第19話 夏の領地と、花畑の約束
卒業の年の夏休みが訪れた。
生徒会の役職も去年には交代し、カテリーナは学園生活最後の長期休暇を婚約者と過ごしていた。
カテリーナは、マッティアの領地を訪れている。
石造りの町並み。穏やかに流れる川。
人々の声は明るく、空気はどこか落ち着いていた。
「ここが……」
馬車を降りて、カテリーナは周囲を見渡す。
「あなたが、いつも話してくれた場所ね」
「はい」
マッティアは少し照れながら、でも誇らしげに頷いた。
屋敷だけではない。
市場。工房。畑。学校。
彼は一つ一つを丁寧に案内してくれる。
これまでも何度か行商についてきたことはある。
けれど、領地をここまで詳しく案内してもらうのは初めてだった。
行く先々で、声がかかる。
「おお、坊っちゃま!」
「今日は婚約者様もご一緒ですか」
「噂どおり、お美しい方だ」
その呼び名に、カテリーナは少し驚く。
“伯爵令息の婚約者”。
ここでは、それが自然に受け入れられていた。
それ以上に――
「坊っちゃまは、いい領主になられますよ」
「お父上にそっくりだ」
そんな言葉が、何度も聞こえる。
(……やっぱり)
カテリーナは、胸の奥が静かに満たされるのを感じた。
肩書きでも、派手さでもない。
領民を思い、努力を重ねてきたからこそ、ここで尊敬されている。
それが、誇らしかった。
――夕方。
二人は町から少し離れた草原へ向かった。
一面の花、見晴らしのいい場所。
「ここ、好きだわ」
カテリーナは大きな帽子を押さえながら振り返る。
「マッティア、こっち!」
「……危ないですよ!」
そう言いながらも、彼はすぐに追いかけてくる。
風。
笑い声。
草の匂い。
子どもの頃、同じように走り回った記憶がよみがえる。
――そう、ここは何度も来た場所だ。
二人が、これまでに時間を重ねてきた場所。
小さなマッティアも、そして今のマッティアも。
……全部、覚えている。
その時、カテリーナの足がもつれた。
「あっ――」
次の瞬間、強い腕が、体を抱きとめた。
二人そろって花畑に倒れ込む。
視界いっぱいの青空。
揺れる花、近すぎる距離。
胸が、高鳴る。
カテリーナは、マッティアを見上げ、そっとまぶたを閉じた。
――待つ。
……でも。
「……だめだ」
マッティアの声が震えていた。
「まだ……結婚もしていないのに……」
必死に視線を逸らす。
「学生なのだから……」
自分に言い聞かせるように。
「だめだ、だめだ……」
(……ああ)
カテリーナは、わかっていた。
だから、彼の胸元をつかんで、少し引き寄せる。
そして頬に、そっと口づけた。
一瞬、花が揺れる音だけが聞こえた。
「……バカ」
少しすねた声でカテリーナは潤んだ目で睨む。
「どれだけ待たせるつもりなのよ……」
次の瞬間、マッティアは完全に固まった。
耳まで真っ赤で、息が止まっている。
「カ、テ……!」
言葉にならない声。
カテリーナはくすっと笑った。
(……将来、またここに来よう)
この人と、この土地で。
またキスをしよう。
照れるマッティアの顔が、目に浮かぶ。
もう決めた。
この季節には、必ず二人でここへ来る。
夏の花畑は、その約束を静かに見守っていた。
*******
その日の夜。
マッティアの屋敷では、家族そろっての夕食が用意されていた。
大きな窓の向こうには、領地の夕焼けが広がっている。
席につくと、マッティアの父である伯爵がやわらかく笑った。
「いやあ、久しぶりだねカテリーナ」
商人のように人懐こい声。
厳格な領主というより、町の人に近い雰囲気だ。
「王都では顔を合わせていたが、こうして領地でゆっくり話すのは初めてだろう」
「ええ」
カテリーナも自然に微笑む。
「ずっと来てみたかったのです」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいね」
伯爵は嬉しそうに頷いた。
その横で、伯爵夫人が楽しそうにカテリーナを見つめている。
「本当に久しぶりね」
「奥様」
「もう奥様なんて言わなくていいわよ」
くすっと笑う。
「小さい頃はよくうちに来ていたでしょう?」
カテリーナも思わず笑った。
「覚えています」
「マッティアが本ばかり読んでいて」
マッティアが慌てる。
「それは……」
夫人は続けた。
「カテリーナが外に連れ出していたのよ、覚えてるかしら?」
「はい、私釣りは初めての経験で。楽しかった記憶がありますわ」
伯爵も笑う。
「マッティアは、慣れてるはずなのに川で魚を追いかけて転んだこともあったな」
「父上!」
食卓に笑いが広がった。
昔と同じ空気。
ただ一つ違うのは、今、二人が婚約者だということ。
食事が少し落ち着いたころ。
伯爵がカテリーナを見た。
「どうだい、この土地は」
カテリーナは窓の外を見る。
「とても好きです」
そして静かに続けた。
「皆さんの顔が穏やかです」
伯爵は満足そうに頷いた。
「それは嬉しいね」
「マッティアも、ずっとこの土地を大事にしてきましたから」
夫人がマッティアを見る。
「でしょう?」
マッティアは少し照れていた。
