残る男
次は誰がいいだろう。
そんなことを考える時間が、いつの間にか男の日常の中へ入り込んでいた。仕事をしていても、人と話していても、ふと目の前の人間を女の前へ座らせた時のことを考え、この人間なら何に食いつくだろう、どの言葉であの目に変わるだろう、どこまで欲しがるだろうと想像しているうちに、まだ何も始まっていないはずの光景が勝手に形を持ち、そこにはもう、いつもの顔で笑っている女がいる。
相手も笑っている。自分が何を差し出そうとしているのかなど知りもしないまま楽しそうに話し続け、その中の何かへ女が僅かに身を乗り出す。その程度の変化なら、目の前にいる本人ですら気づかないだろうし、少し離れたところにいる人間ならなおさら分からない。
けれど、男には分かる。
女の目の奥に何かが灯り、声も表情もほとんど変わらないまま、目の前にあるものへ食いついた瞬間が。
あ。喰ってる。
そう思うだけで身体の奥へじわりと熱が広がり、まだ女などそこにはいないというのに、指先にまで細かな震えが伝わってくる。
想像の中では相手がさらに話し、女は笑いながらそれを受け取り、相手は女が楽しそうに聞いてくれることを喜んでもっと話し、もっと差し出していく。何を渡しているのかも、それが女の中へどれほど深く入り込んでいるのかも知らないまま、ただ自分の話を喜んで聞いてくれる女に気をよくして、その口から次々と何かを吐き出していく。
女は喰う。
その様子を少し離れたところから見ている自分まで思い浮かべると、男の口元は勝手に緩んだ。
たまらない。
何が、とは考えない。
考える必要もなかった。
女が欲しがれば欲しがるほど相手も嬉しそうになり、相手が差し出せば差し出すほど女の目は深くなっていく。その変化を自分だけが知っていると思うと、身体の内側に溜まった熱は逃げ場を失うように濃くなり、息を吐いても消えてくれなかった。
もっと見たい。
もっと喰えばいい。
もっと欲しがればいい。
まだ足りないという顔をすればいい。
女が喰えば男はそれを見て、その目が満たされたと思った次の瞬間にはもう別の何かを欲しがるのを見つけ、そのたびに次は何ならもっと喰う、次は誰ならもっとあの目を見せると考える。そうしてまた女の前へ何かを置き、女がそれを喰らい、自分の想像を越えてさらにその向こうへ手を伸ばすのなら、また次を考えればいい。
終わらない。それがいい。
終わらなければいい。
女が満たされ、その直後にはまた腹を空かせ、別の何かへ目を向ける、その繰り返しをずっと見ていられるのなら、それでいい。
この前もそうだった。
女が喰っている時、男はあの目を見ていた。
相手は笑っていた。女も笑っていた。傍から見れば何でもない時間の中で、女だけが静かに喰っていて、男だけがそれに気づいていた。
思い出すだけで身体の奥がまた熱を持つ。
男は椅子へ深く身体を沈め、ゆっくりと息を吐いた。
それでも熱は消えなかった。
むしろ、目を閉じれば鮮明になる。
女の目、僅かに傾く身体、笑った口元。
その奥で、もっと、と欲しがっている何か。
それを見ていた自分。
また見たい。
次も、その次も、、、、、何度でも。
女が喰い続ける限り、自分はそれを見ていられる。
そんな光景をどこまでも続けていた時、ふいに、まるで自分ではない誰かが頭の中へ落としたように、一つの言葉が浮かんだ。
いつまで?
