私のその先
女は、自分の名前が呼ばれるのを聞いていた。
少し離れたところから聞こえたかと思えば、別の場所でも聞こえる。振り返れば知っている顔があり、その隣には知らない顔があり、以前ならこちらから近づかなければ言葉を交わすこともなかった人間まで、今日は女を見つけると向こうから歩いてくる。
不思議ではなかった。
もう、誰かが女を知っていることも、まだ会ったことのない誰かが女の名前を知っていることも、初対面の人間から「一度お会いしたかった」と言われることも、珍しいことではなくなっていた。
女は笑う。
いつものように。
「ありがとうございます」
また一人が近づいてくる。
「以前からお話ししたくて」
その後ろにもいる。
「今度ぜひ――」
さらに向こうから、こちらを見る人間がいる。
一人一人が何者なのかを急いで確かめようとは思わなかった。名刺を受け取った瞬間にその名前を覚え、その夜のうちに何者なのかを調べ、そこから何が繋がるのかを探していた頃とは違う。
急がなくていい。
どうせ、来る。
女の前で誰かが話し、その隣から別の声が入り、少し離れたところではまた誰かが女の名前を口にする。笑い声の向こうに人がいて、その人の向こうにも人がいて、さらにその先にも、まだこちらを知らない人間がいる。
けれど、もう遠いとは思わなかった。
女は会場を見渡した。
広い。
それでも、遠くない。
以前は、自分がその距離を埋めていた。一つの名前を見つけ、その向こうを覗き、そこに別の世界があると知れば、また手を伸ばした。届かなければ別の道を探し、細い糸しかなければ切れないように辿り、その先にいる人間へ近づいていった。
今は違う。
女が動かなくても、距離の方が縮まってくる。
誰かが誰かを連れてくる。誰かが女の名前を口にし、それを聞いた誰かが、また女を見る。
女はその流れの中で、自分がどこにいるのかを初めて意識した。
端ではなかった。
もう、糸の先でもなかった。
誰かを辿った、その向こう側でもない。
中心だった。
腹の奥が、ゆっくりと蠢いた。
女は笑った。
目の前の人間も笑っている。
その人間が何かを話し始めると、女は聞いた。けれど、もうその一人だけを見てはいなかった。
声の向こうに別の声がある。その向こうにも人がいる。知っている顔も、知らない顔も、まだ名前すら知らない顔も、どこを見ても人がいる。
腹が減った。
女はもう、それを別の何かと間違えなかった。
空腹だった。
けれど、困らない。
女はゆっくりと会場を見渡した。
これだけある。
少し離れたところに、男がいた。
誰かと話しながら、いつもの顔で笑っている。
何でもない男だった。
昨夜、床へ両膝をつき、鏡の中の誰かへ縋りながら、自分を喰ってくれと懇願していた男など、最初からどこにもいなかったように見える。
女と目が合った。
その瞬間だけ、男の顔から周囲へ向けていた笑みが消えた。
女の周囲には人がいる。
一人が話しかけ、女が笑う。
その隣からまた誰かが加わり、女はそちらへ顔を向ける。
また一人。
さらに一人。
女の前へ、自分から入ってくる。
男はそれを見ていた。
昨夜、鏡の前で見ていたものが、今は目の前にある。
女が喰っている。
一人ではない。
こんなにも。
男の喉が、僅かに動いた。
呼吸が深くなる。
口元が、ゆっくりと歪んだ。
嬉しそうにも見えた。
苦しそうにも見えた。
あるいは、そのどちらでもない何かに、ひどく満たされているようにも見えた。
女はそんな男を見て、笑った。
男も笑う。
それだけだった。
男が昨夜どんな姿で床にいたのか、女は知らない。
何を口にしたのかも。
何を望んだのかも。
知らない。
ただ、男が自分を見る時、時々ひどく嬉しそうな顔をすることだけは知っていた。
女はもう一度笑うと、別の声へ顔を向けた。
男は、そのまま見ていた。
やがて、女の名前が呼ばれた。
女は前へ出た。
あの時とは違う。
あの時は、自分の名前で表へ出ることそのものが、まだ新しかった。
今日は。
その名前を知っている人間が待っていた。
女が話し始めると、会場が静かになった。
たくさんの顔がこちらを向く。
その一つ一つを見ながら話しているうちに、女は奇妙な感覚を覚えた。
以前は、向こう側を見ていた。
知らない世界があれば覗きたかった。知らない人間がいれば、その人が何を知っているのか欲しかった。一つ手に入れば、その向こうにまだ何かがある。
だから進んだ。
ずっとその先へ、その先へ。
けれど今、自分の前にいる人間たちは、こちらを見ている。
女の言葉を聞いている。
女の名前を知っている。
女が何を知っているのか。
何をしてきたのか。
何を考えているのか。
それを知ろうとしている。
昔は、自分が向こう側を覗いていた。
今は。
向こう側から、こちらを覗いている。
女は話しながら、僅かに笑った。
腹の奥が蠢く。
話し終えると、拍手が起きた。
音が広い会場を満たし、その向こうには、たくさんの人間がいる。
知っている人。
今日初めて会った人。
まだ話していない人。
これから会う人。
名前すら知らない人。
女はその全てを、一つの大きな景色として見た。
腹の奥が、また蠢いた。
一人ではない。
二人でもない。
数える必要もなかった。
女は笑った。
こんなにある。
会場を出るまでに、何度も呼び止められた。
女は笑い、言葉を交わし、また次へ進んだ。
誰かを追う必要はない。
急ぐ必要もない。
取りこぼすことを怖がる必要もない。
女がそこにいれば。
来る。
*
夜。
部屋へ戻った女は、鞄を置いた。
端末にはいくつもの連絡が届いていた。今日会った人からのものもあれば、会場では話せなかった人からのものもあり、次の日程を尋ねるもの、また別の誰かを連れて行きたいというものもあった。
女はそれを眺めた。
以前なら、全部をすぐに開いただろう。
今は、端末を置いた。
急がなくていい。
明日になっても。
まだある。
明後日になれば。
また増える。
女は椅子へ身体を預けた。
静かな部屋だった。
腹は満たされている。
今日だけで。
充分に。
目を閉じると、たくさんの顔が浮かんだ。
そのどれもが。
こちらを向いていた。
昔、女は。
誰かのその先を見ていた。
今は。
私のその先に。
人がいる。
女は目を開けた。
暗くなった端末の画面に、自分の顔が映っている。
笑っていた




