第6話 十歳のふたり、変わる呼び名と誕生日
十歳になった。
相変わらず、定期的にマッティアに会う時間は取られている。
最近は両親も忙しく、互いの信頼関係もあるため、屋敷で二人きりでお茶をすることも増えた。
マッティアに会わないと、私はなんだか落ち着かない。
でも彼は、呼べばすぐ駆けつけてくれる。
――――これで婚約していないなんて。
マッティアって、意外と頑固だったのね……。
本当は私のことを好きで好きで仕方ないはず。
……はずなのに。
あれだけ顔を真っ赤にするくせに、どこか他人行儀。
今日はそれを少しだけ消し去りたい。
中庭は、午後の光に満ちていた。
白い石畳と、低く整えられた生垣。
人の気配はなく、風の音だけがやわらかく耳に触れる。
「……失礼しました」
向かいに座るマッティアが、少し緊張した面持ちで言った。
「急に来てしまって。ご迷惑では……」
「いいえ」
私は首を振る。
「来てくれて、嬉しかったわ」
それは本心だった。
今日も花を抱えてマッティアは遊びにきた。カテリーナが昨日予定があり、日程が変更になったのにもかかわらず、すぐ別の日に調整してくれた。
一拍、沈黙。
マッティアはいつものように背筋を伸ばし、丁寧に私の名を呼ぶ。
「……カテリーナ様」
その呼び方に、胸がちくりとした。
「ねえ、マッティア」
呼びかけると、彼はすぐに顔を上げる。
「“様”は、なしで呼んでほしいの」
そう言った瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
「それは……」
困ったように、でも真剣に眉を下げる。
「身分が……」
「二人きりのときだけでいいわ」
私は少し身を乗り出した。
「今は、わたしとマッティアだけの時間でしょう?」
彼は言葉を探すように口を閉じ、そっと視線を伏せた。
「……では」
ゆっくりと息を吸う。
顔が、ほんのり赤い。
「カテリーナ様から……いえ……」
言い直そうとして、また黙る。
私は、先に言った。
「マッティア。もう、ずっと私はマッティアよ?だからあなたも様は無しで呼んで。」
名前を呼ぶだけで、彼の肩がわずかに揺れた。
「……はい」
「じゃあ、次はあなた。私は呼んだのだから」
私は微笑む。
「二人きりのときは、これから名前で呼び合うの」
沈黙。
マッティアは、何度かお茶に口をつけた。
ひと口。もうひと口。
(……落ち着いて、落ち着いて)
そんな声が聞こえてきそうで、私は内心、可笑しくなる。
「……カ……」
小さく、途切れ途切れに。
「……カ、テリ……」
言い切れず、またお茶。
私は何も言わずに待った。
そして――
「……カテリーナ」
ようやく、はっきりと。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……っ)
前世では、
「お嬢様」から始まり、やがて「王妃」と呼ばれるようになった。
でも今は。
“カテリーナ”。
ただ、それだけ。
私は思わず両手で胸元を押さえた。
「……ありがとう」
声が少し震える。
マッティアはまだ赤いまま、でもどこかほっとしたように微笑んだ。
「……その……」
一呼吸おいて。
「カテリーナ」
もう一度。
私は今度こそ、心から笑った。
「ええ、マッティア」
名前を呼び合うだけで、世界が少し近くなる。
不安は、いつの間にかどこにもなかった。
******
マッティアと出会ってから、私の誕生日には、必ず彼がいた。
豪華な宴の日もあれば、身内だけで静かに祝う年もある。
最初は私がどうしても会いたくて、家族の誕生会にマッティアの一家を呼んでもらっていた。
でも十歳になる頃には、あまりにも私が彼に会うのを楽しみにしているものだから、両親も微笑んで二人の時間を作ってくれるようになった。
思い返せば、どんな年でも――
彼は欠かさなかった。
「……お誕生日、おめでとう」
少し緊張した声で、両手で差し出される小さな箱。
「ありがとう、マッティア」
箱の大きさは、年によって違う。
けれど、開けた瞬間に分かる。
――私のために選んだものだ。
初めての年は、小さな栞だった。
淡い色合いで、装飾も控えめ。
でも、私の好きな花がさりげなく彫り込まれている。
「本、好きだったよね?」
それだけ言って、彼は少し照れたように視線を逸らした。
次の年は、手袋。
さらにその次は、髪をまとめるための小さな留め具。
どれも派手ではない。
高価すぎもしない。
でも、不思議なくらい全部、生活にすっと馴染んだ。
「ねえ」
ある年、私は聞いてみた。
「どうして、毎年ちゃんと覚えてるの?」
彼は少し考えてから、首を傾げる。
「……忘れる理由がないから」
まるで、朝に太陽が昇るのと同じみたいな言い方だった。
胸の奥が、きゅっとなる。
他の人からももちろん贈り物は届く。
宝石。
絹のおりもの。
香水。
でも、それらはどこか「侯爵令嬢への贈り物」だった。
マッティアの贈り物だけが、「カテリーナへの贈り物」だった。
ある年、彼は少しだけ悩んだ顔をしていた。
「……今回は、迷ってしまって」
「迷う?」
「君は、何でも似合うから」
真剣な顔で言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
「それ、褒めてる?」
「……褒めてるつもり」
そう言って、彼は小さな箱を差し出す。
中に入っていたのは、細いチェーンのネックレスだった。
主張しすぎない。でも品のある輝き。
「派手すぎるのは、あまり好まないようだから」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
――ああ。
この人は、私がどう見られるかじゃなくて、
どう感じるかを考えている。
その夜、私は鏡の前でそのネックレスをつけてみた。
ぴったりだった。
「……やっぱり」
小さく呟いて、笑う。
次の年から、私は彼の贈り物を特別な箱にしまうようになった。
宝石箱ではない。
思い出の箱。
手紙と一緒に、大切に。
それを見た侍女が、そっと言ったことがある。
「……本当に、仲がよろしいのですね」
私は少し考えてから答えた。
「ええ。そうね」
だって、これはもう“好意”なんて軽い言葉じゃ足りない。
私が誰かに選ばれている、のではない。
私が彼を選び続けている。
(もう、マッティアったら。どれだけ私を夢中にすればいいのかしら……)
少しだけ頬をふくらませる。
でも、彼を思うだけで笑顔になれる。
毎年の誕生日。
彼と過ごせる時間。
それは、私にとって何よりも確かな贈り物だった。