男の笑みが止まった。
次がある。その次もある。まだいる。女が知らない人間などいくらでもいるはずなのに、一人を思い浮かべれば女が喰い、次を浮かべればまた喰い、その次を置けばそれも喰う。
さっきまでなら、それが嬉しかった。
もっと、としか思わなかった。
けれど、一人ずつ女の前へ置いているうちに、男は初めて、その光景の向こう側に何もない場所を見た。
次を探す。
まだいる。
あの人間なら。
いや。
その人間も、もう女の前に座っている。
女が笑う。
喰う。
なら、次は。
また浮かべる。
女が喰う。
次、ーーーーまた、次。
浮かべるそばから女が喰っていき、男は焦るようにその先を探した。まだいるはずだ、もっといる、女が知らないものなどいくらでもある、そう思っているのに、思い浮かべた瞬間にはもう女の前に座り、女は笑いながらそれを喰ってしまう。
やがて。
誰も浮かばなくなった。
女だけがいた。
腹を空かせて。
こちらを見ていた。
男は探した。
何かあるはずだった。
まだ女が知らないもの、まだ欲しがるもの、まだ喰えるものを探せばいいだけなのに、どこを探しても何もなく、自分の手にはもう何も残っていなかった。
女が男を見る。
何も持っていない男を。
その目が、逸れた。
待って。
女の向こうに誰かがいる。男の知らない人間。
女がそちらを見る。
待って。
笑う。
「待って」
その人間が何かを話す。女の目が変わる。
分かる。
男には。
分かってしまう。
喰っている。
「待って」
自分が何もしていないのに。
自分がそこにいなくても。
「待って」
女が喰っている。
「違う」
また誰かが来る。
女が笑う。
「待って」
また喰う。
「まだある」
ない。
「あるから」
ない。
「まだあるから」
何が?
「待って」
女が遠くなる。
「行くな」
違う。
行くなじゃない。どこへ行ってもいいから、誰に会ってもいいから、、、
もっと喰えばいい。もっと遠くまで行けばいい。
ずっとそう思っていた。
今だってそう思っている。
なのに、そこに。
自分だけがいない。
「待って」
女が遠くなる。
「待ってくれ」
見えなくなる。
「待って」
女が喰っているところが。
見えない。
「嫌だ」
見たい。
「嫌だ」
まだ。
「嫌だ」
見ていたい。
「待って」
何か。
まだ何かある。
「あるから」
ない。
「まだある」
ない。
「ある」
何が、男は自分の手を見る。
空だった、何もない。
それでも。
まだ。
「俺」
声が漏れた。
「俺がいる」
女は遠い。
「まだ俺がいる」
何を言っている。
分からない。
もう。
どうでもいい。
「俺も」
喉が震える。
「俺もいるから」
女は振り返らない。
「喰って」
声が掠れた。
「俺を喰って」
女が遠ざかる。
「お願いだから」
止まらない。
「俺も喰ってくれ」
まだ。自分がある。
何もなくなっても。
最後に、自分が残っている。
「俺ならまだいる」
息が続かない。
「全部」
喉の奥から声を絞り出す。
「全部やるから」
女が見えなくなる。
「だから」
見たい。まだ、もっと。
「俺を喰って」
喰われれば、なくなる。
それでも。
「喰ってくれ」
女が喰うなら。
「お願いだから」
その顔を。
「見せて」
まだ。
「見ていたい」
喰われながらでも。
最後まで。
「だから」
男は手を伸ばした。
「俺を――」
指先が何かに触れた。
冷たい。
その感触だけが、熱に浮かされた男の中へ異物のように入り込み、男はようやく顔を上げた。
目の前に、誰かがいた。
床へ両膝をつき、髪を乱し、浅い呼吸を繰り返しながら片手を伸ばして、まるで向こう側にいる何かへ縋りつこうとしている男がいた。その顔は苦痛に歪んでいるようにも、泣き出す寸前のようにも見えるのに、口元だけには消えきらない笑みが残り、伸ばされた手は何かを求めるようにこちらへ向けられている。
誰だ?