カテリーナはその様子を見て、ふっと笑う。
そのとき、夫人がふいに言った。
「カテリーナ」
「はい?」
「あなた、頑張りすぎるでしょう」
カテリーナは少し驚いた。
夫人は優しく続ける。
「王都ではいつも完璧だったもの」
「礼儀も、勉強も、立場も」
伯爵も頷く。
「まあ、侯爵家のお嬢さんだから仕方ないけれどね」
そして、慈愛に満ちた視線でカテリーナをみる夫人。
「でもここでは、そんなに気を張らなくていい」
夫人がカテリーナの手に触れた。
「ここでは、ただのカテリーナでいいの。息子と、仲良くしてくれればそれで十分」
マッティアが一瞬固まる。
カテリーナは静かに目を伏せた。
それから、微笑む。
「……ありがとうございます」
夫人はにっこり笑う。
「だってもう、娘みたいなものだもの」
マッティアが顔を赤くする。
「母上!」
伯爵は楽しそうに笑っていた。
「まあ、そういうことだ」
夕食はそのまま穏やかに続いた。
王都の社交とは違う。
派手さも緊張もない。
ただ、温かい時間。
カテリーナはふと思う。
(……落ち着くわ)
この場所なら。
この家族なら。
この人となら。
――きっと、穏やかな未来が続いていく。
******
そして、夜。夕食屋敷は静かに眠りはじめていた。
カテリーナはそっと部屋の扉を開ける。
白い寝間着のまま、廊下を抜けて庭へ出た。
夏の夜の空気は柔らかい。
昼間とは違う、落ち着いた匂いがする。
虫の声。
遠くの川の音。
(……静か)
王都とはまったく違う夜だった。
庭の中央には、小さな噴水がある。
水がやわらかく流れていた。
カテリーナはその縁に手を触れる。
ひんやりして気持ちいい。
そのとき――
「カテリーナ」
慌てた声。
振り向くと、マッティアが走ってきていた。
手には外套を手にして。
「そんな格好で外に出たら、風邪を引くよ」
少し息を切らしている。
カテリーナはくすっと笑った。
「大げさね」
マッティアはすぐに外套を肩にかけてくれる。
それはとても柔らかい絹の衣だった。
軽いのに、暖かい。
「……これ」
カテリーナが生地に触れる。
「この土地の絹?」
「はい」
マッティアは頷く。
「うちの領地の名産なんだ」
カテリーナは生地の滑らかさ、繊細さに目を見開く。
今回滞在してから気づいていた。
部屋着も、ドレスも、ショールも、全部、この土地の布。
しかもどれも驚くほど質がいい。
王都では、なかなか手に入らないものだ。
それを惜しみなく用意してくれている。
カテリーナは少し呆れたように笑った。
「贅沢ね」
「そんなことは」
マッティアは少し困った顔をする。
「カテリーナが快適に過ごせるなら、それが一番」
カテリーナは小さく肩をすくめる。
「本当に、心配性なんだから」
マッティアは真面目に言った。
「夜に一人で庭を歩くのは危ないよ」
「この領地は安全よ?」
「それでも……」
少し迷ってから言う。
「次からは、僕に声をかけて?」
カテリーナは少し視線をそらした。
「……でも……夜に二人きりだと」
少しだけ意地悪な声で言う。
「マッティアに、断られそうだったから」
マッティアは一瞬黙った。
……それから。
少しだけ困ったようにマッティアは笑う。
「うーん……、でも」
静かに続けた。
「それなら、僕がそばにいるから。呼んで?」
カテリーナは驚いて彼を見る。マッティアは真面目な顔のまま言う。
「――それに」
少し照れながら。
「結婚したら、いつもそばにいる」
カテリーナは何も言わなかった。
ただ、胸の奥が少し温かくなる。
(……ずっと、は無理よ)
領主の仕事。
王都への用事。
視察。
伯爵の跡継ぎで領地も広大、さらに大きな商会ももつ忙しい人だ。
でも、この人の気持ちは、ちゃんと伝わっている。
それで十分だった。
二人は噴水の縁に並んで座った。水音が静かに響く。
カテリーナが空を見上げる。
星が多い。王都では見えないほどの数だ。
「ねえ」
「はい」
「ここに住むの、いいわね」
マッティアは少し驚く。
「本当に?」
「ええ」
カテリーナは微笑む。
「朝は散歩して、昼はお茶を飲んで、夜はこうして散歩する」
少し楽しそうに続ける。
「あなたは書斎でお仕事、かしら?」
マッティアは苦笑する。
「そう、だね」
「私は日当たりのいい部屋がいいわ、庭が見える場所。この噴水が太陽の光に染まったらきれいでしょう?」
「それなら、東側の部屋がいいかも」
マッティアは真面目に考え始める。
「朝日が入るよ。暖かい」
カテリーナは笑った。
「いいわね……それで」
少し悪戯っぽく続ける。
「ティータイムは必ず一緒よ」
「うん」
「夜のお散歩も」
「うん」
「朝のお散歩も」
マッティアは少し困った顔で笑う。
「……努力します」
カテリーナはくすっと笑った。
「楽しみしかないわ」
夜の風が静かに吹く。
花の香りが漂う。
カテリーナは思った。
(……ここなら)
――きっと。
(……生きていける)
王都のような緊張も。
社交の重圧もない。
ただ、穏やかな時間。
隣には、ずっと一緒に歩いてきた人がいる。
噴水の水は、静かに流れ続けていた。




