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第十三話 月夜



 その日の田植えを終えた頃には、空はすっかり夕闇に包まれていた。


「ほら」


 孤月は千夜に手拭いを差し出した。


「ありがとうございます」


 千夜は素直に受け取り、微笑んだ。

 その顔を見て、孤月も満足そうに口元を緩める。

 そして、今度は千夜の手を取ると、別の手拭いで泥を拭い始めた。


「孤月様、自分でできますよ」

「いいから、じっとしていろ」

「……はい」


 千夜は不思議そうにしながらも、大人しく手を預けた。孤月は、細い指に残った泥を丁寧に拭き取る。


 こうして甲斐甲斐しく世話を焼いていなければ、そろそろ千夜に悪い虫が着きそうだ。


 そう思いながら手を離した、その時だった。


「あの、千夜さん」


 宗一が遠慮がちに声を掛けた。


「よかったら、今夜は僕の家で休まれませんか?家族も皆、千夜さんとお話したいと言っているのです」

「それはありがたいお申し出です!ぜひ、お言葉に甘えさせていただきます」


 千夜が快く答えた、その直後。


「おい、待て。俺も行く」


 孤月が、すかさず口を挟んだ。


「え?孤月様も?どうしてですか?」

「お前、自分が俺の嫁になるという自覚はあるのか」

「はぁ?」


 千夜は心底、分かっていない顔をした。

 その反応が気に入らないのか、孤月はますます眉をひそめる。


「……とにかく、俺も行く!」

「でも、宗一さんに聞いてみないと…」

「僕は構いませんよ。孤月様も、是非いらしてください」


 宗一はにこりと微笑んだ。


 穏やかな口調だったが、孤月を見つめる目は少しも笑っていない。

 孤月もまた、宗一をじろりと睨み返した。

 二人の間には、誰の目にも明らかな火花が散っていた。


 ただ一人、千夜を除いて。


「では、参りましょうか。今日はよく働きましたねぇ……」


 千夜はのんびりと呟き、二人を置いて先を歩いていった。



*



「孤月様、千夜さん、いらっしゃい。さあ、上がってくださいな」


 宗一の母親は、二人を気さくに迎え入れた。


「千夜さん、田植えでお疲れでしょう。先にお風呂に入っていらっしゃいな」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」


 千夜が礼を述べ、風呂場へ向かおうとした、その時。


「孤月様はこちらへ。僕と一緒にどうぞ」


 宗一がすかさず孤月の前に立ち、別の部屋へと誘導した。


「おい、俺は風呂場に__」

「こちらです、孤月様」


 有無を言わせぬ笑顔と、孤月より一回り大きな体格で、宗一は孤月を引っ張っていく。

 神に向かって、なかなかの態度である。


 (……度胸だけはある奴だな)


 孤月はフンッと鼻を鳴らした。


 もっとも、宗一の思惑など、孤月にはお見通しだった。千夜と二人きりになる機会を、そう簡単に与えるつもりはないのだろう。


 だが、孤月とて引き下がる気はなかった。



*



 夕飯の席には、やはり酒が並んだ。


 孤月はもちろんのこと、宗一も顔色一つ変えず、かなりの量を嗜んでいた。

 一方の千夜は、早々に限界を迎えたらしい。


「……申し訳ありません。少し、酔いを覚ましてまいります」


 そう言って席を立った。


「あっ、千夜さん、僕も__」

「待て。俺も行く」


 宗一の言葉を遮るように、孤月が立ち上がった。




 外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


 戸口の椅子に腰掛けた千夜は、満月を見上げている。その隣では、孤月が壁にもたれて立っていた。


 千夜の頬はほんのりと赤く染まっている。


「お前、また赤いぞ。大丈夫か?」

「……見た目ほどではありません」


 千夜はそう答え、再び満月を見上げた。


 酒に酔うと、いつもの凛々しさが少しばかり影を潜める。目元が柔らかくなり、どこか無防備な表情を見せるのだ。


 (……可愛いな)


 孤月は胸の内で呟いた。


 こんな顔をする千夜を、他の男に見せたくない。ましてや、宗一などには。


「あまり人前で酒を飲むな」

「……なぜです?」

「お前、本当に俺の嫁になる気はあるのか」

「はぁ……」


 千夜は困ったように息を吐いた。


 いつもなら、すぐさま理屈を並べて返してくるというのに今夜はどうにも歯切れが悪い。


 孤月は調子を狂わされながらも、千夜の顔を覗き込んだ。


「お、お前は……俺のもの、なのに……」


 口にした途端、顔が熱くなった。それでも、今さら引き下がるわけにはいかない。


「そう簡単に、他の男に隙を見せるなよ」


 孤月は、どうにか最後まで言い切った。


 しかし千夜は、虚ろな目で彼を見つめた後「はぁ」と、曖昧な返事をするばかり。


 その様子に孤月は照れより、呆れが勝(まさ)った。


「お前……さては、分かってないな」


 孤月は額に手を当てた。


 ここまで言っても、まだ伝わらないとは。ならば、もう少し分からせてやるしかない。



 孤月は千夜の顎にそっと手を添え、その顔を自分の方へ向けさせた。


「……孤月様?」


 近づいた顔に、千夜が瞬きをする。

 孤月の金色の瞳が、すぐ目の前にあった。


 (……あ、月だ)


 千夜はぼんやりと思った。


 夜空に浮かぶ満月と、目の前の瞳。どちらも同じように、淡く金色に輝いている。


 そんなことを考えているうちに、孤月はそっと目を伏せた。


 そして__、


 触れるだけの口づけを落とした。


 ほんの一瞬。


 それだけだった。




 孤月がゆっくりと目を開けると、そこには顔を真っ赤にした千夜がいた。


「……お前、意外と初心なのだな」


 思いがけない反応に、孤月の口元が緩んだ。


「こ、恋のひとつも、まだ……っ」


 千夜は目を泳がせながら真面目に答えた。その様子が、どうしようもなく愛おしい。


 いつもは物怖じせず、どんな相手にも堂々と意見を述べる千夜が今はこんなにも狼狽えている。


「お前、そんな顔もするんだな」


 孤月は嬉しそうに笑った。


「……ますます好きになった」


 千夜の顔が、いっそう赤くなる。


 その反応を見るたび、孤月の胸は弾んだ。


 いつもは千夜に振り回されてばかりだというのに、今夜ばかりは違う。

 少なくとも、この瞬間だけは。


「……俺が、ただの神に見えるか?」


 孤月は、いつになく余裕のある顔で尋ねた。


 千夜は何も答えなかった。

 ただ、赤い顔のまま、じっと孤月を見つめていた。


 それを見て、孤月は満足そうに微笑んだ。


 この夜のことを、彼はきっと忘れないだろう。


 千夜が初めて、自分を男として意識してくれたかもしれない夜。

 孤月にとって、忘れられない思い出の一つとなった。






 __翌朝。


 期待と緊張を胸に、孤月は千夜に声を掛けた。


「……おい、千夜。昨夜のことだが」

「昨夜?何かありましたか?」

「……は?」

「申し訳ありません。お酒を飲みすぎたようで、よく覚えていないのです」


 千夜は、いつもと変わらぬ真顔で答えた。

 孤月はしばらく、言葉を失った。


 昨夜の自分のときめきも、千夜の赤い顔も、あの口づけも。

 どうやら、千夜の記憶には残っていないらしい。


「…………」


 孤月は空を仰いだ。

 あの夜の月が、今はどこにも見当たらなかった。


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