるので」
連れて行かれた先には二人の男がいた。
一人は事前に聞いていた名前だったが、もう一人は知らない。
挨拶を交わし、最初は先日の発表について話した。何を変えたのか、なぜその方法を選んだのか、結果が出るまでにどれくらい掛かったのか。女が答えるたびに質問が返り、やがて話題は発表内容から離れて、それぞれが経験した失敗や、今抱えている問題へ移っていった。
その途中で、一人が何気なく言った。
「それなら、○○さんのところが似たことをやってますよ」
女は知らない名前に顔を上げた。
「どういうことをされている方ですか?」
説明を聞いているうちに、単なる興味では終わらなくなった。
その方法なら自分の仕事にも使えるかもしれない。しかし同じ条件ではない。ならば、どこを変えれば使えるのか。その人間はなぜその方法を選び、実際にはどこで失敗したのか。
聞きたいことが次々と浮かんでくる。
すると、隣にいた男が話に加わった。
「○○さんなら、△△さんとも一緒にやってましたよね」
「ああ、そうそう。むしろ最初にやり始めたのは、あっちだったかな」
また知らない名前が出た。
一人の話をしていたはずなのに、その人間がしている仕事を聞けば過去の経験へつながり、その経験には別の人間が関わっていて、さらにその人間にも違う仕事や考え方がある。
話題は一つのところに留まらなかった。
目の前の人間がどんな仕事をしているのかという話から、過去に失敗した方法、その失敗をどう立て直したのか、そこで誰と出会い、何を教わり、それが今の仕事へどうつながっているのかまで、話せば話すほど新しい情報が現れた。
一人の人間について聞いているはずなのに、その人間だけでは終わらない。
名前の向こうに仕事があり、仕事の向こうに経験があり、その経験を辿れば、また女の知らない誰かがいる。
女はそれが面白かった。
一つ知れば、それまで見えていなかったものが見える。ところが見えた途端、そのさらに奥が気になり、話を聞けば聞くほど世界が広がっていくのに、満たされる感覚はなかった。
むしろ、もっと知りたくなる。
その先も見たくなる。
話を聞くことに夢中になり、女はいつの間にか料理へ伸ばしかけていた手を止めていた。
「そうだ」
男の一人が会場の奥へ目を向けた。
「本人、今日来てますよ」
女もそちらを見た。
少し離れたところで、数人に囲まれて話している人間がいる。
「あの方ですか?」
「そうです。呼びましょうか」
女はすぐには答えなかった。
さっきまで名前しか知らなかった人間が、同じ部屋にいる。
会えば話せる。
聞けば、先ほど疑問に思ったことの答えが得られるかもしれない。そして、その答えの中には、おそらくまた女の知らない何かがある。
そう考えた時、腹の奥底がゆっくりと蠢いた。
ほんの一瞬では終わらなかった。
何かを迎え入れるように奥へ広がり、そこにあったはずのものまで押し退けて、さらに深いところへ空白を作っていく。
「お願いします」
女は笑った。
男が相手を呼びに行く。
その背中を見送りながら、何気なくテーブルの上に置いた自分の皿を見ると、料理にはほとんど手をつけていなかった。
ここへ来る前には、確かに腹が減っていた。
けれど今は、目の前の料理を食べたいとは思わない。
それなのに、腹の奥底に生まれた空白だけは消えていなかった。
少しして、男が戻ってきた。
その隣には、さっきまで名前しか知らなかった人間がいる。
「紹介します」
女は顔を上げ、挨拶をした。
実際に話してみると、想像していたよりずっと面白かった。
一つ尋ねれば、答えだけではなく、なぜそう考えたのかまで返ってくる。その理由について聞けば過去の失敗へ話が移り、失敗をどう解決したのかを尋ねると、そこでまた別の方法や人間の名前が出てきた。
女は質問を重ねた。
知りたかったことが一つ分かるたびに、その周囲に新しい疑問が増えていく。
知らないことは、知れば減るものだと思っていた。
ところが実際には、一つ知ることで、それまで存在していることすら知らなかったものがいくつも見えるようになる。
減らない。
増えていく。
女は時間を忘れて話を聞いていた。
気がつけば、最初に一緒に話していた人間たちは別の場所へ移り、代わりに目の前には、ここへ来るまで名前すら知らなかった人間が何人もいる。
そのうちの一人が、通りかかった知人を呼び止めた。
「ちょうどいい。この人にも聞いてみたら?」
また紹介された。
話している途中で、さらに別の人間が加わった。
会場のあちこちから笑い声が聞こえ、グラスが触れ合う音や、誰かを呼び止める声が重なっている。その中から知らない名前が聞こえるたびに、女の意識は自然とそちらへ向いた。
無理に探しているわけではなかった。
一人と話しているだけで、その人間が次の人間を連れてくる。そこで交わされた話が別の話を呼び、また新しい人間が加わっていく。
女はほとんど同じ場所に立ったままだった。
それでも、自分の周囲だけが少しずつ広がっていく。
知らない人間ばかりの場所だった。
初めて来た会場だった。
それなのに、不思議と居心地がよかった。
女はその理由を考えなかった。
ただ、帰る頃には、ほとんど手をつけなかった皿だけがテーブルに残っていた。




