女郎蜘蛛
腹が減った。
女は、その感覚を心地よいと思った。
満たされていないからではない。今日も充分に喰った。それでも時間が経てば腹は減り、また何かが欲しくなる。
以前なら、その感覚の理由を探したのかもしれない。
何が足りないのか。
何を欲しがっているのか。
なぜ、満たされたはずなのに、また欲しくなるのか。
今はもう、探さない。知っているから。
女は窓の外を見た。
街には灯りがあった。
一つではない。
数えられないほど。
その一つ一つの下に人がいて、それぞれが何かを知り、何かを持ち、誰かと繋がり、その向こうにはまた別の誰かがいる。
女の知らないことがある。
まだ触れていない世界がある。
会ったことのない人間がいる。
その数を考えるだけで、腹の奥がゆっくりと蠢いた。
女は笑った。
まだある。
いくら喰っても。
なくならない。
一人を知れば、その向こうにまた一人いる。一つを知れば、それまで見えていなかったものが現れ、そこへ触れれば、さらに別のものが見えてくる。
終わりがない。
以前は、それが遠く見えた。
どれだけ手を伸ばしても、その向こうにはまだ何かがあり、辿っても、辿っても、知らないものが残っている。
だから追った。
欲しいものを見つければ近づいた。
届かなければ、届く場所を探した。
細い糸しかなければ、その糸を辿った。
けれど今は。
追わなくてもいい。
女がそこにいれば、向こうから来る。
女の名前を知った人間が来る。
女に会いたいという人間が来る。
話したいという人間が来る。
そして、その人間がまた別の誰かを連れてくる。
女は笑う。
相手も笑う。
何も怖がらない。
誰も逃げない。
むしろ、自分から近づいてくる。
女の前へ座り、自分から話し、自分から差し出す。
女は、それを喰う。
喰われていることに気づかないものもいる。
気づいても、気にしないものもいる。
自分が何かを与えたことを喜ぶものまでいる。
そして。
喰われるところを見たがるものもいる。
女は少し笑った。
変な人。
そう思った。
けれど、巣から出す理由はなかった。
男は男で、自分がいたい場所にいる。
女が何かを欲しがれば、それを見ている。
女が喰えば、喜ぶ。
時々。
ひどく嬉しそうな顔で。
何がそんなに嬉しいのか、女には分からなかった。
聞こうとも思わない。男がそこにいたいのなら。
いればいい。
女は窓へ視線を戻した。
街の灯りは、まだ続いている。
遠くまで。
その向こうにも。
さらに、その先にも。
女はいつからか、自分の周囲にあるものを糸として見るようになっていた。
一本だけではない。
いくつもある。
遠くまで伸びたもの。
途中で細くなったもの。
別の場所へ繋ぎ直したもの。
同じ場所へ、違う方向から重なったもの。
残したもの。
もう使わなくなったもの。
切れたものもあった。
切らなかったものもあった。
それでも。
巣は残った。
一つがなくなっても、崩れない。
別の糸が支える。
全てが一本ずつ、どこかで繋がっている。
女はその中にいる。
端ではない。
もう、どこかへ辿り着くために糸へ掴まっているのでもない。
中心にいる。
巣の中心で。
腹が減れば、喰う。
満たされれば、待つ。
そして。
また腹が減る。
それでいい。女は目を開けた。
窓に、自分の姿が映っていた。
何も変わらない、いつもの顔だった。
もう追いかけなくてもいい。
糸を一本ずつ手繰らなくてもいい。
巣はある、人は来る。
女は待つ。
腹の奥が、ゆっくりと蠢いた。
腹が減る。
女は笑った。
大丈夫、もう。
ーー追いかけなくていい。待っていればいい。
巣の巣の中心で。私は女郎蜘蛛。ーーーーーー




