第二十五話 恋煩い
新年が明け、豊水村は穏やかな正月を迎えていた。
正月とはいえ、いつまでものんびりしているわけにはいかない。村人たちはそれぞれの暮らしを守るため、いつもと変わらず忙しない日々を送っていた。
そんな中、一人だけ様子のおかしい者がいる。
「千夜さん、おはよう!」
「……あ。おはよう、ございます」
「珍しいね、ぼーっとして。寝不足かい?」
元旦からというもの、千夜はまともに眠れていなかった。
頭の中では、元旦に起きた目まぐるしい出来事の数々が、何度も繰り返し再生されていた。
金子の協力。
宗一からの告白。
そして、孤月に対する自分の気持ち。
金子のことは素直に嬉しいと思った。
手首を捻ってしまって以来、嫌われているものと思っていたが以前よりも距離がずっと縮まった気がする。
素直に相談してよかった。
これからも役人として、いい同僚でいたい。
宗一のことは正直、戸惑ってしまった。
しかし、本人はこれまでと変わらず接してくれている。
昼間、顔を合わせたときには、
「千夜さん、昨夜はお疲れ様でした」
と、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくれた。
そのことに、千夜は内心ほっとした。
問題は、そこではない。
何よりも、孤月だ。
意識の半分以上を彼に持っていかれている。
自分の恋心を自覚してしまってからというもの、どうにも様子がおかしいのである。
朝。
「おはよう」
いつものように挨拶をする孤月。
千夜は、思わず斜め上からその顔をまじまじと見つめた。
整った顔立ちに、千夜を見上げる猫のような眼差し。少し不機嫌そうな口元も、見慣れているはずなのに、今日はいつもより二割増しでかっこよく見える。
「……っ」
千夜は慌てて一礼すると、顔を隠すようにその場から離れた。
「なんだよ、人の顔見て」
取り残された孤月の頭上には、大きな〝?〟が浮かんでいた。
仕事中。
孤月は黙々と藁仕事に励んでいた。農作業で使う草鞋を編んでいるらしい。
細い指が器用に藁を編み込み、形を整えていく。その横顔は、普段のふてぶてしい態度からは想像もつかないほど真剣で、見惚れてしまう。
「孤月様の編む草鞋は、やはり丈夫ですなぁ!」
「しかも、ほら。作りが美しいわぁ!」
「さすが!何でも器用にこなされますなぁ!」
村人たちが口々に褒める。
「お前たち、褒めすぎだ」
そう言いながらも、孤月はどこか満足げに笑っていた。
土地神である孤月が、村人たちのために草鞋を編む。本来なら、神様が人間のためにそこまでする必要はないはずだ。
それでも孤月は、嫌な顔ひとつせず、当たり前のように村人たちの暮らしを支えている。
そういうところもまた、尊敬せずにはいられないのだった。
昼食。
「ほら、ついてるぞ」
孤月が千夜の頬に手を伸ばした。
指先で米粒を掬い、そのまま何気なく口に運ぶ。
「……っ!」
千夜は、持っていた箸を止めた。
「なんだ、その顔」
孤月は千夜の反応を見て、愉快そうに口元を吊り上げる。
「べ、別に何でもありません!」
「ふうん?」
孤月は、面白がるように目を細めた。
普段の千夜であれば、こんなことをされても「恐れ入ります」と真顔で返すところなのだが。
最近は、どうにも立場が逆転してしまう。
孤月の、その意地悪な笑顔さえ愛おしく思えてしまう。
(……重症だ)
千夜は、こっそり顔を伏せた。
午後。
少し雪が降ったため、村人たちと雪掻きをすることになった。
千夜が外へ出ようとしたとき、足元の雪に気を取られていると、目の前にすっと手が差し出された。
「転ぶぞ」
顔を上げれば、孤月がこちらを見ている。
「ありがとうございます」
差し出された手を握る。思いのほか、しっかりとした手だった。
千夜の歩調に合わせて、孤月がゆっくりと歩き出す。
ただ、それだけ。それだけなのに。
(……嬉しい)
繋いだ手の温もりが、いつまでも消えなければいいのにと思った。
夕飯前。
「孤月様、子供たちと一緒にお風呂に入っていただけませんか?」
