第2話 ずっと隣にいた、選ばれなかった人
不意に、昔を思い出した。
死刑判決のあと、カテリーナは長く地下牢に閉じ込められ、やがて城から遠く離れた北の塔へと移された。
数えるほどの使用人しかいない。
冬の寒さは容赦なく、石壁は冷えきっている。
温かいスープも、柔らかいパンも、もう長く口にしていない。
そして――自分の顔も見ていない。
(……鏡がないほうが、幸せなのかしら)
毛先は荒れ、艶を失った黒髪はただ重たい。
もうずっと櫛で解いてもいない。
かつては舞踏会の華で、流行をつくり誰もが真似をした。
この髪も、この美貌も、両親が誇り、社交界が羨んだ。
私はそれを磨いた。
努力も、時間も、お金も惜しまなかった。
けれど、ときどき思う。
誰のために、私はそれをしていたのだろう。
「あなたは美しい、です」
優しい声が、ふと耳に蘇る。
あれはまだ幼い頃。
泥遊びをして顔じゅう泥だらけになった日のことだ。
そんな私に、彼は笑って言った。
そう、幼馴染の地味で…でも優しいマッティア。
あのときは信じなかった。
お世辞だと思った。
誰が、そのままの私を愛する?
親以外で。まして泥だらけの私を。
「そんなに自分を追い詰めないで。あなたはそのままで十分眩しいのに」
軟弱だと思った。
勝負の世界で、そんな甘い言葉は役に立たない。
「いちいち口を出さないで」
そう言って、突き放したこともある。
いつしか幼なじみとの距離は広がり、私は王太子しか見なくなった。
それでも――彼は完全には離れなかった。
伯爵令息マッティアは、いつも少しだけ後ろにいた。
肩を並べるでもなく、距離を詰めるでもなく。
視界の端に、静かに。
呼べば来る。呼ばなければ自分からは前には出ない。
それが、彼だった。
マッティアの家は伯爵家。
近年力をつけた家で、資金はあっても血統の重みは侯爵家には及ばない。
だから彼は分かっていたのだと思う。
自分が、私の隣に立つべき存在ではないと。
社交界で目立つ男ではない。
剣も座学も突出していない。
いや、ある程度はできるが、やはり見た目の地味さが先にたつ。
印象に残らなすぎるのだ。
声は穏やかで、話し方も控えめ。
でも彼は、ずっとそばにいた。
私が勝気な言葉を吐けば、困ったように笑う。
誰かを打ち負かせば、あとで静かに紅茶を差し出す。
「……あなたは、今日も忙しそうですね」
強引さも、非難も、なかった。
それが当時の私には、物足りなかった。
私はいつも戦っていたから。
言葉で勝つ。視線で制す。すべて1番になる。
立場でねじ伏せる。
私は強いと信じていたし、実際、強かった。
だから彼の穏やかさは、弱さに見えた。
「もっと主張すればいいのに」
「遠慮しすぎなのよ」
そう言うたび、彼は少し困ったように笑って、
「いいんだ。あなたがいるなら、それで」
と答えた。
その意味を考えもしなかった。
いや、知ろうともしなかった。
私は前しか見ていなかった。
光の当たる場所だけを目指していた。
自分の背後に立つ人の覚悟なんて、想像もしなかった。
*******
そして、無事王太子妃の椅子を勝ち取ったものの、すでに結婚する前から関係はぎくしゃくしていた。
夫婦の不仲とともに、可憐な愛人と王太子の運命的な話が民衆に流れる。
悪者にしたてられた王太子妃をかばうものなど、もう城や国ではいなくなるのには時間がかからなかった。
そして、あるはずのない罪が国をめぐり、断罪の気配が漂い始めた頃、城の空気は変わっていた。
噂が広がりになり、どこに行っても無遠慮な視線が刺さり、笑顔の裏に計算が滲む。
殿下の周囲には、別の花が常に咲いている。
花はいつも違う。美人、可愛い、素朴。
そんな話を何度も聞いた。
その中、一度はひねりつぶしたはずの女が、いつの間にか王太子の横にいる。確かカテリーナと同じ位置にいる侯爵家の令嬢だ。
城で一番日当たりがいい部屋をあてがわれていた。
(うそ、わたしは…勝ったはずでしょう…)
信じなかった。信じたくなかった。
今までずっと勝っているはずだったから。
でも、負け始めた人間は、自分が負けていることに一番気づかない。
ある夜、彼――――マッティアに呼び止められた。
時折彼が訪ねてくれる。
父からの手紙をもってくるのだ。父とマッティアの父は仲がいい。
もう、私的に訪ねてくれる友人などいなくなっていた。
「……話があります」
珍しく、強い声だった。
人気のない回廊。灯りは少なく、私たちの顔は半分影に沈んでいた。
「あなたは、このままでは……」
私が睨むと、マッティアは一瞬目を伏せ、それでも言った。
「一緒に、逃げましょう」
意味が分からなかった。
「……は?」
「ここじゃない場所がありますから。あなたを分かってくれる世界が」
声は震えていたが、視線はまっすぐだった。
「もう遅いかもしれない。でも、あなたが望むなら、僕は――」
その先を、聞かなかった。
(逃げる? 私が?)
誇り高き侯爵家の令嬢が、王太子妃の舞台から降りる?
ありえない。
「馬鹿なことを言わないで」
私は冷たく言った。
「私は勝つの。今さら逃げるなんて、選択肢にないわ」
彼は何も言わなかった。
ただ、少し唇を噛んで、いつものように笑った。
「……そう、でしたね。あなたは、強いから」
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
それから間もなく、すべてが崩れた。
――――――証拠。告発。裏切り。
でっちあげが事実にすり替わり、ほんのわずかな真実が巨大な罪に膨らむ。
私は守られなかった。
殿下は、私を選ばなかった。
臣下に罪を告発されても、言い逃れの弁明すら許されない。
そして、でっちあげの罪で捕らえられたのは――マッティアだった。
(――――――なぜ、彼が。)
問いかける暇もなかった。
地下牢で聞いたのは、マッティアの処刑が確定したという知らせ。
その瞬間、声が出なくなった。
(私を守ろうとした罪。私を逃がそうとした罪)
彼が国家転覆など考えるはずがない。
でも、私の背後にいたのは彼だ。
資金も、支援も、たとえ悪い噂で持ちきりになってもなんの見返りもなく、ずっと支えてくれた。
私の近くにいたからこそ、黒幕に仕立てやすかった。
つまり――私のそばにいたから。
だから、マッティアが邪魔になった。
面会も許されない牢の前で、ようやく己の罪を理解した。
マッティアは弱くなかった。
前に出なかっただけだ。
能力を誇示しない、競わない。
だから、いつも勝てるのに勝たない。
本当はきっと何か言いたいこともあったはずだ。
でも、否定しなかった。私を見捨てなかった。
最後まで、私を選び続けただけだ。
でも、もう遅かった。
彼は処刑台へ向かうと聞いた日。
私は地下牢で、ただ涙を流した。
逃げなかった私が。
勝つと信じた私が。
最後に、逃げた。
(彼についていったら、未来はかわった?)
選ばなかったのは、マッティアじゃない。
――私だった。




