第10話 こらえろ、調子にのるな、期待するな side マッティア
――調子にのるな。
胸の奥で、何度も言い聞かせる。
カテリーナが笑うたび。
振り向くたび。自分の名を呼ぶたび。
心臓が、簡単に裏切るからだ。
(……だめだ)
彼女は侯爵令嬢、カテリーナ。
名門の血を引き、社交界の中心に立つ人だ。成長するほど美しさは際立ち、視線を集め、噂を生む。
天井なんてないみたいな、神々しい美しさ。
社交界に出た今、彼女の話題で持ち切りだ。
「爆美女の侯爵令嬢」
「あの美貌を手に入れたい」
「彼女の美しさを愛でて、隣に立ちたい」
そんな声ばかりが耳に入る。
一方で、僕は――伯爵家。
新興寄りで金はあっても、血統は弱い。武勲もない。
剣の腕も並。華やかな場に立てば、どう見ても釣り合わない。
両親はそこそこ整っているはずなのに、僕だけどうにもぱっとしない。
だから僕は、カテリーナの一歩後ろに立つ。
それが正しい距離だと、信じてきた。
彼女の視界に入ることすら、本当は許されないのではないか。
そんなふうに思う夜だってある。
「……お付きとして、失礼のないように」
誰に言うでもなく呟く。
それでも――僕は満足している。
彼女の時間を、ある程度は独占できる。
父はカテリーナの父君と古くからの友人で、
「彼女の望むようにしなさい」
そう言ってくれた。
資金も惜しなくていい、と。
カテリーナのご両親からも、熱心に付き添ってほしいと頼まれている。
あれほどの娘だ。心配になるのは当然だろう。
いくら冴えなくても、僕が“お付き”でいることは、彼女の行動範囲を広げる。
そう、―――自分に言い訳もできる。
社交界に出るドレスを選びに、街へ出る。
僕の実家の商会が懇意にしている仕立て屋へ連れていく。
あらかじめカテリーナのことを話し、彼女が好みそうな色や生地を伝えておく。
彼女がそのドレスを纏えば、ドレスが何倍も輝く。
隣で見ているだけで、嬉しくなる。
ドレスを贈り、花を渡し、静かなレストランで彼女が微笑む。
胸が苦しくなるほど、幸せだ。
――でも、それだけ。期待してはいけない。
カテリーナは、いつかもっとふさわしい場所へ行く。
彼女の容姿、才能、社交力。
もっと強く、もっと眩しい人の隣へ。
彼女が望めば、一国の王子どころか、この大陸一の皇太子ですら彼女を求めるだろう。
社交界の空気は残酷だ。
「あの侯爵令嬢、最近ますます美しいわね」
「隣の伯爵?……ああ、お付きでしょう?」
その言葉を、僕は何度も聞いた。
耳を塞ぐことはできなかった。
最初は傷ついた。……でも慣れていった。
事実だからだ。
(――そうだ。お付きなんだ)
それ以上を望むのは、分不相応。
――そう思って、ずっと耐えてきた。
そんなある夜。
舞踏会の片隅で、決定的な光景を目にした。
彼女に話しかける貴族の青年。
家柄も良く、剣の腕も立ち、社交界でも評判の男。
カテリーナは丁寧に応じ、礼儀正しく、完璧に微笑んでいた。
――似合う。
二人が並ぶ姿は、絵になる。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
(……やっぱり)
僕は、――ここまでだ。
あの人の傍にふさわしくない。
その夜、決めた――。
身を引こう、と。
彼女が何も言わなくても、自分から距離を取ろう。
それが彼女を守る、一番穏やかな方法だ。
いつまでも彼女の時間を、僕みたいな男が奪うのは申し訳ない。
――翌日。
彼女の家へ呼ばれ中庭に向かう回廊で、彼女に向き合った。
「……話があるんだ」
いつもより、声が硬い。
カテリーナはすぐに察したように、こちらを見る。
「なに?」
その瞳の美しさに、息をのむ。
……見つめられるだけで、僕の心が揺れる。
だからこそ、言わなければいけない。
「これからは……少し、距離を置いたほうがいいと思う」
空気が、止まった。
「……どういう意味?」
僕は視線を逸らした。
「君は、もっと――」
言葉を選ぼうとして、失敗した。
「……もっと、ふさわしい人がいる」
――沈黙。
そして次の瞬間。
「……それ、本気で言ってるの?」
声は静かだった。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
――ただ、まっすぐ。
「君のためだ」
必死だった。
「君は、選ばれる人だ。僕は……君には不釣り合いなんだよ」
その言葉を、彼女は一歩近づいて遮った。
「違うわ」
「……」
「選ばれるかどうかじゃない」
カテリーナは僕を見上げる。
「私が、誰を選ぶかよ」
その一言で、僕の中の理性がぐらりと揺れた。
「……冗談だよね」
絞り出すように言う。
カテリーナは、首を横に振った。
「冗談じゃない」
――その瞬間。
なぜか脳裏に、見たことのない彼女がよぎった。
大人びて、やせ細って、疲れ切った顔。
それでも、決意だけは消えていない目。
――今度は、逃げない。
幻なのに、確かにそう言った気がした。
「あなたがいいの」
音をすべて失ったほどの衝撃。
期待するな、と言い聞かせ続けてきた心が、一気に崩れ落ちる。
「……僕は」
声が震える。
「僕は、君に何も――」
「いいの」
彼女は微笑んだ。
「それでいいの。それが、あなたでしょう?」
――ああ。
この人は、本気だ。
胸が、苦しくて、温かい。
同時に恐ろしかった。
失ったら、もう立ち上がれない。
――それでも。
「……少し、考えさせて。ごめん……」
それが、精一杯だった。
カテリーナは頷く。
「待つわ」
その言葉は、ただただ真っすぐだった。
彼女は美しく微笑んでいた。
目元に、ほんの少しだけ、光がにじんでいたのは――気のせいだっただろうか。
その夜、僕は眠れなかった。
……こらえろ。
……期待するな。
でも、胸の奥で別の声が囁いていた。
(……それでも。もし、彼女が本当に僕を選ぶのなら)
僕は、彼女を選んでいいのだろうか。
彼女と未来を生きる道を、夢見ていいのだろうか。
そうして夜は、更けていった。