一瞬、本当にそう思った。
伸ばした自分の指先と、向こうから伸びてくる男の指先が重なっている。
そこで初めて、自分が触れているものを見た。
鏡だった。
「……え」
男はしばらく動けなかった。
鏡の中の男も、床へ両膝をついたまま動かない。
いつ椅子を離れたのか分からなかった。いつ床へ膝をついたのかも、いつ鏡へ手を伸ばしたのかも、どこから声に出していたのかも分からず、さっきまで確かに目の前にいたはずの女を探すように振り返って、そこでようやく、静かな部屋の中には最初から自分しかいなかったのだと理解した。
女はいない。
誰もいない。
荒くなった自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえていた。
男はもう一度、鏡へ顔を向けた。
そこには、床へ両膝をつき、何かに縋りつくように片手を鏡へ押しつけた男がいる。
「……何してんだ、俺」
当然、鏡の中の男は答えなかった。
手を離そうとした。
けれど、すぐには離れなかった。
いや。
離せなかった。
鏡の向こうに女などいないことは分かっている。それなのに、ついさっきまでそこには女がいて、自分を見ずに別の誰かを喰い、その姿が遠ざかり、見えなくなることに耐えられなくなった自分は、最後には自分自身まで差し出そうとしていた。
男は自分の手を見た。
何も持っていない手。
その手を鏡へ押しつけたまま、自分を喰ってくれと懇願していた。
頬が熱い。
指が震えている。
喉は乾き、呼吸はまだ完全には戻らない。
それなのに。
鏡の中の男の口元には、まだ笑みが残っている。
男はその顔を見つめた。
酷い顔だった。
追い詰められ、何かに縋りつき、自分でも何をしているのか分からなくなった人間の顔をしているはずなのに、その口元に残っているものだけが、どうしてもそれと噛み合わない。
もし、本当に何もなくなったら?
もし、本当に女の前へ自分だけを差し出したら?
女は。
どうする。
どういう目で。
自分を・・・・
男の指が、鏡の上を僅かに動いた。
さっきまでの光景が、完全には消えていなかった。
女がこちらを見る。
今度は何も持っていない自分を見る。
それでも立ち去らず。
こちらへ来る。
あの目で。
自分を。
その先を想像しかけた時。
音がした。
男の肩が跳ねた。
その一音で、部屋の輪郭が急に戻ってきた。壁があり、床があり、鏡があり、そこへ両膝をついている自分がいる。女はいない。さっきまで目の前に広がっていたものは何一つ現実には存在せず、音だけが、今ここにあるものとして鳴っていた。
女からだった。
『この前の人と、また会うことになりました』
男は床に膝をついたまま、その文字を見た。
すぐには意味が入ってこなかった。
この前の人。
会う。
女が。
現実の女が、現実の誰かと会う。
何度か読み返しているうちに、ようやく思考が部屋の中へ戻ってきて、男はゆっくりと息を吐いた。
もう一度、音がした。
『また美味しい話が聞けそうです』
美味しい。
その一言を見た瞬間、身体の奥に残っていた熱が、またゆっくりと動いた。
女が喰う。
今度は想像ではない。
本当に。
男の口元が緩んだ。
まだ床に両膝をついたまま。
笑った。
そして、そんな男を鏡の中の誰かが見ていた。
さっきまで自分が何を叫んでいたのか、男は覚えている。何もなくなったら自分を喰ってくれと、全部やるからと、お願いだから見せてくれと、誰もいない部屋で鏡へ縋りつきながら懇願していたことを、何一つ忘れてはいない。
それでも。
女がまた喰う。
見たい。
まだ。
見ていたい。
男はしばらくそのまま鏡の中の自分を見つめたあと、ようやく床から立ち上がった。
服を整え、乱れた髪へ手をやり、何度かゆっくり息を吐けば、鏡の中には少しずついつもの男が戻ってくる。人と会えば笑い、何でもない話をし、仕事をして、誰かとすれ違っても振り返られることなどない、ごく普通の人間の顔だった。
その顔を見ているだけなら、ついさっきまで床へ両膝をつき、鏡の中の誰かへ縋り、自分を喰ってくれと懇願していた男など、最初からどこにもいなかったように見える。
女も知らない。
誰も知らない。
けれど男だけは知っている。
あれは消えたのではない。
服の下でもなく。
鏡の向こうでもなく。
今、何でもない顔をしてこちらを見返している、その人間の中にいる。
女がまた喰えば、きっとまた熱を持つ。
あの目を見れば、また震える。
そして、いつか本当に何もなくなった時、自分が何を差し出そうとするのかも。
男はもう考えなかった。
鏡の中には、いつもの男がいる。
男はその顔から目を逸らさなかった。
残る。 見ていたい。
女は歩いていく。
男も歩く。
隣を。
女に頼まれたわけではない。
自分だけが選ばれたわけでもない。
それでも。
男は自分から離れなかった。
離れるつもりも。
もう、なかった。