宗一の母親に頼まれ、孤月は子供たちを連れて風呂へ向かった。
しばらくすると、子供たちが楽しそうに笑いながら出てきた。
「孤月にーちゃん、また一緒に入ろうね!」
「はいはい、分かったからさっさと着替えろ」
そんな子供たちの後から、孤月が姿を現した。
金色の髪は少し濡れ、頬には湯上がりの赤みが差している。濡れた襟元から覗く白い肌も、いつもより妙に艶めいて見えた。
見た目は十六歳ほどのはずなのに。
どうして、この人はこんなにも大人びた色気を漂わせているのだろう。
千夜は、思わず目を逸らした。
「……おい、千夜」
「は、はいっ!」
「何をそんなに驚いてるんだ?」
「な、何でもありません!」
孤月は不思議そうに首を傾げた。
就寝前。
「子守唄、歌ってくれよ」
孤月は千夜の膝に頭を乗せ、甘えるように擦り寄っている。千夜の手を取ると、自分の頬にぴたりと当てて満足そうに目を細めた。
(……可愛い)
いつも偉そうで、意地悪で、何を考えているのか分からないくせに。こういうときだけ、ひどく無防備なのだから困る。
「……歌いますから、笑わないでくださいね」
「さあな」
「もう……」
千夜は小さく息を吐き、そっと歌い始めた。
普段の凛々しい声とはまた違う、高めの柔らかな歌声が響き、孤月は目を瞑って聴いていた。
歌い終わると、孤月は満足そうに目を開ける。
「意外とうまい」
「意外とは余計です!寺子屋の先生にも絶賛いただいたのですから」
千夜が胸を張ると、孤月はくっくっと笑った。
そして、いつもの千夜の表情であることを確認すると、何気ない様子で口を開いた。
「……お前さぁ。なんか今日ずっと様子がおかしかったよなぁ」
「そんなことはありません」
「ふうん」
孤月は、見透かすかのように不敵な笑みを浮かべている。千夜は平静を装っていたが、動揺がバレているのではないかとドキドキしていた。
それから孤月は、徐ろに膝の上から頭を離し、床にごろりと寝転がった。
「……なあ、千夜」
「はい?」
「口づけてほしい」
千夜は、息を止めた。
「……え?」
「嫌ならいい」
孤月は目を瞑ったまま、何でもないことのように言った。その横顔は、いつものように余裕たっぷりに見える。
本当は孤月も緊張しているのだが、千夜には分からなかった。
(……どうしよう)
そんな経験は、ない。
正確にはあるのだが、千夜は酒に酔っていて覚えていない。
この人はどうして、そんな無茶を言うのか。
また自分を困らせて楽しんでいるのか。
急に恨めしく感じ、そっと孤月の顔を覗き込んだ。
伏せられた瞼。
わずかに緊張した口元。
見慣れているはずの孤月の顔を見つめていると、恨めしさは次第に消えていき、
(………好き)
代わりに、その気持ちが胸いっぱいに広がった。
千夜は身を屈める。そして、そっと唇を重ねた。
ほんの一瞬。
触れるだけの、拙い口づけだった。
「!」
孤月が、はっと目を開ける。
目の前には、頬を真っ赤に染めた千夜がいた。
「……千夜?」
名を呼ぶ声が、思いのほか掠れた。
千夜は恥ずかしさに耐えながら、小さく頷いた。
「……嫌では、ありませんから」
その言葉を聞いた瞬間、孤月の表情がふっと和らいだ。
千夜の手を引き寄せると、今度は孤月から唇を重ねた。
先ほどよりも長い口づけに、千夜は思わず目を閉じる。
唇を離した後も、孤月は額を寄せたまま、千夜を見つめていた。
「……まさか、本当に応えてくれるとは思わなかった」
「いけませんでしたか……?」
「いや、……嬉しい」
孤月は千夜の頬に手を添え、もう一度その唇に口づけた。
それから、そっと首筋に顔を寄せた。
千夜は驚いて肩を震わせたが、逃げようとはしなかった。
「……孤月様」
「嫌か?」
千夜は少しだけ迷い、それから小さく首を振った。
「……いいえ」
その答えに、孤月は安堵したように目を細める。
「お前のことが、愛おしくて堪らない」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
千夜は、ふわりと幸せそうに微笑んだ。




