恐ろしい人
がたごとと馬車は揺れる。しばらく、ぼんやりと流れ続ける景色を眺めていた。
……ついに、この国を出るのね。
チェムター国。私が生まれ育った国。そして、決して振り返ってはくれなかった国。
ーー大切にしたかった。
ーー大切にされなかった。
ーーアオリでいたかった。
ーー妹から抜け出せなかった。
私の握りつぶされた願いの結果に思うことはある。でも国に対する未練は完全に消えていた。
恨むのも憎むのも馬鹿らしい。
私を顧みない場所のことを、もう一欠片さえも考えたくはない。
そんな自分になれないと、自分のこともさらに嫌いになりそうだった。
……ああ、でも。
「おねえ……スカーレット様には感謝をしなくっちゃ」
姉の知らぬ間に国外追放という形になってしまった。でも、姉はもっと穏便な方法で私を自由にしてくれようとしていた。だから、無事に隣国についたら、姉にだけは手紙を書こう。
……そういえば。
いつも肌身離さず持ち歩いている香り袋をポケットからとりだした。
ずいぶん昔にもらったのに、それでもなお、柔らかく私を包み込む香り。
この香りを嗅ぐと、私はいつも貧しくても優しくて温かかった遠い過去を思い出していた。
姉と潜り込んだ薄い布団も、お下がりばかりのドレスも、お母様の固いパンも。
私にとっての幸せの全てだった。
「!」
開けた窓から入った風が、香り袋のリボンを奪っていく。
「……あ」
私の大事な思い出がーー……。
「でも……いい加減、卒業しなきゃね」
あの温かい日々に執着した結果がいまだ。
だからーー。
私は香り袋を握る力を緩めた。
それによって、香り袋の中身も風に攫われてしまう。
でも、胸は痛まなかった。
代わりにどこか清々しささえ、感じてーー……。
「……!?」
おかしいわ。
香り袋をさらっていった外に視線を向ける。
先ほどまで走っていた街並みを外れ、森の中に入った馬車に強い風が当たっていた。
「……そんな、」
隣国ーーリーフデ国に行くには二つルートがある。一つは、正規ルート。その名の通り、正規に認められたルートであり、安全だ。難点としては、隣国につくまで一週間かかること。
そして、もう一つのルート。それは通称死のルートと呼ばれる。理由は、魔の森と呼ばれる深く暗い森を通るためだ。そして、魔の森にはその名の通り、恐ろしい怪物が出る。それでも、森を抜ければ、最短で隣国につくことができる。
正規ルートが時間がかかるのも、この魔の森を避けるためだ。
もちろん、御者がうまくこの森を抜けてくれればいいけれどーー。
そんな甘い話はないのだとわかっていた。
「……あ」
考え通り、馬車はすぐに止まった。
強い風が吹く中、扉を開けられ、乱暴に降ろされる。
「やめーー!」
「直接手が下されないだけ感謝するんだな」
「……!」
呆然と御者を見る。
御者は憎々しげな顔で私を見ていた。
「スカーレット様を悲しませるなど、万死に値する」
私が死んだら、姉は悲しむかはわからないけれど。いい気分にはならないとは思う。
冷静な部分ではそう思った。
でも、言い返せぬまま、馬車はすぐに立ち去ってしまう。
「……殺してやりたい、って言ってたものね」
あの人の言葉を思い出す。
でも、わざわざ御者も危険に晒してまで魔の森にこなくても、身一つで隣国に追いやられた小娘の行末が簡単ではないことなどわかりきっている。
それでも、より傷つける方法を選んだ。
本当に、番のためならどこまでも残忍になれる人だ。
「……こわい」
空を見上げればいつのまにか、日は落ちて、真っ暗になっていた。
私はおそらくこの後、怪物に殺されるのだろう。
死ぬのは怖い。これから私を襲うであろう怪物も怖い。
でも、それ以上に怖いのはーー。弁明も理由も何一つ聞かずに、その大切な番の家族と知っていながら、こうまでできるあの人が何よりも恐ろしく思った。
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